顔を上げれば向かいには爆豪の姿がある。今日の昼はカレーを選んだらしい。普通のカレーと比べると少し赤い気がするカレーを掬ったスプーンが、緩く開けられた口に運ばれる。白い頬がちいさく膨れ咀嚼し、同じく白い喉元が揺れて嚥下されていく。
 なんてことない、ただの食事動作。だというのに、口を開くたびにちらりと覗く赤い舌にわけもなく心臓がはね、スプーンを引き抜いた後にぺろりと唇を拭うその動きにかぁっと腹の底が熱くなる。そしてあの衝動が、どっ、と身体中を突き抜けるのだ。



「爆豪、好きだ」

 ついこの間のことだ。はじまりはなんてことのない、爆豪の部屋で勉強を教えてもらっている最中。ノートを見おろす伏し目がちの瞳が、窓から差し込む夕日にきらりと輝いていて、どうしてかその瞬間思わず秘めていたその想いを口にしていた。
 切島はすぐに我に返って玉砕に身を固めた。だが、やはりどうしてか、衝動のままに伝えた想いは、こくりとちいさく頷いた白金によって奇跡的に成就した。
 その瞬間の衝撃たるや言葉に言い表すのはとても難しい。
 動揺のままに思わず立ち上がって、「え、あ、マジで!? いいの!? ほ、本当に? ちょ、ま、待って意味わかってる!? ダチとしてじゃなくて、そ、そういう意味で好きなんだけど!? いいのっ? いいのっ!?」とまくし立ててしまい「しつこい、嫌ならいい」と言われて速攻で腰を九十度に曲げ頭を下げた。なんとも格好の付かない告白だったと、思いだすと少し恥ずかしい。
 だが、そんな羞恥は爆豪と恋人関係になれたという事実一つであっという間にどこかへ吹き飛んでいってしまう。だって、好きなんだ。告白は衝動でも、その想い自体はずっとずっと前からこの胸に宿っていて、爆豪の些細な動作にすら飛びはねていた。それほどまでに、好きなんだ。

 しかし、だからこそ、悩ましい問題が切島を襲っていた。
 夜も眠れなくなるほどに深い深い問題。その原因はほかでもない、愛する爆豪だ。
(あぁあぁあああめっちゃ爆豪とキスしてぇ……っ!!!)
 切島鋭児郎、十五歳。ただいま青春真っ盛りである。


「切島? どうかしたん?」
 かけられた声に切島は、はっ、とした。顔を上げると、爆豪の隣で塩ラーメンを昼食に選んだ上鳴が口もとをもごもごとさせながら、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「はっ、え、なに?」
「いや、なんか箸止まってっけど。腹痛か?」
「あ、あ〜……」
 手もとを見るとまだまだ量の残ったハンバーグ定食がそこにはあった。爆豪に意識を取られるあまり、上鳴の指摘通りいつの間にか箸が止まってしまっていたらしい。切島は、なんでもない! と力強く返答すると急いでハンバーグ定食をかっ込みはじめた。
「ふぐ、ごふ……ッ」
「あー、あー、もう大丈夫かよ」
 かっ込みすぎて喉が詰まった。瀬呂が差し出してくれた水で慌てて流し込んで、ふぅ、と一息。なにやってんだか。自分に自分で思う。
「はっ、なにやってんだか」
 すると、呆れたように爆豪がそう言った。頭の中を見透かされたようで、ちょっとどきりとする。もしかしてずっと見ていたことも気がついていたのだろうか。そう思いながら爆豪に目をやるが、爆豪はもうすでにこちらのことなど気にかけていない様子で食事を再開していた。
 スプーンが爆豪の口へと運ばれていく。切島の意識は、またしてもその口もとに吸い寄せられた。上鳴がラーメンを食べている姿にはなにも感じるものなどなかったというのに、相手が爆豪となるとどうしてもその動作一つ一つが気になってしまう。
 ぐっ、と切島は強い意志を持って魅惑の唇からなんとか視線を引きはがすと懲りずにハンバーグをかっ込んだ。
 
 
 
◇  ◇  ◇
 
 
 
