ちらちらと先ほどからやけに時計と携帯電話を見てしまう。そんな自分自身に相澤は気がついていたが、しかしだからと言ってどうすることもできず、またしても時計を見てしまった。
 時計の数字は23時を過ぎたころを指している。少しもしないうちに日付が変わる。そんな時間に相澤はリビングで一人きりだった。まだ爆豪は帰ってきていない。
 遅くなるのはわかっている。しかし、それにしても遅すぎではないかといささか心配になってきた。それともまさか、遅くなるの「遅くなる」は夜遅くなるのではなく、朝帰りレベルで遅くなることを指していたのだろうか。いまになって気がつく。だとしたらそれは少しいただけない。
 だが、もうそれを確認する術はない。爆豪はもうとっくの昔に外出してしまったのだからすべて手遅れだ。電話の一つでもかければ連絡は取れるだろうが、さすがにそれはあれだと戸惑う。娘の門限にうるさい過保護な父親のようではないか。いや、でも、LINEの一つくらいならば送っても構わないじゃないか。そんなことを思いつつ、携帯電話を手に取る。
 ちょうどその瞬間だった。
 ピンポーン、と呼鈴の音が部屋に響く。
 あぁ? と反射的に眉をひそめた。こんな時間に誰だいったい。一番に思い浮かんだのはほかでもない爆豪だが、爆豪であるならわざわざ呼鈴を鳴らす必要はないはずだ。……いや、もしかしたら酔っぱらってどこかに鍵を失くしでもした可能性はなくもない。あの爆豪に限って低すぎる可能性ではあるが。
 なんにしても来訪者を確認しなければならず、相澤は手にしたばかりの携帯電話を置いて玄関に向かった。

 インターホンの電源を入れ、画面を確認する。すると、少し画質の荒いその画面に映っていたのは金髪を七三に分けた男だった。見慣れた、とまではいかないが十分に見知ったその髪型に、はいどちらさまですか、なんて言葉は出てこなかった。
「ベストジーニスト?」
『やぁ、夜分遅くに失礼するよ、イレイザーヘッド』
 思わぬ人物の訪問に相澤は目を丸くした。なぜ、ベストジーニストがうちを訪ねてくるのか。いや、そもそもなぜここが相澤の家だと知っているのか。そう不思議に思ったところで、はたと気がついた。ベストジーニストが腕に抱える人物の存在に。
 カメラが映す範囲は狭く、相澤からはその人物の頭が少し見えるくらいだ。けれど、その髪色だけですぐに気がついた相澤はすぐさま鍵を解き玄関の扉を開けた。柔らかなミルク色。やはりベストジーニストが抱えていたのは爆豪であった。
 眉尻をふにゃりと下げ、白いはずの頬を真っ赤に染めて全身をベストジーニストに預けている。その姿はどこからどう見ても飲みすぎの酔っ払いで、だらしがない爆豪の様子に相澤は軽く眉をひそめた。
 どれだけ飲んだのか知らないが、これは明らかに許容量を超えている。
「これは一体どういうことです?」
 訊ねる声には思いのほか険が乗ってしまった。
 飲みすぎたのはほかでもない爆豪自身の責任だ。わかっている。だが、彼はまだ二十歳になりたてで酒の飲み方なんてまるでわかっていないのだ。それは彼の二十歳を祝う飲み会なのだから周りの者たちもそれをわかっているはずである。
 それならば、爆豪が飲みすぎないよう気にかけてやるのは爆豪よりも何年も先輩である大人として当然なのではないだろうか。
「すまない、私なりに気にかけていたつもりだったのだがちょっと目を離した隙に他のものがぐいぐいと飲ませてしまったようでな」
「……昨今、酒の強要は重大なハラスメントとして認められますよ」
「この子が先輩とは言え人からの強要に負けるたまではないと思うがね」
 それもわかっている。
 爆豪は嫌だと思ったことは誰が相手だろうとすっぱり口のできる人間だ。
 きっと、今回のこの泥酔は無理やり飲酒を強要されたのではなく、もう飲めないというのはかっこ悪いだとか、これぐらいならまだ飲めるだとか、そういう爆豪自身の変なプライドや慢心が一番の原因だろう。
 相澤はそんな爆豪の性格、性質をよく知っている。しかし、それはベストジーニストも同じことだろう。彼は爆豪の理解者の一人であると相澤は認識していた。
 だからこそ、みすみす爆豪を泥酔するにまで至らせたこの男に、爆豪を見守ってきた同志として、そして爆豪の恋人として怒りにも似た苛立ちを覚える。自分がその飲み会を共にしていたら絶対にこんな結果には至らせなかったのに、とそう思った。
「とは言え、今回のことは私が傍にいれば防げたことだ。すまない。場の責任者としても謝罪しよう」
