「ッ……!!!」 はっ、と目が覚めた。 白い天井。既視感のある天井。病室だ。切島はすぐに気がつくと、ばっ、と身を起こした。そうすると鈍い痛みが背中辺りを刺激した。身体が重い。体重を感じる。切島はさらに気がついた。霊体ではない。これは実体のある自分自身の身体だ。 戻ってきたのだ。男の言っていたことは本当だった。男が個性を解除した途端、切島は目覚めた。しかし、それならば、いま爆豪は……。 「爆豪……ッ!!」 切島はベッドから飛び降りた。 直後、膝に力が入らず床に手をつく。ずっと眠り続けていたせいだろう。筋肉が固まってしまったらしい。背中だけじゃなく、身体のあちこちがぎしぎしと痛んだ。けれど、それがなんだ。 身体の痛みなんて構っている場合じゃない。もっと大切なものが傷つけられようとしているんだ。そんなもの、どうでもいい! それに爆豪は言っていたじゃないか。 『さっさと来いよ』 そう言っていた。 あれはあの男なんかに向けられた言葉じゃない。切島にはわかった。あれは紛れもなく切島自身に向けられた言葉だ。きっと爆豪は切島が傍にいると信じて、言ったのだ。実際に姿は見えなくても「傍にいるから」と告げた切島の言葉を信じて、そう言ったに違いない。 「すぐいくからな爆豪ッ!」 切島は身体の痛みを無視して立ち上がると、備え付けのクローゼットに真っ先に飛びついた。そこには切島がいつ目覚めてもすぐに退院できるようにと爆豪が持って来てくれていた切島の服が置いてあった。切島は病衣を脱ぎ捨てるとすぐさまその服に腕を通し、病室を飛び出した。 廊下を放たれた弾丸のような勢いで走る。 「ちょっとあなた! ここをどこだと思ってるんですか! そこのあなたっ!!」 「すんませんッ、急いでるんです! ほんとすんません!!」 看護師に注意されるが、足を止めるわけにはいかなかった。早く行かなければ。一刻も早く、爆豪にもとに早く早く早く!! 人にぶつからないように細心の注意を払いながら全速力で駆け抜ける。 「あぇっ!? 切島ッ!?」 大きな声で名を呼ばれたのは、エレベーターを待っている暇すら惜しくて、階段を何段も飛ばして駆け降りた先のことだった。また見舞いに来てくれたのだろうか。紙袋を片手にした上鳴が目をまんまるにして切島の前にいた。 「おまっ、起きたのかッ? え、いつ? ば、爆豪は? もう知ってるのかっ? え、てか、その格好、もう退院す――」 「上鳴ッ!!」 「ふぁい!?」 突然現れた切島に混乱をあらわにする上鳴に、切島はばっと詰め寄った。 あぁ、あぁ、ナイスタイミングだ上鳴! また見舞いに来てくれたのか? ありがとう! 本当にありがとう上鳴! よく見舞いに来てくれた!! まじでお前は上さまだ! おめぇみたいなダチを持てて俺は幸せもんだぜ! 「なぁ、上鳴! おめぇここまでなんで来た? バスか? バイクか? なぁ!?」 「え、あ、ば、バイクだけど」 「っし!!」 ぐ、と切島は拳を握る。 「上鳴!わりぃ、そのバイク貸してくれ!!急いでいかなきゃなんねぇんだよ!!」 「はぇ? な、なんなんだよ切島さっきから、もう退院すんのか? どこ行く気だよ」 「説明してる暇ねぇんだ頼む上鳴!! 爆豪がっ、爆豪がッ!!!」 「っ」 焦りのあまり、うまく言葉が出てこない。しかし、必死で爆豪の名を募る切島に上鳴は呆けていた表情を、はっ、と締まらせた。あーもう! ともどかしそうに声を荒げる。 「なんかよくわかんねーけどわかったよ! 貸すよ貸しますよ! 好きなだけ使ってくれ!」 「上鳴っ!! さんきゅー!!」 「けど、運転すんのは俺だかんな! 二ケツだ二ケツ! いまのお前にはとてもじゃねぇけど運転なんて任せらんねェ」 「なんでもいい! 恩にきる!!」 「爆豪のピンチなんっしょ? バイクのひとつやふたつなんてことねーよ! そんで、場所は?」 医師のマンションの名を告げながら、切島は上鳴と一緒に駐車場へと走った。 ヘルメットの隙間から、風が切島の頬を撫でていく。久しぶりの感触だ。だが、その感触になど構うことなく、切島は声を張り上げて上鳴にこれまでのことを大ざっぱに説明した。