家についてようやく爆豪をおろしてやると、よろ、と爆豪はふらついた。反射的に手を伸ばしすぐにその身体を支えてやる。爆豪は拒むように腕を掴んできたが、その手に力はない。
「風呂、はいる」
「おう。一人で入れるか?」
「たりめーだろ……」
 答える声にも力がない。
「風呂溜めてゆっくり入るか?」
「いい、すぐにはいる」
「わかった。なにかあったらすぐ呼べよ?」
「……なんもねーよ」
「だから、なんかあったらだよ」
 切島は心配で心配で仕方ないのだ。
 ちゃんと風呂場まで爆豪を見送ってから、切島は自身もヒーローコスチュームから着替えようと後頭部に手をまわし、かちり、と顔の装備を外した。肩の装備も外し、汗やら煤やらで汚れた身体を台所のシンクで洗ってからTシャツを被る。
 そうやって下も着替えてから、洗面所にいつの日かと同様に着替えの服を置いてやり、切島はリビングに腰を下ろして、ふぅ、と一息をついた。今日は相当疲れた。肉体的というより、精神的にだ。
 自分ですらこれだけ疲れているのだから、きっと爆豪は自分の比じゃないほどに疲れていることだろう。爆豪は嫌がるかもしれないが、今日はなにがなんでも家まで送ってやろうと切島は一人勝手に決意する。事件のこともしっかりご両親に説明しなければならない。いや、もしかしたらすでに警察から連絡が言っている可能性がある。
「風呂から出たら爆豪のほうから連絡させるか……」
 さっさと休ませてやりたいが、そこは致し方ない。
 その代り風呂から出たらまた自分が髪を乾かしてやろう。そんなことを思いながら、切島は爆豪がシャワーを浴び終えるのを待った。
 しかし、そのまま待てど暮らせど風呂場からシャワーの音が止まることはない。
「……風呂、長いな」
 時計を見ると帰ってきてからそこそこの時間が流れている。爆豪は長風呂派だったか。いや、でもシャワーだし、それに前に風呂を貸したときはここまで時間はかかってなかったはずだ。
 一度気にかかるとだめだった。そわそわと切島は落ち着きなく身体を揺らし、時計を見ては風呂場のほうへ顔を向け、また時計を見てはふり返る。ゆっくり入っているならば、べつにいい。でも、もしそうではかったら……?
 そう思った時には我慢できずに切島は風呂場に向かっていた。

「爆豪? 爆豪?」
 すりガラスの扉越しに声をかける。ざぁざぁと絶え間なく聞こえてくるシャワーの水音の合間、爆豪の声を待つがいくら耳を澄ませてみても返ってくる声はなかった。
「爆豪? 大丈夫か? なんもねぇ?」
 聞こえなかったのかと、少し声を大きくしてさらに声をかける。
 しかし、結果は同じだった。聞こえてくるのはやはりシャワーの水音ばかり。なによりも聞きたい声はどうしたって聞こえてこない。
「おいっ、爆豪? ……くそっ、入るぞ!?」
 返らぬ反応に急速に焦燥が募る。
 切島は慌てて扉を開けた。途端に、もあもあと白い湯気が視界を覆う。だが、狭い浴室ですぐに爆豪の姿は見つかった。爆豪は頭からシャワーの湯を浴びながら、タイルに両膝と手をつきながらちいさく蹲っているではないか。
「お、おい、爆豪!?」
 切島は服が濡れるのも気にせずに、爆豪のもとに駆けよった。
 近づくと、爆豪がけほりけほりと咳をくり返していることに気がついた。なにか喉に絡んでいるのか。何度も何度も、苦しそうに。切島は無防備に晒された白い身体に一瞬どきりとしながらも、その苦しそうな咳に背中に手を置き撫でてやった。
 そうすると手の下でびくりと爆豪の身体が跳ね、はっ、とした様子でこちらをふり返った。どうやら今の今まで切島の存在に気がつかなかったようだ。目を見開いて、呆然とした様子で爆豪は切島を見上げる。
「お、まえ……、なんだよ」
「なんだよじゃねぇよ! やけに風呂なげぇなって思って声かけても全然返事ねぇからよぉ」
「しらねぇ」
「知らねぇって……、いや、それより大丈夫か? どっかいてぇのか? 気分わりぃ?」
「べつ、に……」
「全然べつにって様子じゃねェだろ」
 蹲ったままこちらを見上げてくる爆豪の顔色は悪い。風呂に入って血行がよくなるどころか、先ほどよりも青いくらいだ。
「うっせ、ぇ……、なんでも、ねぇ、って……ぅく、うぇ」
「っ爆豪!?」
 否定を続けていた爆豪はふいに顔を伏せるとそのままげぇげぇとえずくような声を漏らした。ぽたぽたと爆豪の口端から涎とも胃液ともわからぬ液が零れ落ちていく。もしかしたら、ずっとこうして吐き続けていたのかもしれない。もうなにも吐くものはないと言わんばかりに、爆豪の口からはあくまで少量の液しかこぼれない。
「気持ち悪いのか?」
「だ、から、う、る……、せ、うぇ、ぐ、けほッ」