「あぁ〜、もう、ちくしょ〜……」
 切島は一人自室で頭を抱えた。
 頭に浮かんでくるのは、昼間のあの光景である。ゆるゆると開かれた口に、ちらりと覗く白い歯と赤い舌。焼き付いて離れない、爆豪の姿。
 最近、ずっとこんな感じだ。爆豪の口もとを意識してしまって仕方がない。触れたらどんな感触がするのか、温度がするのか、気になって気になってぐるぐると思考はループする。どうしたらいい。どうすればこの悶々とした感覚から解放されるのだ。
「うぁああああ、でもキスしたいもんはキスしたいんだよぉぉおお」
 ごろんごろんとベッドの上で転げまわる。
「もう我慢の限界なんだよぉ……」
 キスしたいキスしたいキスしたい。キスしたくてたまらない。
 なぜキスがしたいのか。そんなの決まっている。爆豪が好きだからだ。爆豪が好きだからキスがしたい。なにひとつ不思議ではない、当然のこと。
 そうだ、当然のこと。そうやって考えてみるとなにを悩む必要があるのだろうか。だって、好きな人とキスしたいなと思うのは自然で当然のことだ。なにも恥じることなどなく、心を痛める必要もない。
 そして喜ばしいことに自分と爆豪はお付き合いをしているのだ。好きだと告げた切島に爆豪が頷いたあの日から、恋人同士である。切島は爆豪が好きで、爆豪も切島が好き。好きなもの同士、口づけを交わすのは当たり前ではなかろうか!
「そうだっ、そんなの当たり前だッ!」
 いつまでも悶々としているなんて男らしくない!
 いい加減、がつんと言ってやろうではないか!
 よしっ、と切島は力強く頷き起ち上がった。そうとなったら善は急げだ。切島は勢いのままずんずんと勇ましく扉に向かうと、隣の部屋へと向かった。


 とんとん、と爆豪の部屋の扉をノックする。
「爆豪、俺だ。入っていいか?」
「……あぁ」
「お邪魔しまーす」
 がちゃり、と開けた扉の先、爆豪はベッドを背もたれにして本を読んでいた。
「あのさ爆豪、話があんだけど……」
「待て、あとちょっとで読み終わる」
「あ、おう……」
 部屋を出た勢いのまま早速、お前とキスをしたいのだ! と秘め続けていた衝動を告白しようと思っていたのに、おもいっきり出鼻をくじかれてしまった。一瞥すらよこさずに、爆豪は手にした本を読み続けている。
「…………」
 切島は無意識のうちに力がこもってしまっていた肩をすとんと落とすと、そろそろと爆豪の隣に腰掛けた。そのまま爆豪の横顔をじっと見つめる。爆豪が読んでいる本は小説のようだ。ちょっと見えたページにはちいさな文字がびっしりと書かれていた。

 本といったら漫画ばかりな切島と違って、爆豪はけっこう読書家だったりする。図書室から本を借りてきては、切島が宿題のプリントにうんうん唸っている横で一通りの勉強をし終えた爆豪が本を開く、と言うことが今まで何回もあった。
 一緒に勉強をするようになってから知った爆豪の意外な一面。本を読む爆豪の横顔はいつも静かなものだった。眉間に皺のよっていない、とてもフラットな表情。
 爆豪はずっと本を見つめたまま、まるで切島のことを気にかけていない。だが、切島は出鼻こそ挫かれてしゅんとしたが、爆豪の素っ気ない対応自体はそれほど気にしてはいなかった。
 むしろ、自分のことをあまり気にかけない静かな爆豪の横顔を見つめることを切島は結構好いていたりする。自分という他人がすぐ傍にいるのに、まるで気にかけず自然体のままでいる爆豪の様子に、許されているような受け入れられているような、そんな気がして心が浮つく。
 たぶんだけど、こんな爆豪の横顔を知っている人はそんなにいないことだろう。ましてやそんな爆豪のすぐ傍にいることを許されている人など、自分以外にはいないのではないだろうか。そんな風に思っては、さらに心が浮つくのだ。
 自分は爆豪にとって特別な存在である。その事実が、とても嬉しい。好きだなぁ、とあらためて実感する。そうして、好きで仕方がない爆豪とお付き合いをしている事実にさらに気分は天へと昇っていくのだ。嬉しいなぁ、幸せもんだなぁと思って、最終的にはこう思うのだ。あぁキスしたいなぁ、と。


