それからというもの、切島は毎夜のように夢を見た。 そしてそのたびにまるで自慰を覚えたての中坊のように自身で自身を慰めた。夢だというのに触れた爆豪の感触はやけに生々しく手に残り、吐き出すおかずに事欠くことはなく一度で終わらぬこともあるほどだ。 だから、ついに来たいつもの土曜日、どきどきと心臓を跳ねさせながら触れた玄関の鍵が空いていることに気がついた瞬間の切島の心境は複雑極まりなかった。朝にしっかりと施錠したはずの鍵が開いているのは、爆豪が来ている証拠だ。 来てくれないかもしれないと危惧していたが、それからも爆豪は土曜日が来るたびに部屋へと来てくれた。それはなによりも喜ばしいことであるはずなのに、自身の中の想いを明確に自覚し認めてしまった切島にとって、自身の部屋で想い人と二人きりという状況は素直に喜びきれない危うさがあった。 想いを自覚し認めはしても、その想いを一体どうすればいいのか、どうすべきなのか、切島はまだその答えにたどり着けないでいる。たとえばこれが、年の近い女性が相手であったのなら、想いを告げて受け入れてもらえるなり、バッサリ振られてすっきりするなり、なにかしらこの想いを昇華する方法があっただろう。 でも実際は、相手は同じ男で、なによりもまだ未成年の子どもである。下手なことをすれば、幼気な少年にいらぬトラウマを植え付けかねない。それだけはなんとしても避けねばならず、だからと言って、すっぱりとこの根深い想いをあきらめてしまうこともできず、切島は頭の痛む日々を送っている。 「おけぇーり」 「おう……、たでーま」 今日も部屋で待っていた爆豪はいつも通りに言葉をよこしてきてくれた。学校の宿題だろうか。プリントを並べて、シャーペンを片手で器用にくるくるとまわしている。覗いてみるとプリントにはいくつもの数字が並んでいて、うへぇ、と切島は眉をひそめた。 「相変わらず勉強熱心だなー」 「こんくらい勉強のうちに入らんわ」 「さいですか……」 あっさりと言ってのける様子に2年に進学しても勉強方面においてはなんの心配もなさそうだ、なんて思いながら爆豪の向かいに腰を下ろす。まだ終わっていないのだろう。爆豪は回していたシャーペンを持ち直すと再びプリントに向かい始めた。 切島はそんな爆豪を無言でぼんやりと眺めた。プリントに向かう爆豪は軽くうつむいていて、切島から見るといつもはきつく釣り上がった目が伏し目がちに見え、瞼の白くぷくりとした形に意味もなくどきりとする。目鼻立ちの整った顔をしているなと思う。たしか、初めて会った時もそんなことを思ったような気がする。 普段は眉間にしわを寄せた表情だとか、人の悪そうな笑みだとか、不機嫌にきゅっと口を結んでばかりであまり意識しないが、ふとした瞬間にはっと気がつく。爆豪は端正な顔立ちをしている。あの口の悪さだとか、キレやすい部分だとか、近寄りがたい雰囲気をどうにかすれば、さぞやモテるに違いない。 (つっても、俺はいまのありのままの爆豪が一番好きだけどな!) 口の悪さも、ぷりぷりとすぐに怒るところも、気難しい猫のようにすぐに威嚇するところも、全部が全部、爆豪らしくてとても好きだ。そこを直さなければ爆豪の魅力に気がつけない人間など、節穴にもほどがある。そんな奴に爆豪を好きになる資格などない。 じ、と飽きずに爆豪を見つめ続ける。状況としては爆豪に放っておかれているわけだが、ただその顔を見ているだけでも満足だった。だって、好きな子の顔だ。どれだけ見ていたって、飽きることなどない。 「おい」 その最中、爆豪がプリントに顔を向けたまま、ふいに言う。 「視線がうっせぇぞ」 切島は、ぎくり、と肩を揺らした。 「あっ、そ、そうか?」 「んだよ、じろじろ見てきやがって」 「あー、やー、うん」 爆豪の顔を目の保養にしてました、なんて言えず口ごもる。だめだ。意識してしまう。あまり感情を隠すのは得意じゃない。いつだって裏表はっきりさせて一直線に。ああだこうだと言葉を重ねて誤魔化すのに苦手だ。 「そういや、新しいクラスどうだ?」 いっそのこと話を変えてしまえと切島は尋ねた。