その日も、爆豪は切島のもとへ見舞いに来てくれていた。
「まーだ寝てんのか切島」
 病室に入って早々に爆豪は言った。切島は爆豪と一緒に病室に足を踏み入れながら返事をする。
「あぁ、そうみてぇだ。ごめんなぁ」
「まったく、ほんとしょうがねぇ奴だな、てめぇは」
 さらに爆豪が言う。まるで、切島の言葉に応えるように。
 けれど、爆豪には相変わらず切島の声は届いていなければ、その姿も見えてはいない。その証拠に爆豪は、ベッドサイドに立っている切島には一瞥もくれることはなく、眠っているほうの切島ばかりを見ていた。
 上鳴の身体を借りて爆豪と言葉を交わしたのはもう二日前のことだ。以来、爆豪は独り言をよくするようになった。いや、おそらく傍にいると告げた自分に対して語りかけてくれているのだろうと思う。たまに偶然が重なって会話をしているかのようになることがある。
 切島の声は届いていないのだから、ちぐはぐな会話のほうが断然に多いのだけど、疑似的にでも爆豪と会話を交わすのは、思いのほか切島の心を楽にした。
「半になったら帰るからな」
「ん、わかった」
 爆豪はしばらく切島の寝顔を見つめてから、おもむろに本を取りだして読みはじめた。いままでにないその行動は独り言と同じで、おそらくは霊体の切島がいることを意識してだろう。なんでもない様子を装う爆豪に、切島は情けなく眉尻を下げた。
 いつものように爆豪の隣を陣取って横顔を見つめる。相変わらずあまり顔色はよくないが、以前よりは少しましだろうか。あれから爆豪は朝昼晩とちゃんと食事をとっている。普段の量と比べるとまだまだその量は少ないが、それでもちゃんと飯を食べろと言った切島の言いつけを爆豪は守っていた。
「あんがとなぁ、爆豪。いっぱいいっぱい、俺のこと気にかけてくれて」
 切島は依然としてなにもできない身体のままであるが、おかげで以前よりは現状を辛いと嘆き悲しむ機会は減った。辛いは辛いに変わりないのだが、それでも大丈夫。まだ頑張れる。爆豪のおかげで頑張れる。
 あんなにも辛かったのに、爆豪の意識ひとつでこんなににも救われる。それほどまでに切島にとって爆豪という存在はなににも代えがたいほどに大きく、言い表せないほどに愛しいものであった。その爆豪が待っていてくれるというのなら、まだまだ頑張れる。

 
 本を読みはじめた爆豪はすっかり沈黙してしまったが、病室の雰囲気は比較的穏やかだった。かち、かち、と時計の秒針の音が部屋に静かに響く。静かな空間。まるでこの世界に爆豪と自分の二人だけしかいないみたいに。
 なんて、そんなことを思っていたらその世界に、とんとん、と音が響いた。扉をノックする音。誰かが来たようだ。
「はい」
 爆豪が本にしおりを挟み、扉のほうへと顔向けた。
 また上鳴たちが来てくれたのだろうか。切島はそう思ったが、実際に姿を現したのは切島を担当してくれているあの医師であった。
「やぁ、爆豪くん。切島くんの様子はどうかな」
「っす。いつも通り、変わんねぇ」
「そうか……。爆豪くんはどうかな、元気してるかい」
「……とくに問題はねェ」
「そうかい? それならいいんだが」
 いつもと変わらず、その口調は優しい。
 だが、そんな医師を見て、切島は首をかしげていた。
「先生、なんで私服なんだ?」
 医師は表情も口調もいつもと同じ様子だったが、格好がけがいつもと違っていた。いつも欠かさずに羽織っている医者の象徴でもある白衣を、今日の医師は羽織ってはいなかったのだ。シックな装いの見慣れぬ私服姿。
 いままで一度も見たことのなかったその私服姿に、爆豪も同じく不思議に思ったのだろうか。会話をしながらも、きょとり、と目を瞬かせていた。
「あぁ、今日は非番なんだ」
 爆豪の眼差しを察した医師が言う。
「でも切島くんの様子が気になってね」
「そうかよ……」
「っ、わざわざありがとうございます、先生ッ!」
 ヒーロー業とはまた違った意味で過酷で忙しいだろうに、貴重な休日を自分のためにわざわざ割いてくれるなんて、あぁやっぱり先生は優しいなぁ、と切島は感極まった。
