「――――、―――」 「――、――――」 ぼそぼそと話声が聞こえ、ゆるゆると爆豪は意識を浮上させた。ぱちぱちと瞬きを繰り返して、そこではじめて自分が眠っていたことに気がついた。落ちたという自覚すらない。 「起きたか」 「…………あぁ?」 声に目を向けると、相澤がいた。なんでいるんだろうか。いや、そもそもここはどこだっただろうか。思わずあたりにきょろきょろと視線をやると、相澤がはぁとため息をついた。なんだこいつ。そう思った瞬間、ずきっと痛んだ頭に思いだす。そうだった。自分はいま熱があるのだった。 「お前、その熱じゃ今日の授業はもう無理だ」 「……そうかよ」 「そんでお前んちに連絡を入れたんだが誰も出なくてな」 「あぁ〜……いまはいねぇな」 「いつ帰ってくるかわかるか」 「十九時は、過ぎるんじゃねぇの……」 聞かれるがまま、素直に答えれば相澤はまたしてもため息をつく。教師ってのは面倒くさそうなものだ。そう思いながら爆豪は相澤に告げた。 「連絡なんていらねぇよ小学生じゃあるまいし……なに、もう帰っていいのかよ」 「アホか、お前電車通学だろ。家が近所ならともかくそんなんで一人帰せるわけねェだろ」 「平気だっつーの……っけほ、……ちょっとやすめば、一人でかえれる」 咳交じりに主張すると相澤は、より一層大きなため息をついた。そして、仕方ねぇな、とうんざりした様子で頭を掻きながら相澤は言う。 「とりあえず、今は寝てろ。んで、授業全部終わったら俺が家まで送っていくから」 「はぁ? んなの必要ねぇって……っ」 「いくらお前が大丈夫だって主張してもな、はいそうですかとはいかないんだよ。お前は生徒で、俺は教師なんだから」 わかったらわがまま言ってねぇでおとなしく寝てろ、放課後に迎えに来る。そう最後に言って一方的に会話を切り上げた相澤はそのまま保健室を出ていった。大きなお世話だと言ってやりたかったが、その背中を追いかけることはできない。くそが。吐き捨てて爆豪は投げやり気味に枕に顔をうずめた。今日は、なにからなにまでままならぬ日だ。 ゆるゆると意識は揺れる。けほっと零れる咳に目が覚めて、またぼんやりと眠りにつくことの繰り返し。就眠と覚醒の合間をふらふらと漂い続けると、色々な感覚があいまいになってくる。どれくらい眠ったのだろうか。それすらわからない。 「けほッ……、げほげほッ」 大きな咳に、身体をくの字に曲げる。息苦しい。あぁもうなんで俺がこんな目に。舌打ちをこぼそうにも、咳が止まらなかった。その時ふいに、すっ、と背中を撫でる感触があった。固い手のひら。だが、優しい感触だった。その手のひらにするすると背中を撫でられ、呼吸がいくらか楽になる。手のひらは、そのまま咳が落ち着いても離れることはなく飽きることなく優しいまま。 爆豪は、リカバリーガールの手にしては大きく固いその感触に、相澤が宣言通りに迎えに来たのだと身を起こそうとしたが、熱い身体は重たくて動かすことができなかった。それどころか、ふたたび襲ってきた眠気に意識が遠ざかる。 「……――――」 声がする。けれど、それは不鮮明でなにを言っているのかはわからなかった。起こすならもっと大きい声で起こしてほしい。そうすればきっとしっかり目覚めるはずだ。爆豪はそう思ったのだが、相澤がそれ以上なにかを言うことはなかった。ただ黙って背中を撫でる感触に眠気は強くなる一方で、爆豪はちゃんと起こそうとしない相澤は悪いと決めつけると、ふたたび眠りにつくことにした。 「おい、爆豪。起きろ」 次に意識が浮上したのは、明確に名前を呼ばれたからだった。 「爆豪」 「……ん、ん」 「おい、ほら。