「勝己、今日は帰りなさい」
 爆豪がベストジーニストよりそう言われたのは事務所に出勤して早々のことだ。
 おはよう、おーっすと挨拶が辺りに飛び交う中、ベストジーニストの声は不思議とすっと通るようにフロアに響き、ロッカールームに向かっていた爆豪は足を止めると、ぽかんとした表情で自身の上司を見た。
「……あ? なに言ってんだ。来たばっかだぞてめぇ」
「気がついていないのか? 顔色が随分と悪いぞ」
「……俺の顔色がわりぃのはいまさらだろ」
 爆豪はぷいっと顔を背けると止めてた足を動かし、再度ロッカールームに向かう。
「勝己」
「……んだよ」
 しかし、再度ベストジーニストに呼ばれて爆豪は足を止めた。その表情は苦々しく歪められている。
「こっちに来なさい」
「なんで」
「いいから、こっちに来るんだ」
「…………」
「勝己」
「……ちっ」
 有無を言わせぬ声色。爆豪は渋々といった様子で足をずりずりと引きずるようにしてベストジーニストのもとへ歩みよった。切島もいつものようにその後ろをぴよぴよとついていき、爆豪と一緒に並ぶようにしてベストジーニストを見た。
 鋭い眼差しが爆豪を見おろす。顔半分が隠れてしまっていてわかりにくいが、あまりよろしくない表情を浮かべているらしい、と切島はベストジーニストが背負う雰囲気でなんとなく察した。きっと爆豪はそれ以上に察するものがあったのだろう。ばつの悪そうな表情で、む、と口を引き結んでいた。
「勝己、私がなにを言いたいのか、わかっているだろう」
「……さぁな、知らねぇよ」
「そうやってとぼけてみせて、私が見逃すと思っているのか?」
「…………」
「ほかの者たちの目は誤魔化せても私の目はそう簡単には誤魔化せないぞ。 私が君に目をかけてからもう何年経っていると思っている?」
「…………」
「君ももうプロヒーローの端くれだ。あまりあれこれ言うのは君のプライドにも触るだろうし、余計な口出しは控えようと思っていたが、流石にそろそろ見逃せない」
「…………」
 爆豪はベストジーニストをにらむように見上げながらも、黙りこんだままだ。
 そんな爆豪にベストジーニストはやれやれとでも言いたげに肩をすくめたかと思えば、おもむろに手を伸ばし、爆豪の顔を両手で頬を挟み込むようにして掴んだ。
 ぐい、と無造作に引き寄せ、さらに下瞼を引っ張る。
「っにすんだよ!!」
「白いな」
「だからなんだ!」
「貧血の証拠だ。ちゃんとした食事をとっているのか?」
「とっとるわっ!」
 嘘だ。切島は眉をひそめた。
 切島が霊体となって爆豪についてまわるようになって今日で四日目となった。その間、爆豪はまともな食事など一度もとってはいなかった。朝は相変わらずぜリー飲料を流し込んで、昼はカロリーメイトを一本だけ。夜にいたってはせいぜい水を口にする程度。
 これでよくまぁ、倒れることなく普通を装っていられるものだ。ある意味感心する。それ以上に、タフネスの使い方間違ってんぞと叱ってやりたくてたまらないが。
「なにかあったか、勝己」
「……べつに」
「お前も自覚があるのだろう? 最近の自分の調子に」
「…………」
「勝己」
 ジーニストが呼ぶ。幾度目かになる爆豪の名前。
 爆豪は、ぐぅ、としばらく無言の抵抗を続けていたが、緩まることのない眼差しに、やがて、はぁ、と諦めたようにため息をついた。
「わぁーったよ……、今日は、帰る」
「あくまで理由を言う気はない、か」
「…………」
「まぁ、いい。君はそのまましばらく休め。今の状態で来られても逆に迷惑だ」
「…………」
「体調管理はヒーローとして基本中の基本だぞ」
「……わかってんよ」
 なにも言い返せないのだろう。爆豪は大人しく頷く。
 ベストジーニストはそこでようやく鋭い眼差しを取っ払い、いくらか目元を柔らかくさせた。しゅんとした気配を隠せないでいる爆豪の頭を、そっ、と撫でる。
「勝己、助けが必要ならいつでも言いなさい」
 その様子は上司と部下というよりも、親と子、兄と弟のようであった。厳しくも、思いやりが込められたベストジーニストの言葉に爆豪は珍しく眉尻を下げていた。
「業務については追って連絡する。私がよしと言うまでは大人しくしているように」
「…………」
「君はよくやっている。いい機会だ、たまにはゆっくりと過ごすといい」
「…………ん」
 こくり、と再度大人しく頷いてから、爆豪はベストジーニストに背を向けた。
「なんだよ爆心地、お前具合悪かったのか? そうならそうと言えよー、お大事にー」
「さっさと調子戻してくれよぉ、お前はうちの事務所のエースなんだからなっ」
「気をつけて帰るんだぞ、寝るときは温かくするように!」
 途端に、いままで二人のやり取りを見守っていた他のヒーローやサイドキックたちが帰宅に向かう爆豪に各々声をかける。爆豪はそれらの声に「……っす」「うっせ、わかってる」「ガキ扱いすんな」と素っ気ないながらも、言葉を返していた。
「いい先輩たちだな、爆豪」
「…………」
「ゆっくり休めよ」
「…………」
 切島は、はぁ、と息を吐いて爆豪のあとを追った。
 