 恋人に恵まれ、友人に恵まれ、さらに先生にも恵まれ幸せ者だとしみじみ思う。周りの人たちの温かさを再度実感することができた。それだけは唯一霊体になってよかったと思えるところかも知れない
「座るか?」
 おそらくは爆豪も親身になって切島のことを気にかけてくれている医師に思うところがあるのだろう。馴染みのある人間以外には素っ気ない態度ばかりとる爆豪にしては珍しい様子で医師に椅子を進めた。
「…………」
 しかし、どうしたのだろうか。医師は爆豪の言葉に返事を返すことはなく、なにやら神妙な顔つきで沈黙していた。この先生にしては随分と珍しい表情だ。なにかあったのだろうか。そうだとしたら、一体誰に、なにが。
「先生、どうかしたんすか?」
「急に黙りこんで、どーしたんだよ」
 切島が問いかけたタイミングで、爆豪も尋ねた。
 すると神妙な顔つきのまま医師は口を開く。
「爆豪くん、切島くんのことだが……」
「……? なんすか」
「実は、切島くんの容体についてひとつわかったことがあるんだ」
「えっ」
「えぇっ!?」
 突然の医師の言葉に切島と爆豪は同時に驚きの声を上げた。
「わ、わかったことって……」
「もしかして俺がこうなった原因分かったんっすか!?」
「…………」
「先生?」
「いったい、なにが……、」
「……いや、まだ確証のない話でね、君に話していいものか」
「そんなに、重要な内容なのかよ」
 爆豪の顔に緊張が走る。
 医師はふたたび沈黙した。間違いない。なにかあるのだ。二人の気は早った。
「なぁ、それってどんな内容なんだ? 確証がなくても構わねぇから、教えてくれッ」
「そうっす! なんでもいいんで、わかったことがあるなら教えてください!!」
「…………」
「先生!!」
 切島は必死で募った。爆豪も真剣な表情で医師を見つめていた。
 医師は考え込むように眉間にしわを寄せ、そのまましばらくの間口を閉ざしていた。やけに重たい沈黙が続く。やがて、諦める様子のない爆豪に根負けしてか、ふぅ、と息をつくとゆっくりと首を縦に振ってくれた。
「……わかった。君は切島くんの友人で、それにヒーローだ。君になら、話してもいいかもしれない」
「っ、あざっす」
「ただ万が一他の人に聞かれでもしたらまずい。場所を移してもいいかな?」
「あぁ」
「じゃあ、そうだな……、私の車で移動しようか。いいかな?」 
「構わねェ」
 そうして二人は早足で病室を後にし、切島も二人に続いた。
 
 
 
◇  ◇  ◇
 
 
 
「あ〜……、なにがわかったんかな、あ〜、すっげぇ気になるな爆豪」
「…………」
「確証はないって言ってたけど、でもなにかわかったことがあるのは確かだよな?」
「…………」
「あぁ〜〜、先生! 早く聞かせてくれ〜〜!」
 医師と爆豪が車に乗りこみ、さらにシートベルトを装着している間、後部座席に一足先に勝手に乗りこんでいた切島は落ち着きなく喋り倒していた。まるでいまから遊園地に向かう幼児のごとく、そわそわと落ち着きがない。
「どこか適当な店に……、いや、それはまずいか。君は有名人だからね」
 車のエンジンをかけながら、うぅん、と医師は考え込む。
「君さえ良ければ、私の自宅でどうだろうか? すぐそこのマンションなんだが」
「俺はどこでも構わねぇ」
 爆豪の返事は早い。きっと爆豪も早く話の内容を聞きたいのだろう。
「じゃあ、決まりだ」 
 医師が頷くと車は、す、ととても静かに走りだした。
 道中での会話はなかった。医師がこれと言ってなにか口を開くことはなく、爆豪は爆豪で落ち着かない様子で窓の外を見つめて口を閉ざしている。切島も最初こそはわーわーと喋り続けていたのだが、病院を遠ざかっていくほどに緊張が高まっていき、気がつけばすっかり黙り込んでしまっていた。
 すぐそこ、と言った言葉通り、医師の自宅であるマンションにはすぐにたどり着いた。
 そこは切島の病室からも見える高層マンションだ。オートロック式の広々としたエントランスからして高級な雰囲気がぷんぷんと溢れていて、流石お医者さん、なんて思ったりしたが、その雰囲気を堪能するような暇も余裕ももうとっくに残されていなかった