霊体になっていたこと、自分が眠り続けていた原因、目覚めた原因、爆豪が脅されたこと。その犯人は自分がよく世話になっていた医師であったこと。 「まじでか。え、てか幽霊ってまじでか!」 「まじだよ、くそッ!」 「はぇ〜、そんな個性もあるもんなんだなぁ!」 さすがに上鳴の身体に入りこんでしまったことは黙っておいた。上鳴の身体で勝手に爆豪のことを抱きしめたことを告げるのは、なんだか憚られた。それに、とにかくいまは爆豪のことでいっぱいいっぱいだった。バイクが赤信号に引っかかるたびに切島は大きく舌打ちをこぼした。 「もっと! もっと速くだ! 上鳴!」 「これでも十分飛ばしてるよ! あと少しだから!」 その少しが、切島には数時間にも感じられた。 ようやくの思いで医師の住むマンションにつくと、切島はバイクが停止するかしないかの間にバイクから飛び降り駆けだした。そのあとを上鳴も慌てて追いかける。 「っておいおい、オートロックじゃん」 だがその二人の前にオートロックの分厚い硝子の扉が行く手を阻む。煩わしい。切島は目つきを鋭くさせた。 「あぁもうはやく管理人さんに連絡を――」 「それじゃあ遅い。上鳴、ちっと離れてろ」 「え? あ、ちょ……っ、お前まさか!」 そのまさかだった。切島は腕を硬化させると、一切の迷いもなく渾身の力でもって強化硝子を殴りつけた。ビシッ、と鈍い音がなる。一発で硝子は割れなかった。しかし、さらにもう一発打ち込むと、バリンッ、と大きな音とともに硝子が砕け散った。 警音が辺りに大きく鳴り響く。少しもしないうちに奥からは警備員が飛び出してきた。 「お前たち! なにをやっているんだ!」 「そりゃあそうなりますよねー!」 「上鳴、わりぃけど説明任せていいか?」 「えぇええ、って、はいはい、わかってますよ! 爆豪のピンチですもんね!」 任せとけ、と上鳴は力強く頷く。 「止まれ! 止まりなさい! さもないと……、」 「ちょちょちょ、ちょーっといいですか警備員さん! 大丈夫! 俺たち怪しいもんじゃありません! 俺たちね、こう見えてヒーローです!!」 「はぁ? ヒーローだと?」 「そーそー! ほら、俺の顔よく見てください! テレビのヒーローインタビューとかで見たことないですか? チャージズマって言うんですけど、あるでしょ? あるよね!? ないとか言わないで!」 「……言われてみれば、たしかに、君みたいなヒーローがテレビでうぇいうぇい映ってたような」 うぅん、と警備員は上鳴の顔に目を凝らしながら唸る。 その隙に上鳴が、はよいけ! と切島の背中を押す。さんきゅ、と返しながら、切島は警備員の横を駆け抜けた。おいこら! と声が背中にかかるが、上鳴を信じてふり返らなかった。 「はっ、はっ、はッ……!」 エレベーターなんて待っていられずに階段を駆け上がる。 ずっと寝っぱなしだった身体はすぐに息が上がったが、切島の勢いが落ちることはなかった。乾いた喉が引きつれる。それすらも気になるようなことはなかった。 必死に足を動かせ続けて、そうして、ともすれば夢のような記憶を頼りに切島は一つの扉の前へとたどり着いた。ふたたび腕を硬化させる。苛立ちをぶつけるようにしてドアを殴りつければ、重たげな装飾をしたドアは一発でばきりと根元から歪み、耳障りな音立てて沈む。 「爆豪ー!」 切島は土足のまま上がりこむと、勢いを殺すことなく記憶に新しい廊下を進んだ。見覚えのある猫のいるリビングを突っ切って、さらにその先の寝室へと一直線に向かう。玄関の扉と同じようにして切島は寝室の叩き壊すようにして扉を殴り開けた。 「爆豪ッ!!」 はたして爆豪はそこにいた。 医師と二人、爆豪は記憶のままにベッドの上に寝かされていた。しかし、記憶ではしっかりと着こんでいたはずのシャツのボタンは外され、首筋だけでは飽き足らず胸元から腹にかけて白い肌が大きく晒されていた。 不躾な手が、その白い肌を撫でている。一方で、もう片方の手はベルトへと伸ばされていた。なにをするつもりなのか。そんなのは愚問だ。 飛びこんできた光景に、切島は、カッ、と全身の血液が沸騰するような感覚を覚えた。びきっ、と目元が引くつく。 