ちゅ、と唇を触れ合わせるたびに、少し、心臓がはねる。でもそれを悟られたくなくて、爆豪はなんでもない様子を装いながら静かに瞼を閉ざしていた。真っ暗な世界で感じるのは唇に触れる温度と、そして肌を刺すちくちくとした無精髭の感触。痛くはないがちょっとくすぐったい。剃るなら剃るでしっかりと剃ればいいのに、教師なんて職業についているくせに物臭なところがあるこの人の口元は一向にちくちくとした感触のままだ。
 けれど、このちくちくとしたくすぐったい感触を爆豪は存外嫌ってはいなかった。だって、その感触を感じるたびに実感するのだ。あぁ、先生とキスをしているな、と。凄く実感できる。だから、嫌いではない。キスが深ければ深いほどにその感触も一層強く感じて、なんというか、すごく、たまらないのだ。
 いくらでもこうしていられる。割と本気でそう思ってしまう。でも、しばらくして触れ合わせた唇は離れてしまった。無意識に追いかけそうになるが、頭の天辺に手をそっと置かれて押しとどめる。そうすれば置かれた手はそのままくしゃくしゃと頭を撫でてきた。それは、もうこれで終わりの合図。
「…………ん」
 爆豪はちいさく囁くようにして息を吐くと、相澤からゆっくりと身を離した。余韻に頬が熱い。もどかしい感覚がむずむずと背中を撫でる。できることならこの感覚をなんとかしてほしいが、それは無理な願いなのだろう。わかっていたから爆豪はなにも言わなかった。
 恋人である。でも教師と生徒でもある。お互いに自制は必要だ。

 本音を言えば、教師がなんだ生徒がなんだ。そんなもん知ったこっちゃねぇと思う。お互いがそれでいいのなら、外野の言葉なんて耳を傾ける必要などなく、またその目を気にする必要だってない。そう思う。でも、たぶん、そういう風に思うのは自分が教師と生徒の生徒側であるからなのだろう。いくら爆豪が外野など関係ないと思っても、現実としてそういうわけにはいかない。わかっている。
 さらに本音を言ってしまうのなら、それすらも知ったこっちゃないことだ。好きだから好き。そこに教師だから生徒だからと言われても、やはり知ったこっちゃないのだ。でもきっと相澤にとってはそうではないのだろう。だから、聞き分けのいい良い子ちゃんのように爆豪は、ぐ、と口を噤む。
 べつに、良い子に見られたいなんて思ったことない。良い子でありたいと思ったこともない。よく見られたいがために自分の心を押し殺して、思ってもいない言葉を作りだし、にこやかにおべっかだなんて想像しただけでもヘドが出る。
 けど……、けど、だ。自分が良い子でいることであの人が助かるというのなら、少しだけ、本当にほんの少しだけ良い子ちゃんを振る舞ってやらんでもない。そう思うのだ。ちょっとの不便も、もどかしさも物足りなさも、我慢してやろう。そんな気になれる。
 これが好きって感情なのだろうか。そう思うと、なんだか背中のむずむずが強くなる。けれど、きっとそのむずむずは言葉の響きとは裏腹にそう悪い感覚ではなかった。顎をくすぐるちくちくと似た感覚。
 あの人が好きだ。だから、なにひとつ苦ではなかった。
 
 
 
 
 