 医師を先頭に二人と一人は一直線に医師の部屋へと向かった。一歩、また一歩と足を進めるたびに緊張と期待に心臓が高鳴る。あまり過度な期待はしないほうがいいとわかってはいる。確証のある話じゃないと医師は言っていた。それでも期待せずにはいられなかった。
 
 リビングに通されると、そこはやはりというかなんというか、広々とした高級感漂う作りをしていた。医師がお茶を淹れてこようと一言残し、リビングを後にする。残された爆豪はそわそわと落ち着きのない様子でいた。
「うぁ……っ?」
 かと思えば、なにやら唐突に爆豪が声を上げる。どうしたと爆豪を見てみると、その足元には灰色の毛並みをした猫が一匹。なにをしているのか、爆豪の脚にぐりぐりと頭をぶつけていた。
「なんだ、こいつ……」
「ずいぶんと人懐っこい猫だなー」
「あっちいけ」
 爆豪は猫から逃れるように一歩横にずれると、猫は離れていった爆豪の脚を不思議そうに見た。だが、構ってくれない爆豪にすぐ飽きたのか、猫は尻尾を垂らしながら窓辺のキャットタワーへと向かい、ひょいっと身軽に昇るとそこに腰を落ち着けた。
「その子、あまり人見知りしない子なんだ」
 医師がカップを二つ手に戻ってくる。
「紅茶でよかったかな?」
「べつになんでも。それより、いい加減聞かせてもらっていいすか」
「あぁ、そうだね。まぁとりあえず座ってくれたまえ」
「…………」
 そのやり取りすら惜しいと言わんばかりに顔をしかめながらも、爆豪は言われるがままソファに腰掛けた。医師はゆっくりと紅茶を口にする。そんな彼を爆豪は睨むような眼差しで見つめていたが、医師はあくまでマイペースにカップをテーブルに戻した。
「単刀直入に言おうか、爆豪くん」
「……はい」
 そして医師はあっさりと言ったのだった。
「じつはね、切島くんの意識が戻らないのはほかでもない、この私のせいなんだ」
 二人にとって、この上ないくらいの衝撃の事実を。


 しん、と辺りが不自然なくらいに静まった。
 ずいぶんと物凄いことを言われた気がしたが、なにを言われたのか、切島はもちろん、爆豪もすぐには理解することができなかった。それぐらい医師はずいぶんとあっさりとした口調で言ったのだ。とてつもなく重要なことをまるで、明日は雨が降るそうですよ、くらいに軽くあっさりと。
「は、ぁ……?」
「えっ、先生?」
 ようやく声を出すことができたが、切島も爆豪もなにひとつわかってはいなかった。
 爆豪が、ぽかん、と目を丸くして医師を見る。医師も爆豪を見ていた。微かに口に笑みを浮かべた、いつもと変わらない人のよさそうな人相。それだけに、医師の言葉の意味がうまく飲みこめなかった。冗談か? いやしかし、こんな性質の悪い冗談を言うような人ではなかったはず、だ……。
「いま、なんて……」
「私がね、彼に個性をかけた、と言ったんだ」
「あ、んたが、切島に……?」
「そうだ」
「……あんた、なに、言ってんだ」
 途切れ途切れに爆豪は何度も問う。その表情は困惑に満ちていた。
「いきなりなに言ってんだ? ふざけてんのか?」
「心外だな。私は真実を言っている」
「真実って……、」
「そのままの意味だよ、切島くんの意識が戻らないのは私が彼に個性をかけたからだ」
「……なんの、ために」
「目的はほかでもない君だよ、爆豪くん」
 笑みを深いものに変えながら、医師はさらに言葉を重ね、話しはじめた。天気の話をし続けるような気軽さで、思いもよらない話を。

「私はね、爆豪くん。ずっと見ていたんだ、君のこと。年前だったかな、切島くんがはじめてうち病院に入院して、君が見舞いに来たその時からずっと君のことを見ていた。爆豪くんのことは前々からヒーロー爆心地として知っていたよ
「とは言っても、その頃はそこまで大した興味はなかったんだ。ずいぶんと毛色の変わったヒーローがデビューしたものだ。その程度にしか思っていなかった。ヒーローらしからぬ言動に鮮烈な戦闘スタイル、人を見下すような痛烈な笑み、ヒーローというよりはヴィランだと世間一般が抱くような印象を私も抱いた」