 
 
◇  ◇  ◇
 
 
 
 ちょっと心配だったが、爆豪は寄り道などすることなくちゃんと真っ直ぐに帰宅した。
 いつものようにソファに荷物を放って、腰掛ける。はぁ、とため息。出勤してすぐに帰されたにもかかわらず、仕事終わりと変わらぬ重いため息だった。
「休み、っつってもな……」
 ぽつり、と爆豪は呟く。
 ちょっと困ったような声色。実際に爆豪はちょっと困っていたのだろう。いきなり与えられた大量の暇に、なにをすればいいのかわからない様子で、ぼんやりとソファに座りこんだままでいた。
 そんな爆豪の様子に切島が思い出すのは、毎夜21時を過ぎるか過ぎないかというころにはさっさとベッドに横になってしまう爆豪の姿だ。まるで現実から逃避するように深い眠りにつく爆豪からしてみれば、ヒーローとして忙しなく動きまわっている方がよほど気が紛れていたに違いない。
「…………」
「なぁ、とりあえずさ、飯食おうぜ、飯」
「…………」
「いい加減、腹減ってるだろ?」
「…………」
「そんな顔色のままじゃ、いつまで経ってもベストジーニストの許可はもらえないぞ」
 とにかく、切島がいまの爆豪に望むのは食事であった。ゼリーだとかカロリーメイトなどではなく、もっとしっかりとした温かい食事をとってほしい。