 がらっ、と勢いよく開く教室の扉に、各々席につきながらもお喋りを続けていた生徒たちはピタッと口を閉ざした。朝のHRの時間。前に向きなおり、黒尽くめのヒーローコスチュームをまとった担任のいつもの気だるげな挨拶を待つ。
「ヘーーーイ! A組少年少女諸君! グッモーニーーーン!!」
 しかし、そんな生徒たちの耳に届いたのは担任である相澤とは似ても似つかないうるさいくらいに明るい声であった。どういうわけかA組の教室に現れたのは、ヒーローコスチュームこそは同じ黒だが頭に乗っかった髪は派手な金色をしているプレゼント・マイクだった。
 まだ朝だというのにいつもと変わらぬテンションで教壇に立つと教室をぐるりと見渡し、欠席者はいねェな! とこれまたうるさく明るい声で言う。
「あれー、なんでプレゼント・マイク? 相澤先生はー?」
 当然の疑問に一番に声を上げたのは葉隠だった。見えはしないが、制服の動きから察するに片手を上げているらしい。爆豪の眼前で制服の袖がひらひらと揺れる。
「イレイザー・ヘッドは体調不良により今日は休みだ!」
「えっ、体調不良って、大丈夫なんですか?」
「昨日はなんともない様子だったよね? それなのに急に休むなんて……」
 葉隠の質問にプレゼント・マイクはすぐさま答え、そしてその答えに、ざわっ、と、教室の空気が揺れた。ぽつぽつとほかの女子たちが心配げな声を上げる。ヴィランによるUSJ襲撃直後も全身包帯だらけにしながらも教壇に立ったあの相澤が休んだのだ。どれだけひどい体調不良なのか。
 爆豪も顔には出さなかったが内心、え、と思った。だって、昨日見た相澤は体調が悪そうになど見えなかった。こっそりと二人っきりであった時も、これと言っていつもと変わった様子はなく、時間になって別れた時だって具合が悪そうには見えなかった。
「あー、まぁ、大丈夫だ! 体調不良って言っても寝不足みたいなもんだ! 一晩休めばさっさと治っちまうようなもんだからノープロブレム! そんな心配すんなって!」
 ざわざわと空気の揺れが大きくなりかける中、しかしプレゼント・マイクは明るい声のままそう言った。軽い口調には確かにそんな深刻な雰囲気は感じない。なぁんだ、と重くなりかけた空気が一気に離散する。プロヒーロー兼教師だもんなぁ、そりゃ色々と忙しいだろうね、先生いつも眠そうだし、と相澤のことを気にかける様子を残しつつ、教室はいつもと変わらぬ少し騒がしい空気を取り戻していく。
「まぁ、そんなわけであいつはいないが、だからって気ぃ緩めたりするなよ! なんかあったら速攻チクってやるからな!」
「は〜い」
「あ、それと言っておくがお前ら、お見舞いに行こうだとかは考えんなよー」
「えぇー、なんでですかー?」
 次に疑問を唱えたのは芦戸だった。風邪とかじゃないんだったら移る心配はないんだしぃお見舞いくらい良いんじゃないですか〜、と小首をかしげ、そんな芦戸にプレゼント・マイクはノーノーと首を横に振った。
「大人として教師として男として、弱ってる姿ってのは見られたくないもんなんだよ。特に自分の生徒にはな!」
「ふ〜ん、そうなのぉ?」
「そうなの! 大人も繊細なの! オーケー?」
「オーケー!」
「グーーッド! いい返事だベイベー!」
 テンションの高いプレゼント・マイクに釣られてか、芦戸は元気よく答え、そしてさらに明るい声でプレゼント・マイクが答える。
 そうして、相澤のいないまま授業は進んでいったのだった。

 相澤とプレゼント・マイクではあまりにもキャラが正反対すぎて授業の雰囲気までもいつもと正反対であった。だが、キャラが正反対であってもどちらもプロヒーローであり、教師である。特にこれと言って問題もなく授業は順調に進み、生徒たちは普段と変わらぬ様子で勉学に励んでいた。
 そんな中でただ一人、爆豪だけが休みの時間の合間にじっと携帯電話を片手に思案していた。
(どう、すっかな……)
 連絡すべきかしないべきか。そんな風にちょっと迷っていた。
 思いだすのは朝のHRでのプレゼント・マイクの言葉だ。大人として教師として男として、弱ってる姿ってのは見られたくないもの。女子たちはなんだそれと言わんばかりに首をかしげていたが、爆豪にはその言葉の意味をなんとなく理解できていた。
 風邪を引いた時、怪我をした時、爆豪はできるだけ一人でいたいと思う。誰にも邪魔されずゆっくり静かに休みたい。弱った姿を人に見られるのは嫌だ。弱っているからと言って過剰に優しくされるのも嫌だ。だから、できるだけ一人でそっとしておいてほしいと思う。
 けれど、相澤が体調不良であると知った爆豪の頭にはすぐに見舞いの文字が浮かんだ。どれほど具合が悪いのか、食事はちゃんととれているのか、なにか自分にできることはないか。そんな風に思った。
(…………でも)
 見舞いはするなと言っていたのだから、言う通りに見舞いはしないべきなのだろう。あぁ、でもでも、彼と自分の間柄なら許されたりしないだろうか。爆豪は悩む。
 恋人。特別な関係だ。
 けれど、その特別はどこまでなら許されるのだろうか。
 爆豪はいつだってその距離を慎重に測っている。

