白い瞼が持ち上がって、夕日によく似た瞳がのぞいた。それは今までずっとずっと待ち望んでいた色だった。ようやく見ることのできた色に、切島の胸は躍る。
 しかし、状況を考えると素直に喜ぶべきか否か悩むところだった。あれ……、ちょ、これって、完全に怒られるパターンだよね? っていうか、爆ギレ必須だよね? 完全に、自業自得ではあるのだが……。
「あ〜……、起きた? 爆豪」
 いけないことをしているという自覚はちゃんとあった。ただ、どうしても止めることができなった。なぜなのか。その答えは簡単かつ明確であった。






「っ……、…………」
 切島はそわそわと落ち着きがなかった。理由は切島の斜め前の席にある。いつもそこにあるはずの背中がない。二十ある椅子たちの中で唯一の空席。つい先ほどまで確かにそこには爆豪の色素の薄い髪が日に当たってきらきらとしていたはずなのに、どういうことだろうか。爆豪がいない。あともう少しで本日最後の授業が始まるというのに……。
「爆豪のやつどうしたんだ?」
「……わっかんねぇ」
 上鳴が尋ねてくるが、切島は答えを持たない。
 爆豪が教室を出ていく姿は見た。だが、トイレかなにかだと思った切島は声をかけなかった。ただ単にトイレが長引いているだけなのか。それならべつにそれでいいのだが、もしかしてなにかあったんじゃないか。そう思うと、切島のそわそわは落ち着く気配がなかった。

 今か今かと爆豪の帰りを待ち受ける。
 その時ふいに、がらり、と扉が音を立てて開いた。切島はその音にすばやく顔を向けた。だが、教室に入ってきたその人物は切島の望む爆豪ではなかった。
「授業始めるぞぉ……」
 やる気というものをあまり感じられないその声は相澤のものだ。
 ゆっくりとした足取りで教壇につき、教室を見渡して一拍。相澤は尋ねた。
「おい、爆豪はどうした」
「それが、まだ戻ってこねぇみたいで……」
 切島はもごもごとあいまいに答えた。
 きゅ、と相澤は眉をひそめた。訝しむような表情。爆豪は言葉遣いも悪いし、どこぞのヤンキーかってくらいに制服を大胆に着崩しているが、決して授業をサボるような奴ではない。あれで授業は座学であろうとしっかり受けるやつなのだ。切島はそんな爆豪のことをよく理解していたし、それは相澤も同じのはずだ。だからこそ、この表情なのだろう。
 相澤も爆豪不在の理由を知らないとなると、これはいよいよ爆豪の身に不測の事態が起こったと言うことではないのか。切島の背にひやりとした嫌な感覚が走る。脳裏に浮かぶのは合宿のあの日の夜のことだ。心臓が潰れそうなほどに苦しかった爆豪不在の三日間。
 ぐぅ、と切島は唇を噛みしめた。ここは学校だ。滅多なことなど起こることはないだろうとは理解している。だが、とてもじゃないがこのまま普通に授業を受けることなどできない。切島は相澤に爆豪捜索を提案しようとした。
 するとその瞬間、教室の扉が再度がらりと音を立てて勢いよく開かれた。

 はっ、と切島は息を飲む。今度こそ爆豪か。そう思って目をやった。だが、違った。スカートの裾がひらりと揺れ、一緒にサイドでまとめた長い髪を揺らすその女子生徒は、B組の拳藤であった。B組ももう授業が始まっている時間であるはずなのに、一体どうしたのだろうか。
 みんなが疑問符を浮かべて彼女を見つめる中、拳藤は慌てた様子で相澤へと向かう。
「イレイザーヘッド先生っ」
「なんだ、どうした」
「それが、実はさっき向こうのほうで生徒同士の喧嘩がありまして……」
「喧嘩だと?」
「はい、それでその、どうやらその喧嘩に爆豪が巻き込まれたみたいなんです」
「爆豪がッ!?」
 爆豪の名にいの一番に反応したのは切島だった。がたっ、と音をたてて席を立ち、続けてほかの生徒もざわりと反応を返した。落ち着け、と相澤が言う。
「巻き込まれた……、爆豪自身が喧嘩をしたわけじゃないのか?」
「はい、そうみたいです」
「怪我の有無は」
「すみません、そのあたりは私もあまりよく把握していなくて……、喧嘩自体はミッドナイト先生が抑えたみたいなんですが、ちらっと見た限りなんか爆豪はミッドナイト先生に抱えられてぐったりとしているようでした」
 どうやら拳藤はたまたま喧嘩の現場付近を通りがかり、よく分からないままにミッドナイトに伝言を頼まれただけらしい。しかし、拳藤の告げた内容はそれだけで十分にインパクトがあるものだった。あの爆豪が、ミッドナイトに抱えられてぐったりしていた?
 ざわめきが大きくなる。切島の心臓も大きく音を立てた。ただ一人、相澤だけが、そうか、と静かな声で頷き、そのまま切島たちに向かって告げた。
「お前ら、しばらく自習だ。俺は爆豪の様子を見てくる」
「ッ先生! 俺も! 俺も行きます!」
「…………」
 ぐっ、と強く拳を握って、切島は声を荒げた。相澤はめんどくさそうに目を細める。しかし、すっかりその気の切島を落ち着かせて待機を納得させるのは少々手間がかかると判断してか、好きにしろ、と投げやりな許可をくれた。