 ソファに座ったまま爆豪はしばらくぼんやりとし続けていた。まさかずっとそのままでいる気かと危惧の念を抱いたが、やおら爆豪はゆらりと腰を上げた。ようやく行動を開始するようだ。
 立ち上がった爆豪の向かう先がキッチンならば万々歳、玄関ならば外食ワンチャンで、寝室だったら絶望だ。祈るような気持ちで切島は爆豪のあとを追った。
「頼むぜぇ、爆豪……」
 だがしかし、切島の願いはキッチンに一瞥すらよこさないままリビングを出ていった爆豪によって早々に砕かれてしまった。それならばと次に希望をかけるが、廊下に出た爆豪は玄関とは反対方向に足を進めていく。
 あぁあぁああ、と切島は肩を落とした。だが、すぐに、おや、と眉を上げた。爆豪が向かったのは切島と共通で使っている寝室ではなく、寝室とは別にある爆豪の私室であったからだ。
「…………」
 ぱたり、と目の前で扉が閉まる。切島はしばらく悩んだ。勝手に入っていいものか。今まで散々あとをついてまわっておいて今さらかもしれないが、いくら恋人とは言え風呂をのぞき見してはいけないように、勝手にプライベート空間に足を踏み入れるものはいかがなものか。
「うぐぅ……、でも気になる! すまん、爆豪!」
 けっきょく耐えきれなかった切島は、ぐっ、と足を踏み出し目の前の扉をすり抜けた。
 爆豪好みのシンプルな色合いの家具たちで飾られているその部屋で、部屋の主はノートパソコンがある机に向かっていた。かちり、かちり、とマウスのクリック音が忙しなく聞こえる。
「なぁに、見てんだ?」
 切島は背後から覆いかぶさるようにしてパソコンを覗いた。
 見たところ、どうやら爆豪が見ているのは過去に起きた事件記事のようだった。ずらりと並ぶ記事タイトルの中、爆豪はいくつかの記事を開いていく。三年前に起きた集団居眠り事件、五年前に相次いで起きた階段からの連続転落死、十九年前に起きた一人っ子昏睡事件。ほかにも、次々と爆豪は記事をクリックしていく。切島にも覚えのある事件、まったく聞いたことのない事件。いくつも、いくつも。
「爆豪……、家に帰ってまで仕事か?」
 休めって言われたじゃないか。切島は眉をひそめた。
 しかし、そのまま画面を覗き続けて、あっ、と気がついた。大量の事件の中から爆豪が取捨選択していく事件たちのその共通点。次々と開かれては閉じられ、閉じられてはさらに開かれていく記事たちの事件は、すべて犯人が睡眠または意識に関する個性を有しているものであった。
 テストが嫌すぎるあまり個性を暴走させて自分を含めたクラス全員を居眠りにつかせた事件、階段でのすれ違い際に相手の意識を奪い転落させ事故を装った連続殺人事件、ある地域一帯の一人っ子の子どもばかりが謎の昏睡状態に陥った事件。
 ほかの事件も、犯人の個性によって深い眠りについたり、一瞬意識を失ったりだとか、そんなものばかりだ。
「爆豪、俺の眠りの原因を調べてくれてんのか?」
「…………」
「……ありがとうな、爆豪」
「…………」
「まじで、ありがとう」
「…………」
 文字通り、骨身を削るようにして、爆豪は切島を想ってくれている。
 痛いほどに伝わってきた。
「…………」
 それに比べて自分はどうだろうか。爆豪をただ見ているだけ。いまだって、まさにそうだ。切島は爆豪の背中を見ていることしかできない。
 しばらくの間、爆豪は休むことなくずっとパソコンに向かい続けていた。朝が昼になっても、食事はもちろん、水の一杯だって飲まずにパソコンの画面を見つめて、かちりかちりとクリック音を鳴らし続ける。その横顔はとても真剣なものだった。
「…………」
 切島は爆豪の作業中もずっとその様子を見つめていた。
 だが、切島は唐突に勢いよく首を振ると、さらに勢いよく起ち上がった。爆豪の傍から離れ窓辺へと寄る。
「ちょっと出てくるな、爆豪」
 そして爆豪の背中にそう言い残すと窓をするりとすり抜けて家を出た。