「それだけに、はじめて素の君を見た時は驚いたよ。あの時の君はとても切島くんのことを心配していたね。へまをした切島くんを表面上は素っ気ない様子で批判していたけど、でも、私にはわかったよ。君がどれだけ切島くんのことを心配しているのか。胸を痛めていたか。その証拠に一週間、入院することになった彼の見舞いを君は一日たりとて欠かさなかった」
「私はね、爆豪くん。そんな君を見てたいそう驚いた。テレビ越しの君はいつだって粗暴で凶暴で、とてもじゃないが、他人のことを心配するような人間には見えなかった。だから、あの日切島くんのことを心底心配する君を見て、本当に驚いたんだ」
「そして同時に私は思ったんだ。いじらしいな、って、そう思ったんだ。心配で心配でたまらないのに、それを隠してただひたすらじっと切島くんの目覚めを待つ君が私の目には、とてもいじらしく、そしてとても美しく見えたんだ」
「その日から私は一つの欲求に捕らわれるようになった。美しい君の姿を見たい。もう一度、もう一度……。切島くんが怪我をしてうちの病院にやってくるたびにその欲求は強くなっていくばかりだった」
「けど、最近は切島くんも強くなってきたね。サイドキックだったころよりも個性の使い方がますます上手くなってきたって言うのかな、怪我をする回数はぐっと減ったし、怪我をしたとしても、入院なんて必要のない極々軽症なものばかり」
「今回の意識を失うほどの怪我はずいぶんと久しぶりだったね。とは言っても、怪我自体は極々軽い。切島くんはもともと頑丈な身体作りをしているからね、その日のうちにでも帰れる程度の怪我だった」
「……その時ね、私は少しがっかりしたよ。切島くんに大きな怪我がなかったことは喜ばしい。それは本当だ。彼のことは応援している。だけど、この程度の怪我じゃ爆豪くんのあの美しい姿はほんの少ししか拝めない。そう思うととてもがっかりした」
「でも、ふと気がついたんだ。このまま切島くんが目覚めなければ……、ってね。そうすれば君があの時みたいに毎日見舞いに来るんじゃないか。そう思った。幸か不幸か、私の個性は私のその願いを実現させるに適したものだった。そうしようと思ってしまえば、個性をかけるのは簡単だったよ。なんせ私は彼の担当医だからね。タイミングはいくらでもあった。」
「実際、誰にもバレることなく、私は彼に個性をかけられた。そして私の願望通り、君は健気にも毎日切島くんのもとに通った。……あぁ、安心してほしい。大して害のある個性じゃない。切島くんはただ眠っているだけだ」
「私の個性で眠っている、ただ、それだけ」

 医師は爆豪に口を挟む暇も与えず、一気にすべてを話した。切島が目覚めない理由、原因、そしてそのきっかけ。怒涛のように与えられる情報を切島は唖然とした気持ちで聞いていた。なにを言っているのか。やはりよく分からなかった。
 目の前で穏やかに微笑む男の姿がブレる。昔、サイドキックからヒーローへと転身した後もまだまだちいさな怪我が絶えない自分に、ヒーロー頑張ってるね、でもあまり無茶してはだめだよ、と優しく声をかけてくれた先生と、いま目の前にいる医師の姿がまったく重ならない。同じ姿をしただけの別人なのではないか。そう思ってしまいたくなるほどに、自分勝手な欲望を絶え間なく喋りつくす医師の姿は異様であった。
「あんた……、自分が、なに言ってんのかわかってんのか?」
 流石の爆豪も動揺を隠しきれぬようだった。無理もない。切島昏睡の手がかりを手に入れられるかと思えばいきなり確信を知らされるなんて。しかも、爆豪をヒーロー爆心地と知っておきながら犯罪を、それも個性犯罪を暴露するなど、一体なにをどうすればそんなこと予測できただろうか。
「驚いたかな? あぁでも無理はないさ。私は慎重に振る舞ったからね」
 爆豪の動揺をよそに、医者にならなければ役者の道もあったかな? などと医師はおどける。
 切島は、依然として困惑に固まっていた。与えられた情報を処理しきれない。ある意味、自分の身が霊体になってしまったと認識した時よりもよほど戸惑っていた。
「……目的はなんだ。なぜ急に、俺にそんなことを話しやがった」
「あぁ、そうだ。そうなんだよ爆豪くん。じつはここからが本題なんだ」