寝てたいのはわかるが起きろ」 「わぁ、ってる……っ」 相澤の言う通りまだ寝ていたかったが、肩をゆすられて今度はなんとか起ききることができた。相変わらず頭は痛いしあちこちだるいが、眠ったおかげで多少ましになった。気がする。 これならやはり自力で帰れるんじゃないだろうか。そう思って相澤を見たが、なぜかすぐに「却下だ」と返された。くそが。言う通りにすりゃいいんだろ言う通りに。内心ではぎりぎりと歯ぎしりをしながらも、爆豪は大人しく従うことにした。 ゆるゆるとベッドから抜け出して床に足をつける。そのまま脚になんとか力を入れて立ち上がると、リカバリーガールが「はいよ」と鞄を差し出してきた。教室に置きっぱだったはずのそれをなぜリカバリーガールが持っているのか。首をかしげるとリカバリーガールは言った。 「お友だちが持ってきてくれたよ」 「あ〜……、そう」 その友だちとはだれか。いつ来たのか。爆豪はあえて尋ねなかった。 「持てるかい? 大丈夫?」 「べつに……けほっ」 これくらい平気だと強気に返そうとして、咳がこぼれる。説得力がない自覚がありながらも咳を噛み殺して、爆豪は鞄に手を伸ばした。しかし、受け取る直前で横から伸びてきた別の手が鞄を攫っていってしまう。手の主はほかでもない、相澤だ。 「おいっ」 「いいから、さっさといくぞ。歩けるか?」 「だから、へーきだっ」 これくらい。今度こそしっかり言い返して、保健室を出ていく相澤のあとに続く。相澤の足取りはひどくゆっくりしていた。時折、確認するように振り向いてくる視線が鬱陶しい。けっきょく相澤は車につくまで鞄を返してくることはなかったし、気遣わしげな視線をやめることはなかった。 見慣れぬ車に相澤が乗りこむ。あんたのかと聞けば肯定が返ってきた。「運転なんてできるんだな」と暗に似合わないと告げれば「そう言うお前も、風邪なんて引くんだな」と返された。風邪を引くなんてらしくない。そう言いたいのだろう。 爆豪は舌打ちをした。そんなこと自分がよく分かっていた。こんなのらしくない。原因がわかっているだけにとても苛立って仕方なく、爆豪は窓にごんと頭を預けるとそのまま目をつぶった。相澤はちらりとこちらの様子を窺ってきたが、無言のままでいる爆豪にそれ以上声をかけてくるようなことはなかった。 「本当に一人で大丈夫か?」 家の真ん前に停められた車から降りると相澤が言った。 「がき扱いしてんじゃねぇぞ」 「……ったく。いいか爆豪、水分補給はちゃんとして大人しく横になってろよ。携帯は手の届く範囲においとけ。そんで少しでもヤバイと思ったら遠慮なんかせず救急車を呼べ。いいな?」 「…………」 「爆豪」 「わぁってるよ……」 渋々、頷けば相澤は少し表情を緩めた。どこか、ちいさな子ども見るような眼差し。あぁ、もうだからなんでそんな目で見られなければいけないのか。これもやはりあいつのせいだ。爆豪さっさと相澤に背を向けると、気をつけろよと最後に聞こえてきた声に返事もせずに扉を閉めた。 速攻で部屋に向かい、ベッドに倒れこむ。その拍子にまた頭が痛んで顔をしかめた。ぐりぐりと枕に顔を押しつけて、痛みが引くのを待つ。忌々しい。けれど、こんな風邪どうせ明日になれば治るだろう。それよりも忌々しいのは、風邪ではないほうで頭を痛ませてくる問題のほうだ。 「…………」 そちらの問題も明日になれば自然と解決しているだろうか。想像してみるが、今日一日のあの男の態度にそれは望み薄だろうなと言わざるを得なかった。本当に面倒くさい。爆豪はぐぅと喉奥で唸り声を上げながら、もぞもぞとシーツにもぐりこむとそのまま丸くなった。こんな日が、あと何日も続くのだろうか。 「きりしまの、くそやろうが……」 全部全部、切島が悪い。