 切島が向かったのはほかでもない、眠り続ける自分自身のもとだった。
 家を出た時と同じようにするりと壁を抜けて病室に侵入し、ベッドサイドに着地する。白いベッドには、相変わらず自分が眠り続けていた。 
「なぁ、いい加減起きろよ、俺……」
 吐き捨てる声は、自然とうんざりとしたものになってしまった。
 実際、切島はうんざりしていた。いつまで経っても眠り続ける自分自身に。
 いまの切島にできることはとても少ない。いや、なにもないと言ってしまってもいいほどだ。それでも、これまでなにも試みていないわけではなかった。爆豪が完全に寝静まった後や、病院に向かう爆豪を先回りしたりして、切島は隙を見つけては何度かベッドで眠り続ける自分自身と向き合っていた。
 なにをどうすれば意識を身体に戻すことができるのかはわからない。それでも、起きろ起きろと何度も声をかけてみるのは当然のこと、思いっきり頭を殴りつけてみたり、胸を叩いてみたり、頭突きをかましてみたり、自分自身と手を繋いでみたり、はたまた身体の上に重なってみたり、とにかくいろいろと試してみた。
 はたから見たら滑稽この上ないことだっただろうが、どうせ誰にも見えはしないのだ。仮に見えていたとしても、それで戻れるというのならいくらでも恥を晒してやる。なりふりなど構ってられなかった。
 しかし、結果としてなにひとつ実るものはなく、今日も今日とて、切島の身体は世界と隔離された霊体のまま。徒労と焦燥は着実に切島の中に蓄積され続け、大きくなっていく。
「ほんとに、いい加減にしろって……」
 切島はさらに自身に語りかける。
「爆豪が待ってんだぞ? いつまで待たせる気だ」
 怪我の一つもせずに、本当にただ気持ちよさそうに眠っているだけのその姿に、自分で自分にどうしようもないほど苛立った。本当にふざけるなよ鋭児郎。爆豪に寂しい想いをさせ続けているくせに、どうしてそんなすやすやと眠っていられるんだ? 信じられない。
「起きろ……、なぁ、起きろよ!!」
 堪えきれずに怒鳴る。
 目覚めないことに対する恐怖はなかった。あるのは爆豪を不安にさせる自分への怒りばかりだ。自分に触れることができるなら、いますぐにでもそののんきな寝顔をぶっ飛ばしてやりたいくらいに。
「ちッ、くしょぉ……!!」
 情けない声が出てしまう。
「なんでなんだよぉ……、どーして戻れねぇんだよ!!」
 爆豪の前では聞こえないとわかっていても口に出すことのできなかった弱音が、一人になったとたんぼろぼろと出てくる。どうすればいい。爆豪のもとに帰るには、どうすればいいのか。なにひとつ、わからない。あんなにも爆豪は切島を心配して、それこそ骨身を削るようにして原因を探ってくれているというのに!
 無力感が切島の身体を苛む。もう何度、このどうしようもないほどの無力感に襲われたことだろう。どすん、と切島はその場に座りこんだ。くそっ、と吐き捨てながら、ベッドの縁に頭を打ち付ける。がん、がん、がんと何度も。
 辛かった。なにもかもが、辛い。悲しい。苦しい。
「俺、爆豪の傍にいないほうが、いいのかな……」
 どうせなにもできないのならば、その方がいいのだろうか。その方が少しでも楽になれるのではないだろうか。そんな考えが脳裏をよぎる。
 切島はうつむいた。弱気になっている自覚があった。らしくない。こんなの全然自分らしくない。しかし、自覚しているからと言ってどうにかできるものではなく、切島うつむいたまま顔を上げることなどできないでいた。