「本題、だァ……?」
「そう」
「…………」
「私は切島くんに個性をかけたわけだけど、本当は頃合いを見てこっそり個性を解除する予定だったんだ。人知れず彼に個性をかけたように、人知れず個性を解除して、そのままなにも知らない体を装うつもりだった。なにくわぬ顔で、いままで通りでいようとね」
「……それを俺に言うっつーことは、そのつもりがなくなったって言うことか」
 低い声で爆豪が問えば、医師は深く頷いた。
「その通り。実はね、とても急なことなんだけど家の都合で県外に引っ越すことになったんだ。病院も当然よそに移ることになってね、もう君たちに会うことはないって気がついた瞬間、私は思ったんだよ。あぁ、一度でいいから君に深く触れたかった、ってね」
「…………」
「そこでだ、爆豪くん」
 医師は犯罪を口で、爆豪くん、と親しみを込めた呼びかけのまま、爆豪の名を呼ぶ。爆豪は嫌そうに眉をひそめ、口端をゆがめた。だが、医師の様子は変わらない。いままでとなにひとつ変わらない温和な表情のまま、爆豪に告げる。
「私と取引をしようじゃないか」
「…………っ」
「切島くんを無事に目覚めさせたかったら……、君はどうすべきか、わかるかい?」
「なッ!? 先生!! あんたなに言ってんだ!?」
 それは明らかな脅しだった。切島を人質にした、爆豪への脅し。
 切島は動揺に声を荒らげた。嘘だろ先生、と呆然と医師を見る。一方で、爆豪の回復は切島よりも早かった。
「……どうすべきかだって? はっ、んなもんわかんねぇーなくそ野郎」
 吐き捨てるように言いながら、爆豪はソファから立ち上がった。手の平で、ぼんっ、とちいさな爆破をくり出し、わかりやすい威嚇を放つ。
「てめぇこそわかってんのか? べらべらとそこまで話を聞かされて、この俺がはいそーですかって大人しく言うことを聞くはずねぇだろうが。切島の目が覚めない原因がてめぇの仕業だっつーんなら、てめぇをぶっ飛ばして警察に突き付けちまえばいいだけだ」
 世間で言われてるヴィランのような顔つきで、爆豪は笑った。相手を威圧させる、いつもの笑み。
 しかし、医師が表情を崩すことはなく、悠然とソファに座っていた。それどころか、カップに手を伸ばし紅茶をひとくち口にする余裕すら見せる。
「はは、やっぱり君は強気だな」
「けっ、馬鹿にしてんのか?」
「まさか! そんなはずがない。けど、まぁ、それが君の選択だというなら、それはそれでいいだろう。私は君の意思を尊重する」
「あぁ?」
 訝しむ爆豪に、男は言った。
「けれどその場合、切島くんは二度と目覚めることはないということだけは覚悟しておいてくれたまえ。このまま警察に捕まっても、私はなにも喋らない。もちろん、切島くんにかけた個性も解くことはない」
「…………ッ」
 さらなる脅しに、爆豪は沈黙した。
 医師は、ふっ、と笑った。それはどこか加虐的な笑みだった。絶対的な優位に立った者の余裕の笑み。
「しかし、私の言うことを聞いてくれるというのなら、いますぐにでも切島くんにかけた個性を解いてやろう」
「いますぐに、だァ?」
「そうだ。いますぐにね」
「いま、すぐに……」
「なぁ、爆豪くん。私はなにも君に“私のものになれ”って言ってるわけじゃないんだ」
 ちいさな子どもに言い聞かせるように、医師は優しい口調で言う。
「一度、一度だけでいいんだよ。これをネタに再度君に関係を迫ることもない。私は他所へと移って、二度と君たちと関わることはない。当然、誰かに言いふらしたりなどもしない」
「…………」
「特に、切島くんにはね」
「っ、」
「君はたった一度だけ、私にすべてを許すだけでいい。そうすれば、切島くんは目を覚ます。眠り続けた原因は不明のまま、そして目覚めた原因も不明のまま。しかし、それで君たちはまた以前と変わりのない日々を過ごせる。君が私を受け入れ、そのまま口を噤めば、すべては元通りになるんだ」
「…………」
「ふざけんな!!」
 黙りこみ続ける爆豪の隣で、ようやく切島は怒鳴り声を上げた。
 なにが元通りだくそ野郎がふざけるな。ふざけるな、ふざけるな!!