根性なしの腑抜け野郎。あんだけ普段男らしさに拘っているくせに、なんなんだあいつは。男らしいが聞いてあきれる。あほ、ばか、くそが。拙い罵倒を繰り返しながら、爆豪はますますその身を丸めた。 気がつけば、また眠っていた。だが眠りは浅く、またしても就眠と覚醒を繰り返す。時折、全部悪い夢だったのではないだろうかという錯覚に陥っては、息苦しさと頭の痛さに現実を突き付けられる。 何度も何度も繰り返して、今日だけでもう何回目の目覚めだろうか。幾度目かの覚醒に、はぁ、と意味もなくため息をつきながらスマホで時間を確認すると十七時を過ぎたころであった。家の中は静かで、誰かが帰ってきている気配はない。 喉が渇いたなと思うが取りに行くのは面倒で、どうしようかと迷う。そうしているうちに、ふと手の中のスマホが震えた。誰かからのLINE通知。爆豪はなにも考えないまま、通知を開いた。 『爆豪、いま起きてるか?』 届いたメッセージを見て、すぐさま顔をしかめた。そして既読にしてしまったことを心の底から後悔した。すべての元凶からのメッセージに開いてしまった画面を苦々しく睨みつける。なにかしらの返事をしておくか、それともそのままスルーするか。悩んでいるうちに、既読に気がついたらしく次のメッセージがきた。 『熱、大丈夫か?』 当たり障りのないメッセージ。こんな内容、わざわざ送ってくるほどではないだろう。そう思いながらも、爆豪は「平気」とだけ返してやった。実際、風邪自体は本当に大したことなどないのだ。ヤバイと思ったら救急車を呼べなどと相澤は言ったが、この程度なら大人しく寝ていればすぐ治る。 しばらくして、また一つメッセージが届く。 『実はさ、いまお前んちの前にいるんだけど』 「はぁ?」 思わず声を上げた。慌てて身を起こし窓から玄関のほうを見ると、確かに見覚えのある赤い髪が落ち着きなくうろうろと歩きまわっているのが見えた。なにをやっているのか。呆然とその様を見ていると、ぱっと切島が顔を上げた。あ、と思った時には目と目があってしまう。視線の先で、切島がびくりと身体を揺らした。そして、へらりと笑ったかと思うと、ひらひらとぎこちなく手を振る。 「くそ髪野郎が……」 なんで来てるんだよ……。 当然、手を振りかえすなんてことはしない。してたまるか。爆豪は窓から顔を離すと、額に手を当ててうつむいた。今度こそ無視してしまおうか、悩む。できることなら無視してしまいたかった。今日はもう、本当に疲れた。これ以上、煩わせないでほしい。けれど、だからと言って、ここまできて今さら無視して逃げるという選択肢は爆豪には、ない。 爆豪は顔を上げると、意を決して立ち上がった。 重たい身体を引きずって玄関まで行き扉を開けると、窓を見上げたままの切島の姿がそこにはあった。玄関が開いたことに気がつくと、途端におどおどきょろきょろしだす。相変わらず、苛つく挙動をしている。まるでどっかのクソナードを思わせるその様子に目元を引きつかせながら、爆豪は簡素に尋ねた。 「なにしにきた」 「わ、悪い爆豪。寝てたよな」 「おい、なにしにきたって聞いてんだよ……」 「……悪い。あの時、お前の身体めっちゃ熱かったし、それに相澤先生に聞いたらお前いま一人だって言うしさ、それで、大丈夫かな、って心配で、思わず」 「……あっそ。ならもういいだろ」 心配するほどのもんじゃねぇよと爆豪はすぐに扉を閉めようとした。だが、がつっ、となにかが挟まり扉を閉めることはかなわない。視線を落とせば、硬化した切島の手が見える。 「なんのつもりだ? あぁ?」 「心配なんだよっ、一人じゃいざって時に危ないだろ?」 