「……いえ、まぁ、わかっていただけているのなら」
 正直言ってしまえば、まだまだ口うるさく言いたいことがないわけじゃなかった。けれど、真摯に頭を下げられてしまえば、けっきょくは爆豪自身の責任であると回帰することもあり、なにも言えなくなる。
 仕方がない。
 相澤は、とりあえずはため息を下げることにした。
「ところでベストジーニスト、うちのことは爆豪に?」
 代わりに、気になっていたそれを訊ねた。
「あぁ、そうだ。この子に教えてもらっていた」
「……それは俺の存在も?」
「あぁ」
「ちなみにそれを聞いたのはまさか……」
「いや、大丈夫だ。家のこともあなたのこともあらかじめ聞いている。今日の飲み会でうっかりばらしたとか、そういうわけではないから安心するといい」
「そう、ですか」
 少しほっとする。
 元教師と生徒の間柄ではあるが爆豪との間にやましいことなどない。しかし、だからと言って声高らかに自分たちの交際を人に宣言するのは男同士であることを差し引いても相澤からしてみればあまり好ましいものではなく、そこは素直に安堵した。
 ただ、そうなると次の疑問が浮き上がる。
 なぜ爆豪は俺たちのことをベストジーニストに話したのか。
 そしていったいどこまでを話したのか。

「ぅ、ぅ〜ん……」
 つらつらと考えているうちに、ベストジーニストに抱えられたままだった爆豪がちいさく唸り声を上げた。意識が浮上してきたのか、伏せられたまつげがふるふると震えている。
「まったく……、勝己、しっかりしないか」
 ベストジーニストがまるで赤子をあやすかのようにして爆豪の身体を軽く揺さぶった。
「ぅぐ、ぅ〜……、あぁ?」
「ほら、私が誰だかわかるか?」
「あ〜……? くそしちさんわけやろう」
「どんな時でも君の口の悪さは筋金入りだな」
「うるしぇ〜……」
 そう文句を言いながら爆豪はさらにうにゃうにゃと唸り目を閉じてしまう。
 四肢は相変わらずぐったりとしたまま、返事こそすれど意識はおぼろげなようだ。見事なまでの酔っ払い。
 やれやれ仕方がない。大人二人はそろって肩をすくめた。
「それじゃあ、あとはあなたに任せてもいいだろうか?」
「あぁ、手間をかけて申し訳ない」
「いや、こちらこそ本当に申し訳なかった」
 いかにも、な大人の挨拶を交わしながら、爆豪の身体を受け取った。
 ベストジーニストが爆豪を抱えてできただろう服の皺を丁寧に整える。彼も少なからず酒を飲んでいるものと思われるのだが、そんな素振りなどまったく見せないまま「それでは私はこれで」と背を向ける。
 そうかと思えば「あぁそうそう」とベストジーニストはすぐにふり返った。
「勝己に、今度私がちゃんとした酒の飲み方を教えてやろう、と伝えておいてくれ」
 最後にそう言い残して、かつてのTOP3ヒーローは最初から最後までスマートな素振りで颯爽と帰っていったのだった。


 扉が閉まった瞬間、相澤は深く息を吐いた。なにをしたわけでもないのにやけに疲れたような気がする。
 爆豪はというと支える人間がベストジーニストから相澤へ代わってもふにゃふにゃとしたままだ。仕方なく、爆豪を抱き上げリビングへ運ぶといったんソファの上へとそっとおろした。
「爆豪、おい、爆豪」
 冷蔵庫からミネラルウォーターを取ってきてから、真っ赤に染まった頬をぺちぺち軽く叩き覚醒を促す。そうすれば爆豪は口元をむにむにとさせながらぼんやりと目を開いた。
 視線がうろうろとあたりを彷徨う。おい、と声をかけてようやく赤い瞳が相澤へと向いた。
 そして――。
「つなぐ……?」
 ぽつり、と呟くようにして爆豪が言った。
「……爆豪、俺だ」
「…………せんせい?」
「あぁ、そうだ」
「なんで、せんせいがここにいんだよ」
 しょぼしょぼと眠そうに瞬きをくり返しながら爆豪は訊ねる。
 どうやら自宅まで帰ってきたことに気がついていないようだ。爆豪からしてみれば飲み会の場にいきなり相澤が現れたように感じるのだろう。
 だから、つい先ほど相澤のことを「つなぐ」とベストジーニストと勘違いしたのだ。なんせいまの爆豪はしこたま酔っているのだから仕方ない。……仕方がない。
「お前は飲みつぶれてベストジーニストに家まで送ってもらったんだ。覚えていないのか?」
「あぁ〜? つなぐにぃ? ふざけろ、おれはひとりでかえれるっていった」
「そんなへにゃへにゃの口調でなにを言ってるんだお前は」
 こんな状態で一人で帰れるはずがない。