「切島くんッ? なぜ、君が――」 突然、寝室に飛びこんできた切島に、医師がはじめて動揺をあらわにした声を出した。だが、その声をすべて聞き終わるよりも早く、切島は床を強く蹴り上げ医師に向かって飛びかかっていた。 ぐっ、と強く拳を握り、医師の頬を殴りつける。男は勢いよく吹っ飛び、壁へと衝突した。ど、と鈍い音がして、医師は声もなく床へ沈む。そのまま医師は動かなかった。失神したのだろうか。それとも打ち所が悪かったのだろうか。どうでもいい。どちらでも構わない。 切島はさっさと医師から意識を逸らすと、急いで爆豪のもとへと駆けよった。 「ばくごうっ、爆豪!!!」 真っ先に手錠とベッドを繋ぐ手錠を硬化させた手で破壊する。そのまま爆豪の手と指にはめられた手錠とサムカフも壊してしまいたかったが、爆豪の手を傷つける可能性を考えて思いとどまった。 爆豪の身体を抱きあげる。怪我はなさそうだ。だが、近くで見ると、爆豪の白い首筋にはいくつか赤黒い痕ができていた。切島は唇を噛んだ。苛立ちが膨れる。 「爆豪、大丈夫かッ? ごめん、遅くなった」 「……ぅ、…………ん、」 「爆豪? 爆豪? どうしたっ?」 尋ねるが、爆豪は不鮮明に呻るばかりだった。 頬にそっ手を添え顔を覗き込むが、目が合うことはなかった。爆豪は力なく目を伏せ、時折ぱちぱちと重たげに瞬きをくり返す。ようやくこちらを向いたかと思えば、ふらふらと視線は彷徨い焦点があっていない。意識が朦朧としているようだ。 その様子に切島は医師の個性のせいかと思った。眠りの個性を爆豪にも軽くかけたのではないのかと。しかし、ふと視界にうつった爆豪の腕に赤いちいさな痕を発見して、息を飲んだ。首筋に残された痕とはまた違った赤いちいさな点。 切島は慌ててあたりを見渡した。するとベッドのすぐ横のサイドテーブルに注射器が無造作に転がっていた。中身は、空である。 「ッ……!!」 ぎり、と切島は唇をさらに強く噛んだ。あぁ、あぁッ、屑野郎はどこまでも屑野郎だった。度しがたいほどに、屑。怒りに身体が震えた。 そうしているとばたばたと足音が聞こえてきた。その音は少しずつこの寝室へと近づいてきて、遅れてやってきた上鳴が姿を現した。 「っいた! 切島! 爆豪は、……って爆豪!? おい、大丈夫かよ!」 上鳴はぐったりとした様子の爆豪に驚きの声を上げる。 「う、ぐぅ……」 それと同時に後ろから男のうめき声が聞こえてきた。意識を取り戻したらしい。 ちっ、と切島は舌打ちをこぼした。苛立ちが膨らみ続け、全身をすっぽりと覆っていく。許せない。あの男だけは、絶対に。 「……上鳴、ちょっと爆豪頼む。あと救急車と手錠の鍵も」 「お、おうっ」 ぐったりとしたままの爆豪を上鳴に預けてから、切島は立ち上がった。 頬を押さえながら身を起こす医師に一歩、また一歩と歩み寄る。医師は切島を見上げると忌々しそうに表情をゆがめた。 「ぅぐ、くそ……、なぜ、どうして君がここに」 「…………」 「あぁ……、あと、あと少しだったのに……」 医師が心底残念そうに言う。 その瞬間、切島は己の中の最後のなにかが、ぶちり、と千切れるような音を聞いた。 医師の胸ぐらを掴む。そのまま、立ち上がる気力が残っていないらしい男の身体を無理やり引っ張り上げると切島は、ばきっ、と再度その頬に向かって拳を放った。うごっ、と汚い悲鳴とともに医師の身体が吹っ飛ぶ。 だが、切島は掴んだままの胸ぐらを引っ張り、医師の身体を引き戻すと間髪入れずにもう一発、頬を殴った。ごっ、と固い感触がして、医師の鼻から血が吹き出した。床に鮮血が飛ぶ。しかし、握りしめたままの切島の拳が緩むことはない。あるはずがなかった。 一発、もう一発。振り上げられた拳は何度も何度も男の頬を殴り続けた。ど、ど、と重たい音が部屋に響き、そのたびに男が耳障りの悪いうめき声をこぼす。本当に、耳障りで、汚い声。 「おいおい、切島、怒ってんのはわかってるけどその辺にしとけって」 背後から上鳴が言う。 切島は無視して医師を殴り続けた。 「おい、切島、切島! やりすぎだって、もうやめとけ!」 「…………」 「切島ッ? おいってば、聞いてんのか!?」 あまりにも一方的だった。