『体調不良って大丈夫かよ』
 迷った挙句、そんなメッセージをLINEで送ったのは昼休みのことだ。
 見舞いは禁止されたが、連絡を取ってはいけないとは言われていない。そんな言い訳を胸に送ったそれに返事が返ってきたのは昼休みの終わり間際だった。
『大丈夫だ』
 一言だけの素っ気ない返事。
 だが、そこは別に気にしない。自分だって決して文章を飾るような人間じゃない。
 それよりも、だ。
『あとで行ってもいいか』
『だめだ』
 簡素に尋ねれば、またしても素っ気ない返事が返った。そうか、だめか……。爆豪は一人ひっそりと頷いた。少し、ほんの少し寂しく思わないわけでもないが、仕方がない。相澤がだめと言うのだから、だめなのだ。
『わかった』
 だから、爆豪は聞き分けのいい良い子のようにそう返した。
 昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴って、爆豪は携帯電話を鞄に仕舞った。授業が終わってから確認してみたが、返事はもう返ってきてはいなかった。
 
 
 
◇  ◇  ◇
 
 
 
 沈黙していたはず携帯電話が鳴っていることに気がついたのは風呂からあがって部屋に戻ってきた時のことだった。長く鳴り続けるそれはメールやLINEではなく、通話を知らせる音である。時刻は八時過ぎ。
 一体誰からだろうか。爆豪は濡れた髪をわしゃわしゃと無造作に拭きながらベッドに腰掛けた。そのまま枕元に置いた携帯電話を覗き込むと、画面の通知には「相澤先生」の四文字が浮かんでいる。え、と爆豪は軽く目を見開いた。タオルを放って急いで通話に出る。
「もしもし?」
「爆豪、今どこにいる」
「え……」
 先生? と呼びかける間もなく、問いかけられて一瞬言葉に詰まった。
「……自室にいっけど」
 急になんなんだ。そう思いながらも素直に答える。
「今から来れるか」
「は? 来れるて、あんたの部屋にか?」
「そうだ」
「でも……、昼は来んなって言ってたじゃねぇか」
「昼は昼、今は今だ」
「んだそれ」
「いいから、来るのか来ないのか、どっちだ」
「…………わぁったよ、行けばいいんだろ」
 ころりと変えられた許可にいささかむっとしたが、相澤が呼んでいるのなら、それを拒否する選択は爆豪にはなかった。
 それに相澤が自分の部屋に来られるかなどと言ってくるのは大変珍しいことだ。
 もしかしたらなにかあったのかもしれない。そう思って、爆豪は急いで部屋を出た。

「あれ、爆豪。どっか行くのか?」
 1階の談話スペースをまっすぐに突っ切って玄関を出ると切島と鉢合わせた。タオルを首に巻き、汗を流す切島はどうやらランニングから戻ってきたところのようだ。なんとまぁタイミングの悪いことだろう。そう思ったが、爆豪はそんな思いなどおくびにも出さずに切島の問いに対して、あぁ、と無愛想に答えた。
「こんな時間にか?」
「人の勝手だろ」
「いや、おめぇの場合はいろいろと特別だろ」
「あぁ……?」
「にらむなよ、ただ心配してるだけだよ!」
「余計なお世話だっつーの」
 爆豪は、ぷいっ、と切島から顔を背けた。
「ただちょっと自販機で飲みもん買ってくるだけだ」
「ふぅん、そっか。まぁ、気ぃつけてな。寄り道せずにさっさと帰ってこいよ」
「うっせぇ、てめぇは俺のババアかなにかかよ」
 外は外でも学校の敷地内であるというのに、なぜお使いに行く子どものような見送りをされなければならないのか。
 ひらひらと手を振ってくる切島に最後まで素っ気なく答え、爆豪は背を向けると再度急いで寮を後にした。