 あの優しかった先生がこんな脅迫をするなんて……。
 信じられなかった。いや、信じたくなかった。けれど、目の前で爆豪を脅し続ける医師は紛れもなく切島が世話になり続けた医師であり、ここになにひとつ嘘などない。現実だ。これはすべて現実。
 一度認めてしまえば、急速に頭が熱くなった。怒りのあまり目の前が真っ赤に染まったような、そんな錯覚すら覚えるほどに。

「てめぇ、ふざけんなよくそ野郎がッ!!!」
 声こそは優しいが、要求している内容は下衆そのものだ。反吐が出る。こんなやつを先生と慕い、世話になっていたなんて、自分の見る目のなさに唾棄するほどに嫌気がさす。
「おい、爆豪! こんなやつの言うことなんか聞く必要はねェ! さっさとぶっ飛ばしちまえ!!」
 こんなやつの話など、これ以上聞くだけ無駄だ。聞く価値などない。
 切島は爆豪が医師を容赦なくぶっ飛ばす姿を予測した。そしてそのまま、馬鹿言ってんじゃねぇよくそ野郎と、爆豪が医師の要求を一笑する姿を渇望した。
「…………」
「爆豪……?」
 しかし、爆豪の拳が医師を殴り飛ばすようなことはなかった。
 爆豪はその場から動くことすらせずに、医師を睨みつけるだけに抑えている。
「おい」
「なんだい、爆豪くん」
「本当に、あいつの目が覚めないのはてめぇのせいなのか」
「爆豪っ!? んなもん確認するだけ無駄だって! どうせ自分の都合の良いようにしか言わねぇに決まってる!」
「……そうだね、急に言われても信じられないのも無理はない」
「…………」
「いいよ、ならひとつ証拠を見せてあげよう」
 そう言うと、医師は立ち上がった。
 いったいなにをする気か。二人そろって身を固くしていると、医師はキャットタワーでゆらゆらと退屈そうに尻尾を揺らしていた猫へと近づいていった。固唾を飲んでさらなる動向を窺っていると、医師は唐突に猫の頭を撫ではじめた。
 猫が目を細めてごろごろと喉を鳴らす。しかし、医師が猫を撫でながらもう片手でぱちんと指を鳴らした瞬間だった。ふいに、かくりと猫が頭を下げた。ぐでん、と力なく横たわる小さな体。けれど、その腹部はゆるゆると上下に動いていた。
「てめぇ……っ」
「大丈夫、寝ているだけだよ。切島くんみたいにね」
 医師はキャットタワーから離れる。そして、よく見ててごらん、と言ってから、ぱちん、と指を鳴らす。すると、はっ、としたように猫が頭を持ちあげた。なにがあったのかわかっていない様子で、きょろきょろと辺りを見渡し、やがて何事もなかったように毛づくろいをはじめる。
「…………」
「わかってもらえたかな?」
「…………」
「私はなにひとつ、嘘は言っていない。なにひとつ、ね」
「…………」
「あぁ、いけない。紅茶が冷めてしまったな」
 淹れなおしてこよう、と医師は唐突に手つかずだった爆豪のカップを手にした。そのまま爆豪に背を向け、キッチンへと向かっていく。その背中はどこからどう見ても無防備だ。隙だらけ。
 万が一の抵抗を考えて確保するならば、絶好のチャンス。だというのに、爆豪は黙ってその背中を見ていた。眼差しはこれ以上ないほどに険しいのに、医師を追いかける素振りも、手を出す素振りも見せはしない。
「おい爆豪ッ、なにやってんだ!? さっさとあいつを確保しろ!!」
「…………」
「まさか、あの野郎の言うこと信じたわけじゃねェだろうな……!?」
「…………」