「ただの風邪にいざなんて時あるわけねェだろ」 「馬鹿野郎、風邪だからって甘くみんなよ! 風邪がひどくなって肺炎になっちまうことだってあんだぞ! ……なぁ、せめて、誰か帰ってくるまでさっ、居ちゃだめか?」 「……だめだって言えば、お前は帰るのか?」 「いや……、帰らない」 ちいさいくせに、固い意志の感じられる声だった。爆豪ますますは苛立った。だが、いつものように怒鳴り声を上げることはなかった。しばらく切島を見つめたのちに、ふっとドアの部から手を離す。 「勝手にしろ」 「……おう」 ふらふらと爆豪は部屋へ戻る。後ろを切島はついてくる。その気配を感じながら、爆豪はある一つのことを決意した。他人に振り回されるなんて、ましてや逃げ出してしまいたいなんて感情に捕らわれるなんて冗談じゃない。だから、もうこれで終わらせてやる。そう決めた。 このぐだぐだな現状に終止符を打ってやろう。明日も同じ理由で頭を悩ませるのは勘弁だ。終わらせてやる。そしてその先、ふたたび始まるのか、そのまま終わってしまうかは、それはすべて切島次第だ。バランスよく進んでいた関係を始めに崩そうとしたのはこの男なのだから、決着もこの男につけさせてやる。 部屋について早々に、爆豪は着ていた制服のシャツに手をかけた。ぷつりぷつりとボタンを外す。すると、続いて部屋に入ってきた切島がぎょっと目を見開いた。ぶわっ、とその顔が頭と同じ色に染めあがる。 「な、な、なにしてんだ爆豪っ!?」 「なに、って、着替えて寝直すんだよ。くそが」 「え……、あっ、あー、そ、そうか。そうだな。あっ、お、俺、外で待ってようかっ?」 「はぁ? 別にわざわざそんな必要ねェだろ」 女じゃあるまいし。 ぷつり、とさらにボタンを外しながら、爆豪はいけしゃあしゃあと答えた。切島をちらりと横目で窺えば、はっとしたように目をそらす。見てはいけないものを見てしまったかのような反応。わかってて仕掛けたことだが、予測通りの反応にうんざりする。こいつは、自分が今どんだけ不自然な反応をしているか自覚があるのだろうか。 「顔、赤いぞてめぇ」 「え、や、気のせいじゃね……」 「……ふぅん」 ほとほとこいつは嘘が下手だ。全然、まるで取り繕えていない。これで友だちだと言うのだから笑える。腹を抱えたくなるほどに笑える。だが、そんな素振りは一切見せずに、爆豪はさらに仕掛けた。 「てめぇこそ熱あるんじゃねェの」 とぼけながらボタンを外すのを止め、代わりに切島の額に手を伸ばす。そうすれば切島はさらに慌てた様子で半歩後ずさった。それすらも素知らぬふりで距離をつめれば、爆豪っ、と強く静止の声を上げられる。無視してもよかったが、別に本当に熱を測りたいわけではないのだ。いったん身を引いて爆豪は尋ねてみせた。 「なんだよ」 「それ以上くんな……! 熱なんて、ねぇからよ」 「けど、顔赤いじゃねぇか」 「そ、れは、だから……、いいから気にすんなって」 「まさか、この短時間でうつったか?」 「……からかってんなら、やめろよ。爆豪」 切島の声が低くなる。爆豪は目を細めた。 「からかう? なんのことだ」 「っ、わかってんだろッ!!」 しつこくとぼければ、ついに切島は怒鳴った。ぎゅっと強く手を握り、口元はぎりぎりと噛みしめられている。切羽詰まった表情。どうやら、揺さぶりは成功したようだ。くそが。なにがわかっているだろ、だ? ふざけるな。 「わかんねぇよ」 爆豪は切島の言葉を否定した。 本当はわかっている。でも、やっぱりわからない。だって、そうだろう。 「お前が言ったんだろ、切島」 |
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