先生。相澤先生。そんな風にもう何度となく呼ばれてきた。慣れた呼ばれ方。教師になったばかりのころはどこか照れくさく感じた響きも、いまはもう特別になにを思うことはない。先生と呼ばれるのは当たり前のことで、日常的なことだ。そこには正も負もない。
 それなのに、どういうわけだろう。先生、と呼ぶその声の主があの子であるだけで、良くも悪くもその響きは特別なものへと変わる。自分でも驚くほどに、あっさりと揺らがされてしまう。
 らしくないな、と思う。でも、きっと、そんな自分も間違いなく自分自身であったのだと思う。奥底のほうに眠っていた相澤自身も知らないでいた自分自身をあの子どもに引き上げられた。おそらくあの子どもにそんな自覚は微塵もないのだろうけど。まったくもって憎たらしい子どもだ。でもそれ以上に、どうしようもなく愛しい子どもでもあった。
 
 
 
 
 先生、先生、と呼ぶ声とともに肩を軽く揺さぶられて意識が浮上した。けれど、意識はまだまだまどろみに片足を取られていて、目を開けるのがとても億劫だった。
 布団のぬくもりの中、その心地よさにもぞもぞと身じろぎをする。そうすれば「休みだからっていつまでもごろごろ寝てんなよ」なんて言われながら肩から手が離れていった。
「俺もう出るからな」
「もう、そんな時間か……」
「朝飯は作っといた。ちゃんと食っておけよ」
「あぁ、悪いな」
 寝起きでいつも以上に低くなる声でぼそぼそと答えながら身を起こす。そのまま、あ〜〜、と意味もなく声を出せば、おっさんくせぇなぁ、と言いながら爆豪が笑った。
 実際、おっさんなんだから仕方ないだろ。気に障ったわけじゃないが、一応反論のようなものを返しながら、爆豪が部屋を出るのに続いて一緒に部屋を出る。先に洗面所で顔を軽く洗ってから玄関に向かうと、爆豪はちょうど靴を履いているところだった。
「俺、今日は遅くなるから」
「わかってる。事務所の飲み会だろ」
 先月、爆豪は二十歳の誕生日を迎えた。今日はそれを祝う軽い飲み会を事務所の所長であるベストジーニストが設けてくれたらしい。爆豪が高校一年のころから彼の才能に注目していたベストジーニストはたいそうその成長を期待してくれているようで、なにかと爆豪は可愛がってもらっているようだ。
 爆豪本人が言うには、可愛がってるんじゃなくて面白がってるんだろ、とのことだが、相澤からしてみれば間違いなくあの人は爆豪のことを可愛がっている。でなければ、わざわざ従業員一人の誕生日のために時間を割いたりなどしない。最前線は退いたとはいえ、彼はまだまだ上位ヒーローの一人だ。
「晩飯も作れねぇからな、ちゃんと一人で食えよ」
「俺が何年一人暮らししてきたと思ってる。晩飯くらい自分で作れるし、一人で食えるに決まってる」
「とか言って、ゼリーで済ますんじゃねぇぞ」
「……わかっている」
 一拍遅れた返事に爆豪は疑わしそうな目で見上げてくる。牽制のつもりなのだろう。だが、その目の鋭さよりも玄関の段差でいつも以上にできた身長差に意識が奪われ、相澤は思わず頭を撫でた。
 すくすくと健康に育った爆豪だが、身長はいまだ相澤に追いつくことはなく180cm目前で止まっている。ちょうど爆豪の親父さんと同じくらいの高さだろうか。本人はまだまだ伸びるわくそが! と吠えているが、相澤は正直そろそろ厳しいのではないかと思っている。もちろん、口に出したらぎゃんぎゃんとさらに吠えられるので思うだけにとどめているが。
「おい、髪が崩れるだろ」
「崩れるほどの髪型じゃないだろ」
「うっせぇ」
 口ではそうは言いつつも、爆豪は相澤の手をふり払ったりはしない。なんだかんだ爆豪は相澤にこうされるのを嫌ってはいないのだ。ただ、そんな自分が気恥ずかしいだけで。
「いい加減子ども扱いすんなって先生」
「はいはい、わかったらからさっさと行ってこい。遅刻すんぞ」
「ぐっ……、皿ちゃんと洗っとけよ!」
 お前はどこの嫁さんだ、と言いたくなるような捨て台詞を残して爆豪は背を向ける。
「気をつけていってこい」
「わぁってる」
 だから子ども扱いすんな! と最後までぷりぷりとしながらようやく爆豪は家を後にした。その背中を相澤はずいぶんと穏やかな気分で見送る。おそらく、いまの自分は人には見せたことなどないくらいに心穏やかな顔をしているのだろうな、と思う。
 気をつけていってこい、なんて、あぁまったく、まさかこの自分がこんな風に誰かを家から見送ったりするなんて考えもしなかった。
 人生なにがあるかわかったもんじゃない。つくづく思い知らされる。
 