医師は抵抗もできずに、ただひたすら一方的に殴られ続けている。見かねた上鳴がどんどんと声を荒らげる。が、しかし、それでも切島は止まらなかった。 上鳴の言う通り、やりすぎだ。わかっている。だが、止められなかった。こいつがやったことを思うと、どうしてもこの激情を抑えることができなかった。 こいつのせいでどれだけ爆豪が苦しんだと思っている。こいつのせいでどれだけ爆豪が傷ついたと思っている。肉体的にも、精神的にも、こいつは爆豪を苦しめ傷つけた。下劣で卑怯で、人として最高に最低で最悪な手を使って、爆豪を好きにしようとした。 考えれば考えるほどに、頭には血ばかりがどんどん上がっていく。 足りない。たったこれだけでは到底この苛立ちを治めるに足りない。 拳を握りしめた右腕が硬化する。無意識だった。 「やめろ切島!!」 上鳴が叫ぶ。しかし、やはりその声は切島の耳にはまるで届いていなかった。 こいつだけは許してはおけない。ただ、それだけだった。爆豪を傷つけたこいつだけは、こいつだけは絶対に許せるはずがない……! 切島は拳を強く強く握った。そのまま、硬化した拳を振り下ろす。 男が壊れる音を、切島は予想した。きっといままで以上に耳障りな音に違いない。 そう思った。しかし、実際には違った。 「きり、し、ま……?」 身構えていた切島の耳に届いたのは、ちいさな声であった。 ほとんど掠れてしまっていて、とても聞き辛いちいさな声。けれど、切島は聞き逃さなかった。聞き逃すはずがなかった。 「ッ……!」 医師の顔面に届く直前で、拳は止まる。 ばっ、と切島はふり返った。そうすれば、ベッドの上で上鳴に支えられてかろうじて上体を起こしている爆豪がこちらを見ていた。その眼差しはいつもと比べるとやはりはっきりとはしていなかったが、赤い目は確かに切島の姿を捉えている。 「きりしま?」 もう一度、爆豪が呼ぶ。 その呼びかけに切島はいままで執拗に殴り続けて男を放り投げるようにあっさり手放すと、とびかかる勢いで爆豪のもとへと駆けよった。 「ばくごうっ、爆豪、爆豪爆豪!!」 「きりしま、なのか?」 「っあぁ、俺だ! 俺はここにいる、ここにいるぞ、爆豪ッ!」 強く言葉を返せば、声が響いたのか爆豪は顔をしかめた。 無事に手錠とサムカフが外された手が伸ばされる。切島がさらに身を寄せると、その手は切島の頬へと触れてきた。切島が本当にそこにちゃんと存在していることを確認するように、何度も頬を撫でる。 「なっ、ちゃんとここにいるだろ」 目の奥がつんと痛む。その痛みに眉間にしわを寄せながらも、切島は、にっ、と爆豪に笑いかけた。そうすれば、爆豪にも、ふ、と口端を小さく上げて笑った。 「おきんの、おっせぇ、んだよ……くそが」 「ごめん、ごめんな……爆豪」 「ばか、あほ、くそ……、くそが……」 「うん……、ごめん。ほんとに、ごめん」 爆豪は拙い罵倒をくり返した。そのたびに切島はごめんと謝り続けた。 そうしていると、ふいに爆豪の身体から力が抜けた。ぐにゃりと完全に脱力する爆豪に慌てて顔を覗き込むと爆豪は目を閉じていた。意識を失ったらしい。一瞬焦ったが、ゆっくりと安定した呼吸音にひとまずはほっとする。だが、まだ完全に安心はできない。 切島はシーツで爆豪の身体を包みそのまま抱きあげると上鳴に目をやり、尋ねた。 「上鳴、あの野郎のこと頼んでいいか?」 「あぁ、任せとけ」 「さんきゅ。なにからなにまでわりぃな」 「いいって、気にすんなよ」 ダチだろ、俺たち! 上鳴はびしっ、と親指を立てた。本当にどこまでも頼りになるダチである。 切島はもう一度上鳴に礼を告げると、抱えた爆豪の身体を揺らさないよう気をつけながら扉に向かった。倒れた医師の横を通りすぎる。顔をぼこぼこに腫らした医師が不明瞭に唸り声を上げていたが、切島は一瞥すらよこすことなくそのまま部屋を出た。 外からはサイレンの音が徐々に近づいてくるのが聞こえる。きっともうすぐ上鳴が呼んでくれた救急車が到着するだろう。切島はさらに急いだ。 |
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