苦しいと自分でも思う。でも、どうしようもない。なんとか話に乗ってくれないか。ぎこちなく笑みを浮かべながら内心祈る。 だがしかし、爆豪は甘くはなかった。 ぎろり、とようやくこちらに視線を向けた爆豪の目が鋭く切島をにらむ。 「……てめぇ、最近なんか変だ」 「えっ……、さ、最近?」 それは鋭い指摘だった。 「ここがこうだってのは、はっきり言えねぇけど、でも……、妙にじろじろ見てきたり、かと思ったらすぐに視線を逸らしたり……、今みたいになんか歯切れの悪い返事したり……、なんか、変だ」 もごもごとらしからぬ様子で爆豪は言う。 切島は焦った。たしかに、想いを認めてからというものいささか挙動が不審気味であった自覚はある。あまり露骨に態度に出さないようにと気をつけて、逆に不自然な態度になってしまっていると。 いや、もしかしたら切島がまだ認めてはいけないと足掻いていたころから、爆豪はその変化を敏感に感じ取っていたのかもしれない。いつ頃からこの想いを抱き始めたのか、自覚はない。いつ頃から、爆豪は気がつきはじめていたのだろうか。 「…………」 「お前、なんか隠してんだろ」 「な、んか、ってなんだよ」 「…………」 逆に問いかければ爆豪は、少しの沈黙を挟んだのちに言った。 「いい加減、面倒になったんじゃねぇの」 「……?」 「……俺の相手」 「え?」 声はちいさかったが、たしかに聞こえていたはずなのに、まるで意味は分からなかった。 爆豪はなにを言っているんだろう。面倒? なにが。爆豪の相手が? は? 「だからっ、いい加減俺の相手すんの面倒になったんだろ! ……けど、てめぇは罪悪感があるからもうやめるなんて言い出せねぇ」 「ちょ、ちょっと待て! なに言ってんだよ!」 「嫌なら嫌ってはっきり言えばいいんだよくそ野郎が!」 「待て待て! 嫌なんて、そんなわけねぇだろ!」 爆豪は声を荒らげる。 ようやっと言っている意味が分かった切島は首を振るが、はっ、と鼻で笑われた。 「嘘つけ! どーせガキの相手なんて嫌になったんだろ!」 「嘘じゃねぇ!」 「どーだか。ふんっ、鍵までやっちまってほんとは後悔してんだろ! 俺がいたら女の一人もうっかり部屋に連れ込めないからな!」 「んなことねぇーって! 女だって連れ込まねぇよ! なんで急にそんな話になるんだよ!」 「じゃあ、なんだよ! 先週といい、みょーに煮え切らねぇその態度は!」 「そ、れは」 「はっきり言えよ!」 だんっ、と爆豪がテーブルを強く叩く。 苛立った表情。だが、その目にはどこか怯えを混ざっているように見えた。恐れている。なにかを。いったいなにを? わからない。わからないが、爆豪は怯えている。だからこんな突拍子もないことを言い出したのか? 爆豪の相手が面倒になるなど、そんなことがあるはずがない。むしろ、毎日恋しいくらいだ。今まで以上に土曜日が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がない。けれども、それを爆豪に告げるわけにはいかない。 もしも、爆豪の怯えの原因が切島の濁したようなこの態度のせいであるというのなら、すべてはっきり告げてしまったほうがいいのだろうか、とそんな考えが脳裏をよぎらなかったわけではないが、切島はすぐにそれを否定した。 言えるわけがない。10歳も離れた子ども相手に抱いてしまった恋心。この恋がそれこそ子どもの恋のように清く澄み切ったものであったなら、ここまで悩むことはなかったかもしれない。だが切島はもう自覚してしまった。己の恋心とその中に含まれた欲望に。 夢の中で見た白い肌。夢の中で聞いたちいさな声。あの白い肌に舌を這わせたら、一体どんな味がするのだろうか。くすぐるように悪戯に肌を撫でたらどのように身体を震わせ、声を上げるのだろうか。熱に浮かされて、朱色に染まる頬が見たい。きりしま、と自分にしか聞かせない甘えるような声色で名を呼んでもらいたい。一度自覚してしまえば、欲望は尽きることを知らない。 (ッ言えるはずがねぇ!!) こんな汚い大人の欲望を爆豪に押し付けるわけにはいかない。 