 そのままどれほどの時間が経過しただろう。
 切島がようやくその重たい頭を持ちあげたのは、静かだった部屋にノックの音がしたからであった。続いて、背後で扉の開かれる音。慌ててふり返れば、爆豪がいつものように病室に入ってくるころだった。
「あぁ……、もうそんな時間か」
 爆豪が切島のもとにやってくる時刻は決まっている。だいたい19時過ぎごろ。滞在時間はそんなに長くはない。長くて30分程度。ただ、その30分の間、爆豪はただひたすらに眠る切島を見つめている。一日も欠かさずに、必ず、毎日。
「爆豪、今日も来てくれてありがとうな」
「…………」
「でもな、頼むから無理だけはしないでほしい」
 来てくれるのは嬉しい。凄く嬉しい。愛されてるんだって、ダイレクトに感じられて、頬が熱くなる。けれど、それが爆豪の負担となるのなら、熱は一気に冷えていく。
 爆豪はなにも言わない。じ、と切島を見つめたまま、無表情だ。ともすれば不機嫌そうに見える表情は、切島の目から見れば泣きだす一歩手前と変わらない。
「大丈夫だ、爆豪。俺はさ、大丈夫だから……、本当になんともねェから」
「…………」
「ちゃんと起きる」
「…………」
「それよりもおめぇはもっと自分の身体のこと考えてくれよ……」
「…………」
「爆豪」
 辛い。帰ってくることのない言葉も、泣きだしてしまいそうな爆豪の横顔も、すべてが辛く、またしても切島はうつむいた。
「…………切島」
「えっ?」
 その時だった。ふいに名前を呼ばれた。自分の名前。
 なんだか、ずいぶんと久しぶりな気がした。爆豪にこうして名前を呼んでもらうのは。
「爆豪?」
「……切島」
 あまりにも久しぶり過ぎて一瞬、聞き間違いかとも思ったが爆豪はもう一度呼んだ。切島の名前を。聞き間違いではない。確実に、爆豪は切島を呼んだ。
「っなんだ? どうした爆豪!」
 切島は飼い主に呼ばれた飼い犬の如く、ぴゃっと爆豪に駆け寄った。
 耳をよく澄ませて、次の爆豪の言葉を聞き逃さないよう構える。
 爆豪は、そっ、と囁くようにして言った。
「さっさと起きろよ、くそ野郎が……」
 それは本当にただただちいさく呟くだけの声だった。
 眠る切島にはもちろん、ほかの誰に届かせるつもりのない、ちいさな独り言。抑えきれなかった心の声がぽつりと漏れてしまったような、そんな言い方。それだけに爆豪のその言葉は真っ直ぐに切島の胸を打った。
「切島……きりしま……、」
 爆豪が呼ぶ。何度も何度も。
 ベッドの上に力なく投げ出された切島の手に爆豪が手を伸ばした。日に焼けた手の甲に、白い指先がそっと触れる。触れた瞬間、指先は躊躇するように揺れた。しかし、爆豪の指は離れていくことはなく、そのままそろそろと手の甲を撫でてきた。かと思えば、爆豪は切島の手のひらの下に己の手を潜りこませた。切島の手が爆豪の手の甲を覆うような形。
「…………」
 爆豪が目を伏せる。そのまま、まるで切島の体温に強く意識を集中させるようにして、爆豪は目をつぶり続けていた。
「っ、爆豪」
 心臓を強く掴まれたような想いだった。息が苦しい。胸が痛い。
 切島は爆豪がそうしたように、自身の手に霊体となった自身の手を重ねた。そして壁をすり抜けるのと同じようにして、す、と手に手をすり抜けさせた。そうやって霊体を自身の手に同化させるようにして、切島は爆豪の手の甲に触れた。
「爆豪……」
「…………」
 手に手を重ねても爆豪が切島に気がつくことはなく、切島は切島で爆豪のなにひとつを感じられないでいる。こんなに近くにいるのに、こんなにも近くにいるのに。
 世界が遠い。爆豪が遠い。
 ……あぁ、でも、それでも。
「俺は、ここにいるから……」
「…………」
「爆豪の傍に、ちゃんといるから」
 なにもできないのに、爆豪の傍にい続けるのは辛い。己の無力さに押しつぶされそうになるから。けれど、やはり離れられるはずなどなかった。諦められるはずなどなかった。どれだけ辛くても、悲しくても、苦しくても、ずっと傍にいる。だってそれだけが、なにもできはしないいまの切島にできる唯一のことなのだから。
 
 
 
◇  ◇  ◇
 
 
 
「……また、来る」
 しばらくして、爆豪は起ち上がった。するり、と手の下から爆豪の手が離れていく。途端に、切島は手のひらがひやりと冷えてしまったような感覚を覚えた。そんなはずあるわけないのに。
「しゃっきりしろ鋭児郎! てめぇがくよくよしてんじゃねェ!!」
 へこみかける心を切島は鼓舞させた。
 くよくよし続けるなんて男らしくない。誰にも見えていないからって、こんな暗くて情けない姿を晒すなど、だめだ。下を向くな前を向け鋭児郎! どんなに辛くても諦めんなよ! そんなことは他の誰が許しても、俺自身が絶対に許さない。
「よしッ。おぉい、待てよばくごー!」
 わざとらしく大きく声をあげ、切島は爆豪のあとを追いかけた。


