大きな爆音が辺りに響いた。びりびりと空気が揺れ、黒煙が空へと昇っていく。その黒煙を切り裂くようにして爆豪の身体がしなやかに宙を舞い、翼もないのに縦横無尽に動きまわる。頭の装飾がまるで蝶のようにひらひらと揺れて美しく、そんな爆豪にヴィランは翻弄されっぱなしだった。
 ぼんっ、とふたたび爆音が響く。さらに間髪入れずに音が続く。防戦一方。勝敗は誰の目から見ても明らかだった。
 爆豪が笑う。ヒーローらしからぬ、しかし、これ以上ないくらいにヴィランを威圧する強気で勝気な笑み。きっとヴィランは盛大に後悔しているころだろう。なぜこのようなヒーローがいる地域で個性犯罪なんかしてしまったのだろうと。
「死ねやクソモブがぁあああ!!」
 爆豪とっておきの爆破が炸裂する。ヴィランはうめき声も上げられずに倒れた。それだけの威力、けれど、大きな爆破のわりに周囲への被害はない。

「さっすが爆豪だなぁ」
 ヒーロー爆心地の大活躍。その様子を切島はすぐ近くの建物の屋上から見ていた。
 こんなところから、こんなふうに爆豪の仕事っぷりを見るのははじめてで、いささかテンションが上がった。けれど、その一方でハラハラしてもいた。相変わらず爆豪は凄い。
 凄い、の、だが……。
「やっぱ今日も顔色わりぃな」
 今朝、家を一歩出た瞬間から爆豪はずっとなんてことのないように振る舞っていた。不調なんてまるで感じさせないように、普通に、普段通りに。しかし、切島からしたら無理をしているのがありありと見て取れていた。
「…………」
 切島は昨日夕食もとらずに寝てしまった爆豪を思いだし、顔をしかめた。
 じつは爆豪が食事を抜いたのは昨日の夕食だけじゃない。ずっと傍にいたから知っている。今朝も爆豪は飯をとっていなかった。一切なにも食べなかったというわけではないが、コンビニで買ったゼリー飲料だけでは食事と認められるはずがない。
 朝食はその日のパワーを蓄えるのに大切なものだと、そう言っていたのはほかでもない爆豪だ。朝の仕度に追われて、たびたび適当な菓子パンで腹を膨らませることのあった切島に、てめぇヒーロー舐めてんのか? ときっちりしつけ直してくれたのも爆豪だ。
 その爆豪がパンどころかゼリー飲料だけで朝食を済ませるなど、切島からしてみれば信じられないことだった。ヒーローは身体が資本だ。それをよくわかっている爆豪は自身の健康管理に余念がない。その爆豪が朝食をおざなりにしている。それは、それだけ現状が爆豪にとって平常ではないということのなによりの証拠だった。
 無理をしている。しかし性質が悪いことに表面だけ見れば、爆豪の様子に大きな変化はない。相変わらず群を抜いた戦闘センス、敵を圧倒する凶悪な笑み、辺りに響き渡る強烈な爆音、威圧的な怒鳴り声。まったくこんなところまで才能ってやつはあるのかと思ってしまうほどに、爆豪はうまく自身を取り繕い、不調を気取られないでいた。
 もどかしいと見ていて思う。こんな幽霊状態でなければいますぐにでも爆豪のもとに駆け寄って、無茶をするなと大声で言ってやりたい。美味しいものをたらふく食わせて、暖かなベッドに寝かしつけて、大丈夫だって声をかけ続けてやりたい。
 しかし、現実としていまの切島にできることはなにひとつなかった。
 昨日あれだけ声をかけても届くことのなかった言葉の数々に、切島は嫌でも理解せずにはいられなかった。いまの自分はただの傍観者で、舞台で活躍する役者たちに声をかけることはもちろん、触れることだって許されない。そういう状態なのだと。
 わかっている。これでもかというほど爆豪に声をかけて、でも、かけた分ときっちり同じだけの無視を返されて、理解しないはずがない。爆豪と自分の間に隔たられている壁はぶ厚く大きい。わかっている。
 その、つもり、だった。