 教室を出て、こっちです、と駆け足で進む拳藤の後ろを相澤とともに続く。その間も頭には嫌な想像ばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。爆豪、爆豪。大丈夫なのか、怪我は、意識は……。ぐるぐる思考は止まらなかった。気ばかりがはやって仕方がない。
 ひたすらに足だけを進める。そうすると、次第にがやがやと騒がしい喧騒が耳に届いた。さらに音のほうへと近づけば、何人かの生徒の姿と、その生徒になにやら指示を飛ばしているらしいミッドナイトの姿が見えた。その腕の中には、見慣れた白金色が抱えられている。
「爆豪ッ!?」
 拳藤が言っていた通りにぐったりとした様子でミッドナイトに抱えられているその姿に、切島は声を荒げた。ばっ、と拳藤と相澤を一気に追い抜き、爆豪のもとに急ぐ。
「爆豪ッ、爆豪!?」
 大声で声をかける。けれど、爆豪から反応が返ってくることはなかった。夕日色をしているはずの瞳は閉じられたまま。意識がないのだと気がついた瞬間、切島の頭は、がんっ、と誰かに殴られたような衝撃に襲われた。
「い、一体なにが……ッ、おいっ、爆豪!!」
「はいはい、大丈夫よ。ただ眠ってるだけだから」
 さらに声を荒げる切島に、そう言ってきたのは爆豪を抱えるミッドナイトだった。はっ、と切島はミッドナイトを見た。すがるような眼差しで、声を震わせながら問う。
「眠ってるだけ……、ほ、本当ですかっ?」
「本当よ、だから大丈夫」
「け、怪我とか……ッ、頭とか打ったんじゃ……!」
「それも大丈夫、無傷よ。だから、はい。ちょっと替わりに持ってもらえる?」
「あ、え、はいッ!」
 爆豪を差し出されて、切島は慌ててその身体を両腕で受け取った。落とさないようにと胸元にぐっと引き寄せる。そうすれば意識のない爆豪の頭がぐらりと力なく揺れて、首にもたれかかってきた。
 その拍子に首筋に爆豪の唇が触れる。薄く開かれたその唇からは、すぅ、すぅ、と穏やかな呼吸が漏れて、くすぐったい感触が切島の首筋を撫でた。だが、そのくすぐったい寝息に本当にただ寝ているだけなのだと実感できた切島は、はぁあ、と詰めていた息をどっと吐きだした。そのまま脱力しそうになって、慌てて両腕に力を込める。
「なにがあったんです……」
 そんな切島を横目に、相澤がミッドナイトに尋ねた。
「ただの生徒同士の喧嘩よ喧嘩。なにが原因かはまだわからないんだけど、お互いにだいぶ頭に血が上がっちゃってたみたいでねぇ。しかも両者とも体格のいい異形型の個性を持った子たちだったから、ただの殴り合いでも相当な騒ぎになっちゃって……」
「それで制止するために強制的に眠らせたと」
 相澤が言うとミッドナイトは頷いた。そして、ふと視線を廊下の隅のほうへと向ける。釣られてそちらを見れば廊下の隅のほうに寝転がされた二人の生徒の姿があった。たしかに、体格のいい二人だ。
「ただまぁ、あの二人を寝かせたはいいんだけど、偶然通りかかったその子のことまで眠らせちゃってねぇ……」
「…………」
「そういうわけだからその子の授業欠席は見逃してあげてちょうだい」
「……はぁ、わかりました」
「それで私はあの二人の担任を待ちながら喧嘩を目撃した生徒たちから話を聞きたいから、このままその子のことお願いしていいかしら?」
「…………いつ頃目覚める予定で?」
「う〜ん、そうねぇ……、異形型の子に合わせてちょっと強めにやっちゃったからねぇ、まぁ放課後までは確実に起きないわね」
「…………」
 はぁ、と相澤はため息をついた。そして拳藤にお前はもう戻っていいぞと声をかけてから、切島に一瞥を寄こし歩き出した。
「切島、爆豪保健室に運ぶぞ」
「あ、はい」
 切島は、よいしょ、と爆豪を胸元に抱え直してから、慌てて相澤のあとを追った。さっきとは違い、ゆっくりと歩く黒い背中に同じくゆっくりと続く。ミッドナイトの口ぶりからちょっとやそっとのことじゃ起きないだろうことはわかっていたが、できるだけ抱える爆豪を揺らさないよう無意識のうちに気をつけながら保健室を目指す。
「まったく、巻き込まれ体質だな爆豪は……」
 その途中で、相澤が独り言のようにぽつりと呟く。本当にまったくだ。切島は声に出さずに同意した。フィルターがかかってるのもあるんだろうけど、なぁんか危なっかしいんだよなぁ。