 
「俺、先生が好きだ」

 一番初めにその想いを明確な言葉にしたのは爆豪のほうだった。
 差し込む朝日が少し眩しい廊下でのことだ。朝早くまだ人気のない学校はしんと静かで、その声はまっすぐひっそりと相澤の鼓膜を揺らした。大きく怒鳴り散らすわけでも、ちいさく言いよどむわけでもない。あるがままの真実を告げるように呟かれた声だった。
 好きだ、の言葉がするすると体中を巡って、最後の最後に胸にすとんと落ちてくる。嘘だとか、冗談だとか、からかっているのだとは到底思えなかった。思うことなどできるはずがなかった。
 爆豪はじっとこちらを見つめてきた。好きだと告げたその一言以上、口を開く気配はない。こちらの反応を待っているのだとわかったが、相澤はすぐに言葉を返すことはできないでいた。不覚だと、情けないと思うが、ふいに寄こされた爆豪の言葉に確かに相澤は固まったのだった。
 ……いや、ふいに寄こされた、というのは少し間違いがあるかもしれない。予兆はあったのだ。例えば、いまみたいにまっすぐにこちらを見てくる瞳だとか、我が強く反抗心も強い癖に自分の言葉には妙に素直に頷いてみるところだとか、ちょっと褒めてみれば存外に照れくさそうにしてみるところだとか。ハリネズミのようにつんつんとした子どもが自分だけに寄せてくる柔らかい部分を相澤は曖昧に、しかし、しっかりと感じ取っていた。
 でも、それを明確なものとすることはなかった。してはいけないものだとそう思ったからだ。藪をつついたら蛇が出てしまうことだろう。だからなにも気がつかぬふりをしていた。一過性のものだろうと高をくくって目を背けた。子ども特有の無知で無垢がゆえの勘違いだとそう思っていた。それなのに……。
(厄介なことになった……)
 少しずつ硬直が解けてきた頭で一番に思ったことはそれだった。生徒から告白されるなど、教師からしてみれば厄介極まりない。ましてやクラスを担当している生徒で、しかも男同士。はなにをどうしたって今後のかかわりに影響が出てしまう。
 しかし、なにが一番厄介かというと、まっすぐにこちらを見上げてくる瞳を、存外悪くない気持ちで受け止めている自分自身が厄介であった。過去にも何度か、担当したクラスの女子生徒から想いを告げられたことがある。その時は面倒なことになったと内心顔をしかめるばかりだったというのに。
 好きだと告げた生徒が爆豪だということが大きく相澤の胸を揺さぶる。
 それはつまりは、そういうことなのかもしれない。こんな状況になって初めて気がつく。手のかかる生徒だった。目の離せない生徒だった。でも優秀な生徒だった。可愛い生徒のうちの一人だと、ついさっきまでそう思っていたはずなのに……。