「なぁ、おいやめろよ爆豪ッ? あいつの言ってることなんてなにひとつ確証なんてねぇ。わかってんだろ? あれだけで確かな証拠になんかなるもんか! なぁ爆豪ッ」
「…………」
「爆豪、爆豪っ、頼むから、おかしな真似はしないでくれ!」
 嫌な感覚がじわじわと胸に広がっていく。
 爆豪がなにを考えているのか。嫌でもわかる。だが、それは切島にとって最悪な選択であった。できることなら杞憂であってほしい。爆豪のことならなんでも知っている。爆豪のことならなんでもわかる。ずっとそうだった。でも、いまだけはすべてが外れていてほしかった。

「待たせたね、爆豪くん」
 医師は淹れなおした紅茶を片手にすぐ戻ってきた。
「さて、答えはでたかな?」
 爆豪くん、とカップをテーブルにおいて、医師は問いかける。耳にこびりつくような厭らしい声。爆豪は嫌悪を隠せない様子で眉をひそめた。
「……あいつは、切島は、本当の本当にてめぇの個性のせいで眠ってんのか?」
「あぁ、そうだとも」
「本当、に……」
「嘘じゃない。ちゃんと見せてあげただろう? 誓ってもいいさ」
「…………」
「なぁ、おい、ちゃんと考えろよ爆豪。こんなの罠だ。全部全部嘘っぱちに決まってる! おめえを好きにしたいこいつがなにもかも自分の良いように言ってるだけだ! なぁ、おめぇだってわかってんだろっ? 頭のわりぃ俺にだってわかってんだぞ!? 頭のいいおめぇにわからねぇはずがねぇ!! おいッ!! 爆豪!!!」
 必死になって切島はまくし立てた。頼むから伝わってくれ。そんな想いを込めて、ひたすら叫ぶ。けれど、爆豪はそんな切島に反対に、はぁ、と静かに息を吐いた。ひどく力のないため息。
 嫌な予感が強くなる。いまこの身体にはありもしないはずの心臓が、どくんどくんと緊張に脈を打つ。いやだ。いやだ爆豪。お願いだからやめてくれ。これ以上なく願うが、しかし誰よりも爆豪は無慈悲であった。
 医師を威嚇し続けていた手から、ぱたり、とついに力が抜ける。それがどう意味するのか。わからぬものは、この場にはいない。
「寝室はこちらだよ、爆豪くん」
「…………」
 医師に促され、爆豪は無言で歩き出す。
 リビングのすぐ隣。寝室は広く小奇麗にされていた。統一された家具はどれも高級そうで、そんな家具たちに囲まれる形で大きなベッドが置かれている。
「上着はそちらに置いてくれ」
「…………」
「爆豪! やめろ! なぁやめてくれよ! 頼む……、頼むから! 俺は大丈夫だって! 自分でちゃんと起きてみせるから、なぁ、そんなことしなくていい! そんなことしないでくれよ!」
 さらに必死で訴えるも、爆豪は上着を脱いでしまう。白い首が晒されて、薄暗い部屋でそれは艶めかしい色を放つ。
 医師はその色に目を細めながらも、サイドテーブルからなにかを取りだした。銀色に鈍く光るそれは手錠だ。
「手を出してくれるかな」
「はっ、用意周到なこった」
「爆豪ッ!!」
 すぐに白い両手が差し出される。
 切島は下げさせようとその手に触れるが、どうすることもできはしなかった。いままでとなにも変わらない。こんなにも傍にいるのに、切島にできることはなにひとつない。ただ指を咥えて眺めていることしか……。
「おいてめぇ、わかってんだろうが、もしこれであいつが目覚めなかったら……、そんときは本気でてめぇを殺す」
「ははっ、怖いなぁ。でも、大丈夫。約束は守るさ。私はあくまで君に深く触れたいだけで、決して無意味に苦しめたいわけじゃないだ」