「よっ、と……」
 保健室についた切島は空いていたベッドに爆豪を寝かせた。そしてそのまま、相澤がリカバリーガールに説明しているのをよそに、じっと爆豪を見つめた。眠る爆豪はひたすら静かだ。身じろぎの一つもなく、試しに、そ、と撫でるように髪に触れてみても、反応はない。
「…………」
「切島、戻るぞ」
「え、あぁ、はい」
 説明を終えたらしい相澤に促されて、切島は爆豪から手を離した。
「じゃあ後でまた来るからなー、爆豪」
 一言告げてから保健室を出る。当然のことながら、返事はなかった。


◇  ◇  ◇


 授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。
 その瞬間、切島はばっと席を立った。お先に失礼します! と相澤が教室を出るよりも早く、ぴゃっと教室を飛び出る。授業終わりでまだ人の少ない長い廊下をだだっと走り抜けて、すぐさま保健室へと乗りこむ。
「失礼します! 爆豪どうですっ?」
「おやおや、早いお迎えだねぇ。あの子ならまだぐっすり眠っているよ」
「そう、ですか……」
 爆豪を寝かせたベッドへとそそくさと近づけば、確かに爆豪は切島が保健室をあとにした時とまるで変わらない様子で眠っていた。爆豪〜。声をかけてみてもその寝顔は変わらない。あまりにも静かすぎて、ちゃんと呼吸しているだろうかと不安になって顔を近づけると、小さな寝息が聞こえた。
「怪我はないんすよね?」
「あぁ、大丈夫だよ。ただ寝ているだけさね」
 あらためて確認して、切島はほっと息をついた。拳藤の話を聞いたときはそれこそ心配のあまり心臓が痛くて痛くて仕方がなかったが、本当に大したことがなくてよかった。穏やかな寝顔を見つめながら、心底思う。
「あんま心配かけんなよなー」
 爆豪は巻き込まれただけでなにも悪くないとわかっていたが、言わずにはいられなかった。仕方がない。爆豪に関しては、もうそう言う性分なんだ。今さら変えられないし、きっとこれからも変わらない。

 切島は先ほどもそうしたように爆豪の髪に触れた。まぁるい綺麗な形の頭を撫でて、小さな呼吸の音に耳を澄ませる。ミッドナイト先生はいつ頃起きるって言ってったけ。思いだそうとするが、あの時は爆豪のことばかり気にかけていたから、ミッドナイトがなにを言っていたかちゃんと思いだすことはできなかった。
 うぅむ、と首をかしげる。ちょうどその時、遅れて相澤が保健室へと姿を現した。
「爆豪はどうだ」
「まだ起きません」
 尋ねられて、今度は切島が答えた。相澤は切島の隣に立つと、確認するように眠る爆豪へと手を伸ばし、その頬をぺちぺちと叩いた。だが、切島が告げた通り爆豪は起きない。どうします? 尋ねると相澤は、ふぅ、と息を吐いた。そして仕方がないとでも言うように首を振ってから答えた。
「どうするもこうするもない。ただ寝てるだけだからな……、あくまで自然に起きるのを待つしかない」
「やっぱ、そうっすか」
「ただまぁ、このまま保健室に置いたところで目覚めが早くなるわけでもなし、……いっそ部屋に戻しちまうか」
 そうすりゃどんだけ寝てても問題ないだろ。
 そういうもんなのか? とちょっと雑な担任の言葉に首をかしげつつも、切島はそれじゃあと提案した。
「俺、こいつ連れて帰っちゃっていいっすか?」
「……じゃあ、頼む」
「了解!!」
 任せてください! 切島は大きく胸を張って宣言した。むしろ俺以外には任せないでください! と言ってしまいたいほどだったがさすがに我慢した。そんなことを言ったとばれたら間違いなく怒られる。まぁ、怒るであろうその爆豪は夢の中から帰ってこず、聞かれる心配はないのだから言ってしまってもよかったのだが、切島はちゃんといい子にして見せた。