 これ以上誰にも見つからないよう気をつけながら、相澤のいる教師用の寮棟までジョギングを装いながら軽い駆け足で向かう。そう離れていない教師寮棟まではあっという間にたどり着いた。
 辺りをきょろりと見渡す。場所が場所であると同時に時間が時間なだけに辺りに人の姿はない。それを確認した爆豪はそそくさと教師寮へと足を踏み入れた。教師寮は生徒用の寮とは違い1階に談話スペースや食堂はなく、普通のマンションのエントランスと同じような素っ気ない作りとなっている。さらに慎重に人の気配を窺うが、そこにもやはり人の姿はなく、爆豪は急いでエントランスを抜けるとエレベーターではなく階段を使って相座の居住スペースである2階に向かった。
 そうして相澤の部屋の扉前までたどり着くと爆豪はそっと息をついた。生徒寮は1フロアにつき四人部屋だが、教師寮は1フロアまるごと一人用の部屋となっているから、ここまで来てしまえばよほどのことがない限り誰かに見つかる心配はない。
 大人ばっかり広々とした仕様にしやがって、なんて、始めてここに訪れた時と同じことをあらためて思いながら、爆豪はインターフォンを押した。
「先生」
 ちいさな声で呼ぶ。すると、すぐに扉は開いた。
「せん、せっ……ぅわ!?」
 開いた扉の先に相澤の姿が見えてもう一度呼ぼうとすれば、言いきる前に腕を引かれた。よろめきながら一歩二歩と部屋へと入れば、背後でばたりと音を立てて扉が閉まる。
「あっぶねぇな!」
「あぁ、わるい」
「ったく……」
 文句を言いながら顔を上げれば、相澤と目があった。
 一日ぶりだ。たった一日、されど一日。なんだか妙に久しぶりな気になりながら爆豪はまじまじと相澤の顔を見た。無精髭の生えた、顔色の悪い顔。だが、相澤の顔色が悪いのはいつものことであり、ぱっと見たところあまり普段と違わぬ顔色に思ったより元気そうだな、とほっとした。
 でも、それならなんで呼び出したんだ? 爆豪は首をかしげた。てっきりヘルプの呼び出しかと思ったが、その必要はなさそうに見える。あぁでもやはり休むくらいなのだから、元気そうに見えてどこか具合が悪いのかもしれない。
「大丈夫だったか」
「へーき。誰にも見られちゃいねぇ」
 そんなへま俺がするはずない。
 ふんっ、と答えれば、相澤が口端を少し吊り上げながら、あぁそうかそうだな、と頷いた。
「お前はできる子だからな」
 そしてさらにそんな風に続ける。爆豪は目を丸くさせた。
「……なに言ってんだ?」
「なにがだ」
「なんだよ、その、できる子って……」
「そのまんまの意味だが」
 なにかおかしなこと言ったかと言わんばかりに相澤にむむむと爆豪は口を結ぶ。
 珍しい相澤からの褒め言葉。けれど、こんなことで褒められてもべつに嬉しくない。というか、これは褒め言葉なのだろうか。ちいさな子どもを相手にするような言い方に爆豪は機嫌悪く眉間にしわを作る。
 しかし相澤はそんな爆豪に気がついていないのか、それともただ単に気にしていないのか、爆豪に背を向けるとさっさとリビングに向かっていってしまい、爆豪は釈然としない思いを胸に抱きつつその背に続いた。