 とん、と軽い仕草で爆豪は着地する。それこそ不調なんて感じさせない軽やかな仕草だ。遠目から見ただけだが、その身体に怪我はなさそうだ。切島はひとまずほっと息をついた。
 このまま何事もなく無事に業務を終わらせてほしい。そう、強く願う。
 だが、いまの切島に現実はとことん非情であった。
「っ……!」
 はっ、と切島は吐きだしたばかりの息をすぐさま飲みこんだ。
 倒れたヴィランを警戒した眼差しでにらみつける爆豪のその背後でなにかが動いたのだ。なんだ? と凝視してみれば、そのなにかの正体はすぐにわかった。ヴィランだ。爆豪が倒したヴィランの他に、もう一人ヴィランがいた。
「ッ爆豪! 後ろだ! もう一人いるぞ!!」
 切島はすぐさま叫んだ。しかし爆豪に聞こえるはずがない。
 巧妙に気配を殺しながら、ヴィランが腕を構える。あのヴィランがどんな個性を持っているかはわからない。しかし、爆豪に攻撃を仕掛ける気なのは明らかである。切島は焦った。
「爆豪! おい!」
 まだ爆豪は背後のヴィランに気がついていない。このままでは……。最悪の想像に切島は青ざめた。
「頼むから気がついてくれ爆豪!!」
 必死になって危険を知らせるも、切島の声は空虚に消える。
 ヴィランがにやりと笑った。勝利を確信した笑み。
「爆豪ッ!!!」
 目の前に迫る絶望に、切島は絶叫した。
 けれど、その次の瞬間だった。天を貫くようにして、空高く氷の柱が爆豪を狙うヴィランをその中へ捕らえた。
「ッ!?」
 はっ、と爆豪がふり返る。驚いたような表情。狙われていたことには完全に気がついていなかった様子だ。それでも、氷に捕らわれたヴィランを見てすぐに察したのだろう。爆豪は苦々しそうに顔をしかめた。
「大丈夫か」
 すたすたと軽い足取りで爆豪のもとに歩み寄る人物が一人。轟だった。いまいち表情の読めない顔で轟は、よう、とのんきに手を上げる。
「危なかったな、爆豪」
「……ちっ、名前で呼ぶんじゃねぇくそが」
「あぁ、わりぃ。大丈夫か、危なかったな爆心地」
「言い直さんでいいわ!!」
 大丈夫に決まってんだろ! 危なくだってねェわ! と爆豪は苛立ち交じりに怒鳴る。
 一方で、切島は腹の底から全力で息を吐いていた。身体が一気に脱力して、膝をつく。死ぬかと思った。色々な意味で死ぬかと思った。
「あぁぁああ、もう轟サンキュー! ありがとう! まじ助かった!! 爆豪に代わって俺が礼言っとく! ほんとにまじありがとう!! 爆豪を助けてくれて本当にありがとう!!!」
 うをぉぉおおお、と吠える勢いで、切島は何度も何度も轟に礼を言い続けた。
 今度こそ本当の本当に、ほっとした。けれど、それと同時にこれ以上ないほどに絶望してもいた。なにもできなかった。爆豪のピンチになにもしてやることができなかった。幽霊なんだから仕方がない、なんて、納得できるはずはない。
 轟がヴィランを拘束してくれなかったら、万が一の事態があり得たかもしれない。
「ありがとう、轟」
 もう一度、切島はくり返した。