「うさんくせぇ」
「それでも、君はこの選択に決めたのだろう」
「…………」
「あぁ、もうまったく本当に君はいじらしいね」
 テレビ越しとは大違いだ。
 医師は深く笑った。まるで自分だけが本当の爆豪を知っているのだと言いたげな、ひどく傲慢な表情。なんて腹立たしく、なんて忌々しい顔だろうか。切島はぐつぐつと胸の奥の熱がどんどんと熱く沸騰するのを感じた。怒りのあまり心臓が痛くて仕方がない。殺意とは、こんな感覚をしているのかと強く思う。
「爆豪!!!」
 医師の手が爆豪の手に触れる。そうして、かしゃり、と耳障りの悪い音ともに手錠が爆豪の両手首にはめられた。加えて、医師は爆豪の両親指にサムカフをはめた。これで爆豪の爆破は防がれてしまったと言っていい。不用意に爆破すれば、指が飛ぶ。
 医師はさらにもう一つの手錠を取りだした。爆豪をベッドに寝かせた上ではめた手錠の鎖とベッドの縁をその新たな手錠で繋げた。爆豪は無防備に両手を上げさせられた状態でベッドの上で完全に身動きを制限されてしまっていた。
 爆豪は顔をしかめる。嫌悪に溢れた様子で唇を噛む。しかし、ここまでされても抵抗することはなかった。抵抗を知らぬ幼子のように大人しく柔順に男に身を預ける。
「あぁ……、美しいね、爆豪くん」
 医師は、ふふっ、と恍惚の色で顔を染めながら、爆豪の頬に手を伸ばす。指先が白い頬に触れる。その直前、爆豪は顔を反らしてその手を避けた。
「……ここまでしてやったんだ。先にあいつにかけた個性、解け」
「…………そうだね。いいよ、解いてあげよう」
 静かな寝室に、ぱちん、と音が響く。

「ぅ、ぐッ……!?」
 その瞬間、切島はぐっと誰かに身体を引っ張られるような感覚を感じた。覚えのある感覚だ。あの日の夜、上鳴の身体に意識が吸いこまれ、そしてはじき出された時と同じ感覚。引っ張られる。男が本当のことを言っているのだとしたら、恐らく、元の身体に。
「これで、切島くんは目覚めるよ」
「本当だろうな……」
「大丈夫。すべてが終わって、君が次にあの病室を訪れたその時は、ちゃんと目を覚ました切島くんがいつもの様子で君を迎えてくれることだろう」
「…………そう、かよ」
「くそっ、爆豪!!」
 なにもできないのか。本当に、なにもできはしないのか。
 見えない激流に押し流される身体を全力で堪えながら、切島は往生際悪く叫んだ。こんなのはいやだ。本当にいやなんだ。だが、無情にも意識は遠のいていく。
「爆豪、爆豪爆豪!!」
 視界が霞む。それでもなんとか爆豪の姿を強くとらえていると、爆豪は、ゆらり、と辺りに視線をやっていた。自分を探しているのだろうか。一瞬だけ、目が合う。切島。爆豪がちいさく呟く。偶然だ。けれど、確かにその瞬間、目があった。
 その赤い目はすぐに白い瞼によって閉ざされた。
 そして、さらに爆豪は呟く。
「さっさと来いよ」
「っ……!」
「ははっ、大丈夫。時間はたっぷりある、ゆっくり楽しもうか。爆豪くん」
 男が好色を隠せぬ声で返す。今度こそ、その手はついに爆豪の頬に触れた。
 あぁ、けど違う。違う。切島にはわかった。切島、と己を呼ぶ爆豪の声がリフレインする。消えかける意識の中、それでもたしかに確信する。
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