「…………」
 傷つけたくない。そう思う。だからこそ、返事の言葉に迷う。
 これがほかの生徒であったなら、もっとすんなり言葉が出てきたのだろうと思う。気持ちは嬉しいが大事な生徒としか思えない。そんな風に言えたはずだ。
 きっと言われた相手は傷つくだろうが、それは一時的なものでしかない。現に、過去にそう返事をしてやった女子生徒はその時こそは泣きそうな表情を浮かべていたが、気がつけば同じクラスの男子生徒と親しげな仲になっていたりした。
 だから今回もそう告げてしまえばいい。気持ちは嬉しいが、お前は大事な生徒だと。
 それなのに相手が爆豪というだけで相澤は判断におおいに迷った。最善の言葉を返してやりたい。そう思うのにその最善がなんなのかまるでわからず、言葉に詰まったまま無言で目の前の子どもを見ていた。なんて情けない反応だろうか。後になって思い返してみると頭を抱えたくなるほどだった。
 そんな情けない大人に果たして爆豪はなにを思ったのか、ふいに口端を緩めた。彼にしてはずいぶんと穏やかな笑い方。はっ、と息を飲む。けっきょく、相澤はなんの言葉も返せないまま、先に爆豪のほうが「返事はいらねぇよ」と口を開いた。
「ただ言いたかっただけ」
「それだけだ。意味なんてべつにない」
「だから返事なんていらない」
「これっきりだ。もう言わねぇ」
 一方的に爆豪は言った。その顔はひたすら静かな微笑のまま。悲観に暮れているわけでもなければ、傷ついているようにも見えなかった。好きだと告げた時と同じ、ただ真実を告げているだけなのだと言わんばかりの口調。
 止めていた足を進めて爆豪が相澤の横を過ぎていく。相澤はふり返って一言、爆豪、とその名を呼んだ。けれど、爆豪がふり返ることはなく、相澤もまたそれ以上引き止めるようなことはしなかった。そもそも、呼び止めて、ふり向かせて、なにを言うつもりだったのか。わからないまま、その背を見送った。
 忘れもしない、一年の冬の日の出来事だった。

 その後の爆豪は宣言通りに、二度とその言葉を口にするようなことはなかった。話を蒸し返すようなこともなかった。時折、目は合う。でも、それだけだ。
 爆豪はなにも言わない。柔らかな部分を相澤に見せたまま、それでもなにも言わない。トップヒーローを目指して、時には大きな傷を追いながらも決して歩みを止めることなく、精進を続けていた。
 爆豪本人が口を噤んでいるのにこちらからなにか言ってやれるものがあるはずがなく、そのまま月日は過ぎていき、二年の冬と三年の冬も超えて、気がつけば卒業式の日を迎えていた。
 あっという間の三年間。例年と比べて大変な三年間だった。だが、その分だけ充実した三年間でもあった。胸元に花を飾って、最後になるであろう生徒たちの制服姿にうっかり目尻が熱くなりそうなくらいには思い入れの深い生徒たちだった。
 名残惜しそうに生徒たちが解散した後に意味もなく教室に足を進めてしまったのもその思い入れからくる感傷のせいだった。もしくは、なんとなく感じた予感のせいだろうか。わからない。けれど、どちらが理由でもいい。誰もいないはずのそこに爆豪の姿があった。それだけで理由がどちらであっても構いはしなかった。

 扉が開いた音に爆豪がふり返った。目が合うとその目がちいさく見開かれた。こんなところで会うとは思っていなかったと無言ながらも如実に告げる。「なにやってんだ」と訊ねると、爆豪は「べつに……」とそっけなく答えながら視線を逸らし窓の外を見た。
 最後だというのにまるでいつもと変わらない態度。つんつんとしながら、それでいてどこか無防備な柔らかさ。
 きっと爆豪はなにも言わないことだろう。自分からは、もう決して。これっきりだとあの日言っていた爆豪の言葉たちを、相澤はなに一つとして忘れてはいなかった。だから相澤は自分から訊ねることにした。
「なぁ、お前……、いまでも俺のこと好きか」
 ふたたびふり返った爆豪が、ぱちくり、と目を丸める。その目を相澤は逸らすことなく見つめた。いつかの爆豪のようにまっすぐと。
 爆豪からしてみればなんでいまになってそんなことを訊ねるのか、意味が分からないことだっただろう。二年も前のこと。学生にとっての二年は短くも長い。
「……当たり前だろ」
 けれど、爆豪はあの日と変わらない、まっすぐ静かな声で答えてくれた。
「そうか……、じゃあお前、俺と一緒に住むか」
 だから、気がつけば相澤はそう告げていた。
「え……?」
「だから俺と」
「なっ、……はぁ?」
 爆豪は戸惑いが隠せない様子だった。
 なんで、とそれすらもうまく口にできないほどに言葉を詰まらせている。無理もない。それほどに、突拍子もない申し出だと自覚はある。だが、相澤にとっては決して突拍子もないものではない。なんで、だと? そんなの決まっている。
「俺もお前のことが好きだからだ」
 あの時は答えてやれなかった、この胸の内に潜んでいた想い。明かすつもりなどなかったはずの想い。でも、いまこの瞬間、相澤の目の前に爆豪は立っている。なんの用もないはずの教室で、なんの約束もしていないのに、こうして向かいあっている。
 その事実に衝動が抑えられなかった。
「…………はっ、なんだよそれ」
「あー、そうだな。なんだろうな」
「意味、わかんねぇよ」
「俺にとってはそうでもない」
「……いや、なんつーか、色々と吹っ飛ばしすぎだろあんた」
「自分でもそう思う」
「なんだそりゃ」
 ははっ、と爆豪は笑った。
 それは以前の妙に静かな微笑ではなく、どこか子どもっぽい無垢な笑い方だった。
 その表情に相澤は強張っていた自身の背中から力が抜けていくのを感じ、同時に力が抜けていくその感覚に柄にもなく緊張していたらしいと自覚した。一回り以上も年下の子どもにつくづく情けない。だが、くつくつと笑う爆豪に悪い気分ではなかった。
 一歩、二歩と足を踏み出し爆豪に近づく。徐々に縮まっていく距離に爆豪は動くことはなかった。相澤がすぐ目の前にまで来てもそのまま。二年経っても変わらずに白い色をした頬に相澤がそっと手を伸ばしてみても、逃げる様子はない。
 それが爆豪の答えだった。
 