 爆豪と轟がきょろきょろと辺りを見渡す。用心深く、慎重に。
 特に爆豪はこれでもかというほど目を鋭くさせてヴィランの気配を探っていた。
「他にヴィランは……、いねぇみてぇだな」
「……あぁ」
「お疲れ」
「ふんっ」
 ぷいっ、と爆豪は顔を背ける轟を放って歩き出す。あからさまに鬱陶しがっている態度だ。だが、当の轟は気にしていないのか、それとも鬱陶しがられると気がついているのかいないのか、飄々とした態度で爆豪の横に並んだ。
「うぜぇ、並ぶな」
「なんでだ」
「言ってんだろうが! うぜぇからだ!」
「なんでうぜぇんだ?」
「てめぇがてめぇだからだよ!」
 酷い言い草だ。
 それでも轟は気にした様子はなく、変わらずに爆豪の隣を歩き続けていた。いや、それどころではなかった。隣で歩みを合わせていたかと思うと、唐突に轟は爆豪に顔を近づける。
「お前……」
「あぁ? うをっ、んだよッ!」
 ぎょっ、と爆豪は身体を引くが、引いた分だけさらにぐぐっと距離を詰め、まじまじと爆豪の顔を見つめる。
「ちょッ、轟さん? なにしてらっしゃるんですかね!?」
 これには切島も思わずぎょっとした。
「な、んだよ、うぜぇ!」
「いや、なんかお前……、色抜けた?」
「はあ? なに言ってんだてめぇ」
 色抜けた?
 なんだそれは、と切島は驚きを引っ込めて首をかしげた。爆豪も意味の分からない轟の発言に、不機嫌よりも困惑を強くした様子で眉間にしわを寄せる。
「なんつーか、色が薄くなったって言うか、いつもより顔? 肌? が白くねぇか?」
「…………」
 爆豪は続けられた言葉に沈黙した。
 切島もその言葉で轟がなにを言いたいのかわかった。なんとも独特な表現だったが、つまるところ、お前顔色悪くね? と言っているのだろう。少し唐変木なところがある轟だが、それでも高校生活を3年間一緒に過ごした仲である爆豪の不調を曖昧にだが感じ取ったようだ。
「お前、大丈夫か?」
「なにがだよ」
「さぁ、なんとなく」
「ほんっと、まじうぜぇ」
 さっさとどっかいけよ、と爆豪は素っ気なく手を振る。轟の疑問には答えるつもりはない様子で足を進め続ける。
「すいませーん、ちょっとお時間頂いてもよろしいですか!」
「あ?」
 しかし、ふいに第三者の声が混じり、爆豪は轟と一緒に足を止めた。
 ふり返るとマイクを持った男と、カメラを持った男が二人。テレビ関係者だろう。にこにこと愛想のいい笑みを爆豪と轟に向けている。
「ヒーロー、ショートにヒーロー、爆心地! いやぁ、お二方ともお見事でした!」
「はぁ」
「けっ……」
 ぺこり、と轟は無表情のまま頭を下げる。爆豪は不機嫌面のままだ。
「とくに爆心地! 見事な空中戦法でしたね! いやぁ、今日も絶好調な様子で一市民としてとても心強い限りです!」
「……ドーモ」
「ショートとの連携もバッチリでしたね。まさか自身を囮に使うとは!」
「あぁ!? んだってェ!?」
 ぐわっ、と爆豪の顔が凶悪なものへと変貌した。
「ひッ、や、あの、とても見事だったなぁと……」
「それは、どうも」
「どうもじゃねぇーわ! 馬鹿にしてんのか!」
「? いや、馬鹿になんかしてねぇが」
 なにを怒ってるんだと言わんばかりに轟が首をかしげ、爆豪がますます苛立ったように目尻を吊り上げる。無理もない。爆豪にとって、先ほどのあれは失態以外のなにものでもないのに、それを囮役を担ったのだと称賛されるなど屈辱だろう。
「くそがっ! 俺ぁ帰る! あとはてめぇが相手しろ半分野郎! くそが!」
「べつに構わないが、だからなにをそんなに怒ってるんだ」
「てめぇのそういうところだよ!」
 くそがぁ! と一際大きく吐き捨てて、爆豪は轟たちに背を向けた。
 のっしのっしと歩くその後ろ姿は怒りに満ちている。けれど、それは轟たちの目が届く範囲までのことだった。
 轟たちから十分に距離を取ると爆豪は大きく息をついた。その顔にはもう怒りの色はない。疲れたように、眉をひそめていた。顔色は、轟の言葉を借りるなら、色が抜けている。

「爆心地、お疲れ」
 轟たちと別れた途端、男が爆豪に声をかける。爆豪が所属する事務所の先輩ヒーローだ。事務所のトップをリスペクトしてか、七三の髪型をしたその男は、にかっ、と快活に笑いながら爆豪の肩をポンと叩く。
「いや〜、流石流石。今日も活躍したなー、先輩として、可愛い後輩が活躍してくれて鼻が高いぞ〜」
「……はぁ、そうかよ」
「なんだよ、先輩が褒めてんだぞ? もっと嬉しそうな顔しろよ」
「ドーモアリガトーゴザイマス」
「棒読み! かー、やっぱ可愛くね〜! お前さっきのヒーローコメントもだな、もっとこう……」
「…………」
「って、おいこら! 先輩を置いて無言で帰ろうとするな!」
 すたすたと一人で歩きだす爆豪のあとを男は慌てて追いかける。
「まったく! 相変わらず愛想のない奴だなお前は」
「そりゃ、どーも」
「褒めちゃいねぇよ! つかお前さ、お前もともと付き合いがいいとは言えんかったけど、ここんとこさらに悪くないか〜?」
「……そうか?」
「絶対そうだって! 業務終わったらす〜ぐ帰っちまって、たまには先輩と交流を深めろよこの野郎!」
 わしわしと男が爆豪の頭を撫でる。犬でも撫でるような乱雑さだ。これが上鳴や瀬呂相手なら爆豪は、撫でんなやッ!と乱暴に手を振り払ったことだろう。だが、やはり先輩相手だからか、爆豪は鬱陶しそうな表情を浮かべながらも、ひょいっ、と横に避けることで男からの手から逃れるに留めていた。
「寒いからパス。さっさと家に帰りてぇんで」
「お前! ちょっと前まで“暑いからパス”とか言ってたくせに今度はそっちかよ!」
 だったらいつならいいんだよ! と男は叫ぶ。
 この先輩ヒーローも、爆豪の不調には気がついていないようだった。