◇  ◇  ◇


「よ、し……、とうちゃーく」
 勝手知ったるなんとやら。部屋まで到着した切島は、わがもの顔で爆豪の部屋へと足を踏み込んだ。慣れた足取りのまま爆豪のベッドまで行き、保健室からずっと抱えて運んだ身体をそっと寝かせてやる。
「しっかし、ほんとによく寝てんなぁ」
 保健室の時もそうだったが好き勝手に運び下ろし上げても爆豪はまるで目覚める気配がないまま、眠り続けている。流石ミッドナイト先生だ。なんて思いながら同時に、どうするか、と考えてみる。だが、いくら考えてみたところで相澤が言っていた通りなにができるわけでもない。
 まぁ、とにかく爆豪が起きるまで待ってるか。切島はすぐにそう結論づけると爆豪の寝顔から視線を外すと、部屋の角にある本棚へと目をやった。そのままそこから一冊の雑誌を手に取り、爆豪が眠るベッドを背もたれにして座りこむ。雑誌は表紙から見るに登山雑誌のようだ。これを暇つぶしに、爆豪が目覚めるのを待とう。すぅすぅと聞こえてくる安らかな寝息に耳を傾けながら、切島は雑誌を開いた。

 そのままどれほどの時間が経っただろうか。いくつかの雑誌を読み終わったころ、ふと爆豪の部屋のシンプルな時計を見上げると、針はもうすぐ夕食の時間を指そうとしているところだった。そう言えばそろそろ腹が減ってきたな。切島は腹をさすりながら雑誌をローテーブルに置くと、ベッドに腰掛けあらためて爆豪の顔を覗き込んだ。
「おぉい、起きろよ爆豪。もう夕飯の時間だぜ」
 声をかけながら軽く肩をゆする。
 だが、爆豪は相変わらず無防備な寝顔を切島に晒している。その眉間にいつも刻まれている皺はない。そんな爆豪の様子に切島は逆に、ぐぅ、と眉をひそめた。
「いつまで寝てんだよぉ、ばくごー」
 さらに声をかける。仕方がないこととは言え、無反応続きの爆豪にいい加減少し寂しくなってきた。声が聞きたいな、と思う。今この瞬間、爆豪の声が聞きたい。切島と名前を呼んでほしい。なんなら、クソ髪でもいい。
「ばくごー、爆豪爆豪、爆豪ってば、いい加減起きろよ爆豪っ」
 とにかく、呼んでほしいその一心で何度も爆豪の名を呼んだ。何度も何度も。普段であったら、これほどしつこく呼ぼうものなら、うるっさい! と爆破の一つでももらったことだろうほどに。
「おーい……、起きねぇとキスしちまうぞぉ……」
 あまりの反応のなさに、そんなことを言ってみながら切島はそろそろと顔を近づけてみた。鼻先が触れるほどの距離でいったん止まってみる。一拍。切島は宣言通り爆豪の唇に、ちゅ、と口づけた。触れるだけの静かなキス。五秒数えて、すぐに顔を離した。しかし、爆豪の白い瞼はその瞳を覆ったまま。しばらく見つめていてもぴくりとも動くことはなかった。
「……そりゃそうだよな」
 もしかしたら、なんて期待した。けれど、王子さまのキスで目覚めるお姫様など、やはり本の中だけの話であるようだ。まぁ、そもそも自分は王子さまなんて柄じゃないし、ましてや爆豪がお姫さまなど、本人に知られたら爆破されること必須だろう。
(それでも、俺からしたらどこのお姫さまよりも大切な存在だけどな……)
 心の中でぽそりと呟きながら、切島はさらに口づけた。くさい台詞だと自覚はある。でも、それはどうしようもないほどに事実であった。少なくとも、ほんの少しその姿が見えないだけでそわそわしてしまったりだとか、数時間でも相手にされないだけで軽く拗ねてしまう程度には、たまらなく好きだった。
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