 爆豪にはすぐに追いついた。というか、爆豪はすぐそこの廊下で立ち止まっていた。対面に誰かいる。白衣の男二人だ。一方の男は、切島や爆豪よりも二回りほど年上そうな中年で白衣が長く、もう一方の男は割りと歳が近そうな顔つきで、短い白衣を着ていた。
 切島は白衣の短いほうの男に身覚えはなかったが、長いほうの男には見え覚えがあった。いや、見覚えがあるどころではない。
「あっ、先生っ!」
 長い白衣のその男は、切島がサイドキックとしてデビューして、はじめて大きな怪我を負った時に自身のことを担当してくれた医師であった。いつも人当たりのいい温和な表情を欠かすことなく、柔らかく優しげな雰囲気がとても印象的な先生で、一度目の大怪我で世話になって以来、大きな怪我や入院するようなときはこの先生によく担当してもらっている。
「やぁ、爆豪くん。今日も切島くんのお見舞いかい」
 爆豪とも面識のある医師は温和な笑みを浮かべながら問いかけてきた。
「あぁ、まぁ……」
「たしか、昨日も来ていただろう?」
「……っす」
「うんうん、爆豪くんは偉いなぁ、こんなに小まめにお友達のお見舞いにきてあげるなんて」
「はぁ、どーも」
「きっと切島くんも喜んでいることだろう」
 うんうんと医師は頷く。
 そんな医師に爆豪は尋ねた。
「それより、その切島は、容体のほうはどんな感じっすか」
「……残念ながら、相変わらず、としか言いようがないね。目覚めるような兆しは見られないが、これと言って悪化するような様子もなく、本当にただ眠り続けているだけ」
「そう、すか」
 爆豪は珍しく落胆を隠せない様子で肩を落とした。
「すまないね、爆豪くん。我々は我々でいろいろと調べてみてはいるのだけど、これと言って手がかりになるようなものは……、すまない」
「いや、べつにあんたが謝るようなことじゃねェだろ……」
「そんな、謝んないでくださいよ、先生! 先生がわりぃわけじゃないっすから!」
 心底申し訳なさそうな医師に切島は慌てた。先生にはいままでさんざん世話になった。それどころか現在進行形で迷惑をかけている。むしろ謝るのは自分のほうだ。
 ほんの少し前までの自分だったら、きっと先生の話にひどく落ち込んだことだろう。どうして原因がわからないのか。もしかしたら先生のことを責め立てたりしたかもしれない。
 けれど、もう切島はそんなことではめげたりなどしない。
「俺が未熟なばっかりに、すんません先生! でも先生! 先生も心配しないでください! 俺絶対に起きてみせますから!」
 先ほどまでの弱気を完全に振り払って、ぐっと力強く宣言した。