 
 
 がちゃん、と扉が完全に閉まってから、あ、と気がつく。
 飲みすぎるなと言うのを忘れていた。爆豪はあれでいて結構酒に弱い。二十歳の誕生日当日に一緒に酒を飲んだ相澤は知っていた。
 だが、負けず嫌いなあいつのことだから、酒が弱いことは誰にも言っていないことだろう。無茶な飲み方をしなければいいが……。
「……まぁ、あまり心配しすぎるのもあれだな」
 爆豪は自己管理意識の強いやつだ。それに自分は酒に弱いと自覚はあるはずだ。直接指摘すれば反発するだろうが、内心ではちゃんとわかっているに違いない。
 つくづく負けず嫌いな男なのだ。わざわざ心配などしなくても、ほかでもないあいつ自身が人前で泥酔することを許さないだろう。わかっているのに、ついつい心配してしまう。
 爆豪から言わせるとこれが子ども扱いになってしまうのだろうか。しかし、相澤から言わせてもらうと、自分が爆豪をそんな風に扱ってしまうのは爆豪自身にも少なからず責任がある。その原因の一つとして爆豪が相澤を呼ぶその呼称が悪い。
「先生、ねぇ」
 自分では子ども扱いすんなと文句を言うくせに、爆豪はいつまで経っても相澤のことを先生と呼ぶ。家でも外でも、変わらずにだ。
 べつに先生と呼ばれること事態に不満はない。もう爆豪は卒業したとはいえ実際に相澤は爆豪の教師であったし、一番呼ばれ慣れたものでもあった。だが、先生と呼ばれるとどうしても教師としての自分を刺激されてしまう。守るべきもの、面倒を見るべきものとして爆豪のことを見てしまう。
 とはいえ、そんなことをごちゃごちゃと言ってみながらもやることはやっているのだから、なんとも言えないのだけれど。

 くわぁ、と相澤はあくびを一つ零した。
 まだまだ眠い。もう一度ふかふかの布団に身を沈めたい。しかし、鼻腔をくすぐる朝食の香りに、自然と足は寝室ではなくリビングキッチンへと向かっていった。なんせ、爆豪の料理はうまい。寝起きでもぺろりと一食たいらげてしまえるほどに。
 よくまぁ、今日も仕事だというのに休みの自分の分まで飯を作ってくれたものだ。俺の分までべつにいいぞ、と無理をさせたくなくてそう言っても、自分のついでだ、と爆豪は軽く言う。そして、飯はしっかり食え不精するな、とも言う。健康面を気にしてくれているのだろう。
 この歳にして、本当に良い恋人を持ったものだ。
 あらためて実感しながら朝食に向かい相澤は両手を合わせてから箸を取った。
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