 やはり爆豪の「平気」は強がりだったのだ。いったいこれのどこが平気と言うのか。切島は無理して強がる爆豪にではなく、そんな爆豪の強がりに気がつかなかった自分自身に苛立ちを覚えた。
 しばらくして嘔吐が落ち着くと、爆豪は力ない手つきで近くに落ちていたタオルを手に取り、ごしごしと腕を洗い始めた。腕だけじゃない。そのまま肩、首、胸元と全身をごしごしと力強くこする。よほど力を込めているのか、タオルで洗われた箇所は白いはずの肌が真っ赤な色に変わっていた。
「爆豪、擦りすぎだって。真っ赤になっちまってるじゃねぇか」
「ほっとけ。つーか出てけよ」
「んなわけにはいかねぇよ」
「いーから出てけ」
「いやだ」
 とてもじゃないが今の爆豪を一人になんてできない。
 だから切島は出ていけとくり返す爆豪に首を横に振った。爆豪は嫌そうに顔をしかめる。その間も、手はごしごしと自身の肌を乱暴にタオルでこすり続けていた。
 どんどんと色白なはずの肌が赤く染まっていく。あまりに痛々しいその色に、切島は眉をひそませながら爆豪の腕を掴むと、それ以上肌を擦るのをやめさせた。
「おい、だから力込めすぎだ。どーしたんだ、なにをそんな乱暴に擦ってんだよ」
 肌を削ぎ落すようなその勢いに不審が募る。
「…………」
「なぁ、爆豪。どうしたんだ? やっぱどっかいてぇのか? 」
「…………」
「爆豪、教えてくれ」
 頼むから……。
 切島は懇願した。
「隠さないで、全部教えてくれ。……いやなんだ、俺。おめぇにこれ以上もしものことがあったら……、そんなん、そんなん、耐えらんねぇよ」
 声は思わず震えていた。
 爆豪を失うかもしれない恐怖がよみがえる。
 爆豪はなにかを隠している。こんなに顔を真っ青にさせるほどのなにか。そのわからないなにかに、あっという間に胸は不安でいっぱいになった。お願いだから、隠さずにすべて教えてほしい。
(……もしかして、あの時の爆豪もこんな気持ちだったんかな)
 思い出すのは、なんでもない、と答えて傷ついた反応を見せた爆豪の顔だ。明らかになにかあるくせに、なんでもないとごまかし続けた切島。あの時の爆豪も、こんなふうに不安で胸をいっぱいにさせていたのだろうか。こんなふうに苦しくて仕方なかったんだろうか。

 切島は、ぎり、と唇を強くかみしめた。そうしなければ、なんだかいろいろな意味で泣き出してしまいそうだった。
 そんな切島に、はたして爆豪はなにをどう思ったのだろう。はくはくと音もないまま口を開閉させたかと思えば、ぽつりと爆豪は言ってくれた。
「……消えねぇんだよ」
 はじめはちいさな声だった。けれどその声は言葉を重ねれば重ねるほどに大きくなっていき、一緒に爆豪の真っ青な顔は険しくなっていった。
「消えねぇんだよ……、あいつの、ヘドロ野郎の気持ちわりぃ感触がッ」
「身体を、俺ん中を、気色悪く這いずり回るあの野郎の感触……!」
「まるで、今もまだ俺ん中に、あ、あいつがいるみてェに!! ……っ」
 吐き捨てるように言って、爆豪は、ひく、と呼吸を引きつらせた。そしてすぐさま顔を伏せるとまたしてもげぇげぇと苦しそうにえずきをくり返す。
 爆豪が打ち明けてくれたことで切島の先が見えないような不安は取り除かれた。その代り、かっ、と怒りで頭が熱くなるのを感じた。あのゲス野郎……ッ、とひどく凶暴な感情がふたたび頭をもたげる。だが、今は己の激昂に向き合っている場合じゃない。
「爆豪、爆豪。大丈夫だ」
 切島はきっぱりと断言してやった。怖いことなどなにもないのだと、わからせるように力強く。
「ッでも」
「大丈夫だ」
 まだなにか言い募ろうとする爆豪を押しとどめてくり返し、赤くなった肌をするりと撫でてやる。擦りすぎて爆豪の肌はほんのりと熱を帯びていた。
「あいつはもう捕まった。もう、あの野郎がおめぇを苦しめることはない」
「…………ぅ、ぁ」
「おめぇの身体にあのヘドロはもう残ってねェよ。だから、大丈夫だ」
「……で、も、消えねぇんだ、あいつの感触が」
「んなことねぇって、ほら、どうだ? いまおめぇに触れてるのはヘドロ野郎の感触なんかじゃねェだろ?」
 そう言って切島はあのヘドロ野郎の感触をすべて上書きしてしまうように、爆豪の肌を撫で続けてやった。ヘドロ野郎はもういない、今この瞬間、爆豪に触れているのはこの自分なのだと、何度も何度も爆豪の肌を撫で教え込む。
 そうすると固く強張っていた爆豪の身体からわずかに力が抜けた。はっ、はっ、と引きつるように不規則だった呼吸が、少しずつ落ち着いてくる。
「な? 大丈夫だろ?」
 だからもう力任せに擦るのはやめような。