「それよりも先生、爆豪のやつにもうちょい自分の身体に気ぃ使うように言ってくれないっすかねェ」
 いまの切島にとってはそちらのほうがよほど重要だ。寝っぱなしの自分なんかよりよほど具合の悪そうな爆豪に気が気ではない。
 いっそのこと爆豪も入院させてやってくれないだろうか?
「ところで、ちょっといいかな?」
 思わずそんなことを願っていると、タイミングよろしく医師は言った。
「切島くんから話はそれてしまうんだが。爆豪くん、すこし顔色が悪いんじゃないかい?」
「え……」
「っ先生!!」
 さすがお医者さんというべきか。
 ベストジーニストに続いて、医師にまで指摘されてしまった爆豪は、ぎくり、とわずかに肩を揺らし、気まずそうに目を伏せる。その隣で切島は目を輝かせた。
「さっすが先生! そーなんだよ先生! こいつ全然飯食ってなくってさぁ!! 頼むからもっと言ってやってくれよ! ちゃんと飯食え! 休め! ってさぁ!」
 医者である彼から言われれば、流石の爆豪も堪えるのではないか。切島は期待する。
「仕事が忙しいのかな? でもだめだよ、しっかり休まないと。君たちヒーローは身体が一番の商売道具なんだから、大事にしなきゃ」
「そーそー! いいぞ先生!」
「……っす」
「なんなら点滴の一本でも打っていくかい?」
「いや、いい。んなもん必要ねェ」
「そうかい? まぁ、とにかくちゃんと自愛するようにするんだよ」
「ぅす。それじゃあ、俺はこれで」
 ぺこり、と軽く頭を下げて、爆豪はそそくさと医師の横を通りすぎた。
「あー、もう……、爆豪のやつ逃げやがったな」
 男らしくねぇぞ、と切島は、むぅ、と口を引き結んだ。
 もう少し先生には言ってもらいたかった。けれど、医師は爆豪の背中を見送るが、そのあとを追うことはない。まぁ、仕方がない。切島は肩をすくめた。
「じゃあ、すいません先生! 俺も失礼しまっす!」
「ねぇ、先生、いまのってもしかしてヒーロー爆心地ですか?」
 切島は丁寧に頭を下げた。
 そして爆豪を追おうとしたが、爆豪のヒーロー名に意識は簡単に引っ張られた。顔を上げれば、いままで医師と爆豪のやり取りを黙って聞いているだけだった若い男……、おそらく看護師だろう、看護師は足早に去っていく爆豪の背中をまじまじと見つめていた。
「あぁ、そうだよ」
 医師が答えると、ぱぁあ、と看護師の顔が明るくなった。
「えー! やっぱり! うわーうわー! 僕はじめて生で見ました!」
 もしかして、爆豪のファンなのだろうか。やけにテンションが高くなっている。
「おや、そうだったのか」
「はいっ、うちが爆心地が所属してる事務所をよく担当していることは知ってたんですけど、生で、しかもオフの爆心地を見るのは初めてです。うわー、あんな顔してたんですね!」
「テンション上がるのはいいが、言いふらしたりしてくれるなよ?」
 医師の注意に、看護師は表情をむっとしたものに変えた。
「わかってますよ! そんなことするはずないじゃないですか!」
「ははっ、すまんすまん」
「……ところで昨日もお見舞いって言ってましたけど、そんなに頻繁に来てるんですか? あの爆心地が?」
「おや、意外かい?」
「うぅん〜、そうですね、ちょっと意外です。テレビで見る彼はなんと言うか、個人主義というか、一匹狼気質というか、あまり他人に対して関心があるような印象はないですね」
「たしかにねぇ、私も最初のころはそんな印象だったよ」
「でも、そっかぁ。お見舞いですかぁ。爆心地にも見舞いに来るほど親しい友人がいるんですね!」
「なんだい、ずいぶんと嬉しそうだな」
「えー、だってこう言うのってなんかいいじゃないですかー。素っ気なく見えて、じつは友だちの見舞いにわざわざやってくるとか、ギャップっていうか、温かエピソードみたいでほっこりきません?」
 最近じゃ身内の見舞いですらめんどくさがって来ない人が少なくないって言うのに、と看護師は爆豪を高く評価する。
「ヒーローの美しい友情ばんざいですよ! 爆心地ばんざい!」
「はいはい、わかったから大声出さない」
「あっ、すいません」
「でもまぁ、君の言う通りだよ。誰かを思いやる心とは、美しいものだ」
 素晴らしいことだよ、と医師は呟く。
 そして、ぱん、と軽く手を叩いた。
「さて、そろそろお喋りはおしまいだよ。仕事に戻ろうか」
「はーい」
 医師と看護師が去っていく。その姿に、爆豪の話題だからと思わず二人の会話をぼんやりと立ち聞きしていた切島も我に返った。
「あ、やべぇ! 爆豪いっちまう!」
 傍にいると言ったばかりなのにこれはいかん! 切島は壁をすり抜けて、爆豪のもとに急いだ。
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