そして、なによりも……。 切島は、ぐ、と息をつめ、すぐに吐き出した。 そして、真正面の爆豪を見つめながら、硬くなった口端を緩めてみせた。 「俺は別になんもねぇって。おめぇの勘違いだって」 「誤魔化す気かよ」 「いや、本当になんもねぇんだって」 本当になんでもないように、あくまでも軽い口調で言ってやった。俺の態度は変わってないし、おめぇのことを面倒に思ったこともない。本当と嘘を織り交ぜた、切島なりに爆豪を思っての答え。 「んだよ、それ……」 切島のその答えに爆豪はあからさまに傷ついた顔をした。きゅう、と苦しそうに眉間にしわが寄り、唇がゆがむ。 「俺に本当のことは言えねぇってか?」 「……だから、本当も嘘もないんだって」 「ッ、くそ! ならもういい! てめェなんか知るか! 死ねクソ髪野郎が!」 「ちょっ、爆豪ッ」 ついに爆豪は勢いよく立ち上がると荷物をさっさと鞄にしまい荒々しい足取りで玄関へと向かう。切島がとっさに引き止めるように名を呼んだが、爆豪は止まらなかった。ばたんっ、と叩きつけられた扉が大きな悲鳴を上げて閉まる。 「ばく、ごう……」 一人きりになってしまった部屋に自身の声が虚しく響く。 傷つけてしまった。けれど、追うことはできない。追ってしまったら、それこそもっと傷つけてしまう結果になってしまいそうで追えなかった。 そして、なによりも……、切島は怖かった。爆豪に自分の気持ちを知られてしまうことが。知られてしまった結果、ありえない、ふざけるな、気持ち悪いと拒絶されてしまうことが怖かった。爆豪を想っての選択は、しかし、同時に切島自身のための選択でもあった。 「あぁ……、もうっ、くそッ!」 情けなさ過ぎて嫌になる。 でも……、どうしようもなかった。 ◇ ◇ ◇ 「なぁ、悪い切島、今日のシフト変わってくれないか?」 ぱんっ、と手を合わせながらそう言ったのは去年結婚を祝った先輩ヒーローだった。どうも今朝奥さんの具合が悪かったらしい。奥さん本人は、大丈夫、お昼に病院に行ってみるよ、だから気にしないでお仕事頑張って、と言っていたのだが、やはり先輩は心配らしく、病院へ行くのに付き添いたいのだと言う。お前以外都合がつかなさそうなんだよ、とへにゃりと眉尻を下げて頼み込んでくる先輩に切島は明るく答えた。 「いいっすよ、それくらいお安い御用ですって」 「悪い、今日土曜日なのによぉ」 「いやいやそんな、困ったときは助け合いっす!」 それは本心の言葉だった。なのに、どこか薄っぺら響きをしているような気がした。ありがとう切島恩に着る、と言う先輩に、いえいえ、と笑顔で返しながら、頭の片隅で爆豪のことを思う。 少し前の切島であったら、先輩のお願いを受けるにしてももう少し悩んだことだろう。それだけ土曜日は大切な日だった。けれど、切島に戸惑いはなかった。それどころか先輩の申し出は今の切島にとってはある意味救いの手でもあった。 (さすがに今度こそ爆豪は来てくれないだろうな) この一週間、瞼の裏にこびりついて消えなかった爆豪の表情を思い出す。怒った顔をしていた。でも、泣き出しそうでもあった。ほかでもない、自分がそうさせた。 それでも、もしかしたら、と思っている自分がいる。もしかしたら、それでも爆豪は今日も部屋で待っていてくれるのではないかと。おかえりと、むすっとした表情をしながらも迎えてくれるのではないか。 愚かな期待だ。あれだけ傷つけておいて、よくまぁそんな都合のいい期待を抱けるものだと、自分で自分に呆れ果てる。しかしそれ以上に呆れるのは、仕事だから仕方がないと、だから爆豪が来ても来なくても自分にはそれを確認する術はないのだと、その期待からすら逃げようとしていることだ。 つくづく情けない。男らしくないにもほどがある。いつから、こんな情けなく、かっこ悪い男になり下がったのか。 「いや、あいつの前では最初っからかっこ悪い男だったか、俺……」 「ん? なんだ?」 「あっ、いや、なんでもないっす! 今日は俺に任せてください!」 胸を張って答える。 