 切島だけが知っている。爆豪のすべて。けれど、切島はなにもできない。ヴィランの存在に気がついても、爆豪の不調に気がついてもなにもできることはない。
 いまになって切島は本当の意味で実感した。幽霊の自分、届かない声、世界と自分を阻む分厚い壁の存在。爆豪のピンチを前にして、ようやく理解した。なにもできないということの本当の辛さ。どうしようもないほどの無力感。
 切島は唇を強く噛みしめた。
 
 
 
◇  ◇  ◇
 
 
 
 しつこく飲みに行こうと誘う先輩に現代の若者らしくあっさりNO! を突き付けた爆豪はその日も病院を訪れ、しばらくの間眠る切島の顔を静かに見つめていた。そして帰宅すると昨日と同じようにシャワーを浴びてテレビを眺め、最後にはさっさとベッドに横になってしまった。
 切島は今日一日ずっと爆豪についていた。その結果、あぁやっぱり、と確信した。昨日の爆豪はやはり夕食をとってはいなかった。いや、きっと今日と昨日だけじゃない。以前からも爆豪はこうして夕食を取らずにさっさと寝てしまっていたに違いない。もしかしたら、切島が目覚めることのなかったその日から、ずっと。
「ばくごぉ、朝飯もまとも食ってない上に晩飯も食わねぇとか、そんなんだめだろぉ」
「…………」
「腹ん中空っぽのままでさ、それでヒーロー活動なんて力出ねぇだろ」
「…………」
「俺のこと心配してくれんのは嬉しいけどさ、でも、だからってこんなんはだめだろ」
「…………」
「こんなんじゃ、俺が起きるよりもおめぇが倒れちまう。俺いやだぞ。せっかく目が覚めて家に帰っても、おめぇが元気に迎えてくれないなんて、そんなん……いやだからな」
「…………」
「ばくごぉ」
「…………」
「…………」
 言いたいことはいっぱいあった。この程度じゃ言い足りないほどにたくさん。だが、うまく言葉は出てこなかった。
 二人で一緒に寝られるようにと買ったキングサイズのベッドの上、爆豪は壁際の隅で丸くなっている。ぽかり、と不自然なほど大きな空間が爆豪の横にできる。その空間に切島は、ぐ、と眉間にしわを寄せた。
 どういうつもりで爆豪がその空間を作ったのか、どんな想いで隅っこで身を丸めているのか。想像するだけで息が苦しくなる。
「爆豪……、爆豪」
「…………」
「なぁ、返事してくれよ」
「…………」
「爆豪……、ばくごう」
 切島はしつこいほどにその名を呼びながら、空いた爆豪の隣へと横たわった。身を縮める爆豪の身体を覆い包むようにして抱きしめる。腕の中にすっぽり納まる身体。いつもこうして眠っていた。冬だけじゃなく、暑い夏の季節でもこんな風にくっついて、爆豪の体温を感じて、甘い匂いをかいで心地よく眠っていた。
 しかし、実体のない身体にベッドは軋むことはなく、柔らかな毛布の感触も伝わらずにまるで固い石の上にでも横たわっているような感覚だった。強く腕の中に閉じ込めた身体の感触も、肌の柔らかさも温かさも感じることはなく、甘い匂いが鼻腔を悪戯にくすぐることもない。髪をそっと撫でてみても、手のひらになにか伝わることはない。
 ひたすらに空虚だった。不毛だった。孤独だった。それでも切島は爆豪を抱きしめたまま、ずっとそうしていた。霊体になった身体は眠りを必要とはせず、朝までの時間はとても長かったが、ずっとずっとそうやっていた。そうせずにはいられなかった。
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