 気がつけば目は爆豪の横顔ではなく唇を見つめていた。その唇に触れたら、はたしてどんな感触がするのだろうか。またしても想像してしまう。その瞬間、ぱたん、と本が閉じられて切島はびくっと肩を揺らした。
 どうやら本を読み終えたらしい。爆豪は本をテーブルの上に無造作に置くと、ようやく切島のほうへと視線を向けた。赤い目と視線が合う。
「んで、なんのようだ」
「あー、その……、えーと、なぁ」
「んだよ」
 尋ねられて言葉に詰まる。あんだけ意気込んで部屋を出たはずなのに、なんということだ。しっかりしろ鋭児郎! ガツンと言うと決めただろう漢らしくいくんだ!
 ぐぐっ、と切島は眉間に力を入れた。
「爆豪っ!」
「っ……!?」
 がばっ、と力強く爆豪の肩を掴む。ふいうちだったのだろう、爆豪はびくりと身体を跳ねさせた。けれど、気を使ってやれるほどの余裕はなかった。心臓がばくばく跳ねすぎて口から飛び出していってしまいそうだ。
「俺っ、俺……ッ!」
「な、なんだよ……」
「俺、爆豪と、爆豪と!!」
「っだからなんだよ!」
「爆豪と、キ、キスがしたい! ……です!」
 やってしまった。
 へたれた。最後の最後でどもった上にへたれてしまった。

「…………」
「…………」
 沈黙が落ちる。切島に取ってとても気まずい沈黙だ。
 言ったすぐそばから、もっとなにか言いようがあっただろう! と後悔の念が湧いてくる。いや、しかしいまはそんな後悔に構っている暇はない。
 どんな形であれ、切島は言ったのだ。言ってやったのだ。ずっとずっとこの身を苛み続けた欲望の衝動を。それに対して、はたして爆豪はどんな反応を返してくれるのか……。
「……切島」
「……はい」
「お前、まさかそれが用事か?」
「……はい、そのまさかです」
 思わず敬語のまま答える。
 無意味に肩に力を入れながらさらなる言葉を待つ。ふざけるな。くだらねぇ。なに言ってんだ。変態。気持ちわりぃ。頭にはいくつもネガティブな言葉が浮かんでは消えていく。前3つはまだ、百歩譲って、まだ、なんとか、ぎりっぎり耐えられるとしても、最後の2つみたいなことを言われたらショックすぎて泣くかもしんねェ……。切島は震えた。
「ふぅ〜ん……」
「……う、あの、爆豪……」
「だからてめぇ、最近ずっと人の口もと見てやがったのか」
「えッ、な、なんでそれを……ッ!」
「露骨過ぎんだよ、てめぇの目は」
 まじでか。見ているという自覚はあったが、気がつかれているとは思わなかった。うわぁ、と切島は焦った。やっぱり気持ちが悪いと思われていたのではないか。不安がぶわりと全身に襲い掛かってくる。
「で?」
「えっ?」
「すんのかよ、キス」
「っ……!」
 キス。爆豪の口からキス!
 たった二文字の、なんてことのない言葉であるはずなのに、すごい破壊力だ。頭がくらくらするほどに。そのうえ、爆豪はなんと言った? すんのかよ。なにを? ……キスを!? 切島は大きく目を見開いた。
「い、いいのか?」
「俺はするのかしないのかって訊いてんだよ」
「っ、する! キスする! 爆豪とキスする!!」
「連呼すんな」
「わりぃ!」
 威勢よく謝ると、今度はうるさいと言われて切島は声量を落としてもう一度わりぃと謝った。すっかりテンションが上がっている。でも仕方がない。だって、爆豪とキスができるんだぞ……!
「で?」
「んん?」
「俺にどうしろってんだ」
「え、っと……、じゃあ、その、目ぇ瞑ってくんね?」
「……ん」
 言われるがまま、爆豪は目をつぶった。しやすいようにか、わずかに顎を上げたそれはいわゆるキス待ち顔というやつで、切島は心の中で、う、うわぁあああ、と大きく叫んだ。なんだこれなんだこれなんだこれ! なんて言うか……、なんて言うかなんだこれ! 言葉になんねぇ!!
 切島は目を見開いたまま、まじまじと爆豪を見つめた。顔の作りがいいことはもうとっくに知っていたが、これだけじっくり見つめてもやっぱり爆豪は作りの良い顔をしていた。凶暴な表情ばかりしているせいであまり意識することは多くないが、目を伏せて頬に睫毛の影を落とす爆豪は控えめに言ってもとても綺麗だった。
 けっして顔で好きになったわけではないが、思わず見惚れる。
「……おい、さっさとしろよ」
「ひゃ、はい!」
 促されて、はっ、と意識を取り戻す。
 そうだ、なにをぼぅっとしている。いま自分はなんのためにここにいる。なんのために爆豪は目を伏せている。ここまでお膳立てされといてビビってんじゃねぇぞ鋭児郎! 今度こそ漢を見せろ!

 心の中で自分を鼓舞しながら、どぎまぎと切島は爆豪に顔を寄せるとその唇に唇を重ねる。勇ましい心の声とは裏腹にそれはとてもそっとした静かな口づけであった。
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