どれほど情けない男であったとしても、せめてヒーローとして、職務だけはまっとうしなければならない。切島はぐちゃぐちゃと複雑に絡んだ思考を振り払うように、ぱんっ、と顔をたたくと、気持ちを新たにコスチュームへと着替えた。 時間になっても帰らぬ切島に皆が皆不思議そうな顔をしていた。そのたびに先輩の代わりだと説明すれば納得したように頷き、そして、せっかくの土曜日なのに気の毒だったなとか、どんまいだとか、声をかけていく。事務所の人たちまでそう認識するほどに、土曜日の切島のそれはすっかり根付いてしまっていた。 その事実になんとも言えない気分になりながら、先輩の代わりに同僚ヒーローとともにパトロールに出る。仕事中だ。集中しろ。何度も何度も言い聞かせながら、表面上は穏やかに、鋭くあたりに目を配らせる。今のところ、ヴィランや不審者の影はない。 「平和だなぁ」 ふわぁ、と同僚は欠伸を一つこぼす。 「おいおい、パトロール中に欠伸するなっての」 「いやぁ、だって平和すぎてさぁ」 「たしかにそうだけどよぉ」 周囲の目があるところでヒーローが呑気に欠伸などよろしくないだろう。切島は眉をひそめた。だが、その実、うっかりすると爆豪のことを考えてしまいそうになり注意力が散漫になっている節が否めず、人のことはあまり強く言えない。 学生の集団とすれ違う。わぁわぁと楽しそうに喋りながら歩くその子らはブレザーの制服を着ていた。なのに、思い出すのは学ランを着た爆豪のことだ。腑抜けている。だめだ。こんな働きじゃ爆豪に呆れられてしまう、なんて、また爆豪のことを考えてしまう。本当にだめだ。 いつの間にか切島にとって爆豪はもうそこまでの存在になっていた。 こんなにも一人の人間に心奪われたことなどなかった。 切島は過去に二人の女性と恋人関係を築いたことがあったが、それでも仕事に身が入らぬほどに彼女のことを考えることなどない。 思えば、その二人の恋人両方とも、彼女のほうから付き合ってほしいと告白され、そして彼女のほうから別れましょうと言われたのだった。告白された時は嬉しかったし、大切にしようと思った。だから、別れようと言われたときは悲しくて凹んだりもした。でも、こんな風に恐怖を抱くことなんてなかった。 人を好きになるってこんなにも怖いことだったのか。この歳になって初めて知った。 「おぉい、烈怒頼雄斗?」 「っ、なんだ?」 「いや、なんかぼーっとしてるみたいだったから。シャキッとしろよー」 「お前が言うなよ」 しかし、ぼーっとしてたのは事実である。 集中しろと言い聞かせているというのにこのありさまだ。くそっ、とちいさく吐き捨てて切島はもう一度気合を入れるように自身の両頬を、ぱんっ、と叩いた。 「お前さぁ、なんかあった?」 「…………なんか、ってなんだよ」 既視感のある問いに返事がワンテンポ遅れる。 「なんとなく? なに、土曜の彼女と喧嘩でもした?」 「してねぇし、彼女もいねぇって……」 「ほんとかぁ?」 同僚は疑わしげな視線を向けてくる。本当だってば。切島はそう返した。 「ま〜、なんかあったか知んねぇけど、うじうじしてるなんてお前らしくねぇぞ剛健ヒーロー! シャキッとしろ! 」 「だから、欠伸してたお前が言うなっての」 「それはそれ、これはこれ」 適当な物言いに、なんだそりゃ、と肩から力が抜ける。 けれど、彼の言葉には考えさせられた。 (うじうじしてるなんて俺らしくない、か……) ぎゅ、と無意識に拳を握る。 ――その時だ。 ふいに、ザザッ、とインカムが小さく音を立て、通信が入ってきた。 『緊急要請、緊急要請、――商店街にてヴィランと交戦中。救援求む。くり返す。――商店街にてヴィランと交戦中、今すぐ救援に……』 さっ、と空気に緊張が走る。交戦現場は近い。 切島は同僚と素早く目を合わせた。そうすれば、同僚は先ほどまでの眠そうな表情を拭い去り、真剣なまなざしで見返してくる。 「いくぞ、烈怒頼雄斗」 「おう!」 意識をすべて切り替えて、走り出す。 ヴィランと交戦中とされたその商店街は、切島もちょくちょく利用する馴染みに場所だった。 |
次→ |