「なにか飲むか」
「べつに、いらねぇ」
「ジュースあるぞ」
「…………」
 ジュースて……、なんだそりゃ。
 またしてもちいさな子どもを相手にするような相澤の発言に爆豪はさらにむっとした。
 多少の子ども扱いは仕方ないと許容している。相澤から見たら、間違いなく自分は子どもの部類であるのだと、多少の不服はあるが理解している。しかし子ども扱いは子ども扱いでも、小学生でも相手にするような子ども扱いは許せない。
「いらねぇってば」
 いささか苛立ちの混じった声で答えて、広々としたリビングの中央に置かれた黒のソファへにぼすんと乱暴に座る。するとソファのすぐ前にあるローテーブルの上にビールの空き缶が2個あることに気がつき、爆豪はぴくりと目尻を引きつらせた。
「おい!」
「なんだ」
「あんた、なにビールなんて飲んでんだよっ」
「あぁ?」
「体調わりぃんだろ? 酒なんか飲んでんじゃねぇよ」
 相澤ともあろうものがなにをしているのか
 どんどんと機嫌を悪くしながら爆豪は相澤をにらむが、相澤はあぁそれかと飄々と答えた。
「大丈夫だ、体調不良は嘘だからな」
「……は、嘘だぁ?」
「あぁ」
 頷きながら相澤は爆豪の隣に腰掛ける。拳ひとつ分も距離はない、本当にすぐ隣。それは相澤からにしてはちょっと近すぎる距離であった。だが、爆豪はそれを大して気にしなかった。今はそれよりも気になるものがある。
「嘘ってなんだよ。つーか、それならなんで俺のこと呼んだんだよ」
 爆豪はいままでも相澤のこの部屋には何度か来たことはあるが、それはいつも爆豪のほうから行ってもいいかと伺い、相澤がしぶしぶ許可する形ばかりで、相澤のほうから呼ばれることなどなかった。
 だから、今回相澤に呼ばれてなにかあったのかではないかと思っていた。人に頼らなければならない不都合があったのだと。その不都合を解決する適任者に自分が選ばれたのだと、そう思っていた。それなのに、なんでもない様子に首をかしげるばかりだ。
 ましてや、体調不良が嘘? いったいなにがどうなっているのか。
「用があったんじゃねぇのか」
「いや、べつに用はない」
「はぁ?」
「けどまぁ、しいて言うなら、お前に会いたかったからだ」
「…………は、はぁああっ?」
 飄々と答え続ける相澤の最後の返答に、思わずちょっと大きな声が出た。
 なんだ。いったいなんだ。なんだか、相澤の口からとても相澤らしくないような言葉を聞いた気がする。お前に会いたかった? この場で相澤が言う“お前”とは当然、自分のことを指しているのだろう。聞き間違いか? いやいや、でも確かに聞いた。
「……あんた平気そうに見えて実はすっげぇ熱でもでとんのかっ?」
「大丈夫って言っただろ。体調不良は嘘なんだから」
「本当かよ」
 どうも信用できなくて、爆豪は相澤の額に手を伸ばした。
 相澤は伸びるその手を避けようとはせず、手のひらはあっさりと相澤の額にぺたりと触れた。じわり、と手のひらに相澤の温度が伝わる。確かに熱はない。むしろ爆豪よりも低いくらいだ。平熱の低い、普段の相澤通りの体温。
 爆豪は手を離すと次にちらりとテーブルのビール缶を見て小首をかしげた。
「じゃあ、やっぱ酔ってんのか?」
「ビール缶2本ぐらいじゃ酔わねぇよ」
 言いながら、今度は相澤のほうが爆豪へと手を伸ばした。するり、と頭のてっぺんから後頭部に流れるようにして撫でられる。何度も、何度も、相澤はそれをくり返す。
 爆豪は心地の良い感触に反射的にそっと目を細めた。そうすれば、ふ、とちいさく息を吐くような音が聞こえてきた。なんの音だろうか。不思議に思って細めたばかりの目を開けば、少し口端の緩んだ相澤の顔が目に映って爆豪はぱちくりと瞬いた。
「な、に……、笑ってるんだよ」
 微笑んでいる、と言っても過言ではないその表情に問いかける声が詰まった。
 それくらいに珍しい表情だった。他のクラスメイトたちよりも断然に相澤の傍にいることが多い爆豪ですら、滅多に見ることのないような表情。
「いや、べつに」
「んだよそれ」
「べつに大したことじゃない。ただ、かわいいなお前、って思っただけだ」
「か、かわ……ッ!?」
 さらに爆豪は言葉に詰まらせた。
 いま相澤はなんと言った?
 またしても到底相澤の口から出てこないような言葉を聞いた気がする。かわいいって……、かわいいって言った! あの先生が! しかも! この自分に向かって!?

 爆豪はむぎゅぎゅと眉間にしわを寄せた。
 かわいいなんて言われても嬉しくない。だが、爆豪のしかめっ面はかわいいと言われたことに対する不機嫌ではなく、かわいいなどと言った相澤に対する不信感をあらわにしたものであった。
「今日のあんた、なんかおかしい……」
「そうか?」
 相澤は首をかしげる。そのあいだも爆豪の頭を撫でる手はそのままだ。
 頭を撫でること自体は、いままでの相澤の言動に比べればべつに珍しいことじゃないが、なんだか意識してみるといつもと比べてやけに長く撫でられ続けている気がした。
「意味もなく呼び出したり、か、かわいいなんてふざけたこと言ったり……、それに、あんたにしては、その、ちょっとべたべたしすぎじゃね?」
「嫌か?」
「い、や……、ってそう言うんじゃなくて……、」
「そう言うんじゃなくて、なんだ」
「……だから、その」
「爆豪、言ってみろ」
 もごもごと口を噤めば、相澤は先の言葉を優しく促してくる。
 やっぱり、いつもと様子のおかしい言い方だった。二人きりになれば、相澤は学校で言葉を交わすときよりもどこか優しい、それこそ恋人らしい態度に変わるが、それにしたって今日の相澤はなんだか甘ったるい。それが嫌なわけではない。嫌なわけではないが……。
「なんか、調子が狂う……」
「ふっ、そうか」
 ふいに、頭を撫でていた手が後頭部に下がり、さらにうなじにまで下がってくる。指先がこしょこしょと首筋をくすぐってきて、その感触に爆豪は反射的に肩をすくめた。
「爆豪、顔上げろ」
「命令すんな」
「いいから、上げろ」
「…………」
 ぐぬぬ、と思いながらも爆豪は渋々と顔を上げた。
 そうすればすぐに相澤が顔を寄せてきた。あ、と思ったころには爆豪の唇に相澤のそれが重なる。珍しい、相澤からの口づけだった。
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