 切島はそっと爆豪の手からタオルを優しく奪い取った。そして、降り注ぎ続けるシャワーを止めようと、ノズルに手を伸ばす。
「だめだ、切島ッ」
 しかし、切島の手が離れてすぐに、爆豪が切島にぎゅうと抱きついてきた。
「爆豪?」
「まだ、やめんな……」
 飛びついてきた身体を反射的に抱きしめ返して、腕いっぱいに触れた素肌の感触に切島はぎくりと身を固めた。

 まずい距離だ。いまさらのように思う。
 そんな場合じゃないと、あえて意識しないようにしていたのに、ゼロにまで縮まった距離に意識せざるを得ない。当たり前だ。だって、今この腕の中にいるのは想いを寄せている、寄せてしまっている爆豪の身体なのだ。
 切島はそっと深呼吸をくり返した。落ち着け、と強く自分に言い聞かせながら、爆豪の肩を軽く叩く。
「なぁ、爆豪、いったん風呂出ようぜ。そんでちゃんと服着ようぜ?」
「…………」
「今日はもう疲れちまったよな? ほら、風呂出てしっかりとゆっくり休もう」
「やだ、やめんな」
 身体を離そうとすれば、爆豪はいやいやと首を振った。
 ぎゅ、と震える手がすがるように服の裾をつかんでくる。たまらない仕草だった。あの爆豪がここまで心を許し、助けを求めるようにその身を無防備に預けてくる。それは酷く切島の中に存在するありとあらゆる欲を誘った。庇護欲、情欲、支配欲、優越欲。ごちゃごちゃに混ぜ合わせた欲たちに切島は強く歯を食いしばった。
 今すぐにでも爆豪をどうにかしてしまいたい。浅ましい欲望だ。襲い掛かる衝動を理性をかき集めて抑えつける。
「爆豪、頼む……。いったん、離れてくれ」
「…………なんで」
「そうじゃないと俺……、俺、きっとおめぇに嫌なことしちまうから」
「なんだよ、嫌なことって」
「嫌なことは、嫌なことだよ……」
 曖昧に言葉を濁す。無防備に全裸を晒しながらも危機感の一つもまるで抱いていない爆豪に、口に出して説明することなど到底出来そうになかった。いや、そもそも説明したところでわかるのだろうか。この歳で将来への夢に向かって大人顔負けの努力と学習に励む爆豪は、その一方でやけに幼く拙いところがある。
「……俺、おめぇを傷つけたくねぇんだ」
「傷つけるって、なんで」
 案の定、わかっていない様子で爆豪は首をかしげる。
 しかし、それでいて爆豪は鋭い子どもでもあった。
「……お前が、最近変だったのは、その嫌なことをしちまいそうだったからなのか?」
「…………」
 鋭い問いかけ。無言は肯定だった。
 そうだったのか……、と爆豪は頷いた。ようやく得られた答えにどこか満足しているかのように。けど、やはり爆豪はわかっていない。切島の肯定にどれだけの想いが込められているのか。切島が爆豪にどれだけの欲を抱いているのか。
「べつに、いい」
「な、に……?」
「お前なら……、お前のすることなら、たぶん、いや、じゃ……、ない」
 わかっていないから、だからこうも簡単に、こんな恐ろしいことが言ってしまえるのだ。
「ッ……」
「だから、なぁ……、なぁ、きりしま」
「ば、く、ごう」
「消してくれよ、気色悪い、あいつの感触、お前の手で全部、消して、くれ」
「………………嫌なこと、していいって言うのか」
 爆豪はどこまでも恐ろしい子どもだった。
「きりしま、なら、いい」
 縋るような、それでいてどこか甘えるような声。
 切島は、ぷつり、と自身の中の何かが切れる音を明確に聞いた。
 だめだ、と理性が叫ぶ。なにを許可しているのか爆豪はなにもわかっていないのだから、ここは大人の自分がしっかりしなければならない。頭ではわかっている、はずだった。だが、爆豪の甘やかな声を聞いた次の瞬間には、切島は目の前の唇に自身の唇を重ねていた。
 
 触れた唇は柔らかく、しっとりと濡れた感触がした。それだけ心臓がいやに高鳴る。
 触れるだけに押しとどめてすぐに唇を離せば、爆豪は幼く目を丸くさせていた。そこに嫌悪の色はない。まだ思考が追いついていないだけなのか。それとも……。
 どちらにしても、もう後戻りはできない。ここまできてしまったら。なによりも、隠されることの不安をありありと実感してしまった今、切島はなにも誤魔化すことなく、爆豪へと告げた。
「俺、爆豪が好きだ」
 ちゃんと声にできるだろうか不安だったが、しっかりと口にすることができた。
 好きだ。散々悩まされた想いなのに、言葉にするとたったの三文字。
 爆豪はぱちぱちと瞬きをくり返す。かわいい。たまらないほどにかわいい。
「なぁ、もう一度キスしていいか?」
 たまらずに尋ねれば、爆豪はきょとりとした表情をしたまま、それでも、静か頷いた。
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