 いまさらながら、ここまでちゃんと爆豪を送り届けてくれたベストジーニストに心の底から感謝せざるを得なかった。
「ほら、水だ。飲んどけ」
「ん」
 ボトルを持たせるが指先まで酔いに酔っている爆豪の力は弱く心もとない。
 相澤は仕方なく爆豪の背に手を添えながら、もう片方の手でボトルを直接口元まで運んでやった。ふちを唇に触れさせて、ゆっくりと傾ける。文句を言うかと思ったが爆豪は親鳥にえさを与えられる雛鳥のように、んくんくと素直に水を飲んだ。
 飲みきれなかった水が口端を伝って顎を濡らす。
「おいこら、零してるぞ」
「んだよ、まぁた子どもあつかいするきかよ」
 そうかと思えば、濡れた口元を拭ってやろうとすると爆豪はぷりぷりしながら相澤の手をふり払う。
「子どもあつかいすんなっ!」
「あ〜、はいはい」
「ぐぅ……、くそっ、せんせいもつなぐも子どもあつかいしやがって!」
「…………」
 出されるベストジーニストの名になんだかやけに胸がもやっとした。
 お前の中では俺とベストジーニストは同じ扱いなのか? なんて、そんなことを思う。
「つなぐのやろう! おれにジュースみたいな酒ばっかりすすめやがった!」
「それはお前が飲みすぎたからだろう」
「のみすぎてない!」
 そう主張する爆豪は目つきを鋭くさせて相澤をにらむ。
 その顔は頬も目尻も真っ赤に染まっており迫力なんてあったもんじゃなかった。つなぐのくそやろぉ、くそつなぐ、しちさんのくせにぃ、と耳で聞いているはずなのに、ひらがなに見える声でベストジーニストへの文句を続ける。
「…………」
 相澤はその声を黙って聞いていた。
 すると、どういうわけだろうか。爆豪の話を聞けば聞くほどに、もやっ、とした感覚がどんどんと胸に積もっていくのを強く感じた。
 酔っ払い相手に苛立っているわけではない。そういった苛立ちとは、また違った感覚だ。
 じゃあ、どういった苛立ちなのか。自分の感情ながら、それはあまり言葉ではうまく説明できなかった。ただ、とにかくひたすらともやもやとする。
「爆豪、さっきから聞いていれば、維、維と、いくらそれなりに付き合いが長いとはいえ、自分のところの所長を下の名前で、しかも呼び捨てなのはどうかと思うぞ」
 だからだろうか、気がつけばそんなことを口にしていた。
 酔っ払いになにを言っても仕方ないのだから、酒が抜けた明日にでも改めて注意すればいいものを、我慢できずに言葉は次々と口を衝いて出てしまっていた。
「あぁ? なまえ?」
「そもそも、お前はいつの間にベストジーニストのことを名前で呼ぶようになったんだ」
「ん〜……、さぁ?」
「さぁって、お前なぁ」
「あ〜、たしか……、いつだったかしんねーけど仕事おわりに飯つれてってやるっていいだして、そんで……、ぷらいべーとではヒーロー名でよぶなって」
 ふにゃふにゃと爆豪は説明しだす。
 少し聞き取りづらく簡略されまくった説明であったが、意味は分かった。しかし、だからと言ってなぜ両者ともに苗字ではなく名前なのか。
「おれの名字は一部じゃゆーめーだからって、あいつが名前でよんできやがったからむかついたからおれもつなぐって呼んでやったんだ」
「なんだその理屈は」
 もやもやがどんどんと胸の内を占めていく。
 そんな相澤の気など知りもしないで、爆豪は大きなあくびを一つ零した。涙の浮かんだ目をくしくしとこすり、やおら立ち上がる。そして、「ふろはいる」と端的に告げて見ていて危うい足取りで歩きだした。
「って、おいこら、そんな状態で風呂とかだめに決まってるだろお前」
「ねむい」
「だったら寝ればいいだろ」
「ねるから、ふろはいる」
 ベッドで横になるから身綺麗にしようというその習慣は立派だ。だが、ちゃんと場合を考えて欲しい。相澤はすぐさま爆豪の後を追った。

 爆豪にはリビングに出るまでもなく追いつくことができた。それほどに爆豪の歩みは遅い。それどころか歩くことすらままならない様子で、ちょうど追いついたそのタイミングでかくりと膝が折れ、おいっ、と慌てて手を差し出しその身体を支えてやった。
「まともに歩けない奴が風呂なんて自殺行為だ。おとなしく寝ろ」
「ちょっと力がぬけただけだ、はいれる」
「わがままを言うな爆豪」
「っ子どもあつかいすんな!」
 またそれか。
 ちょっとうんざりしながらも相澤は答えた。
「これは子ども扱いじゃない、純粋に心配しているだけだ」
「……ほんとうか?」
「本当だ」
 真意を確かめるように、じ、と爆豪は目尻を赤くさせたままにらんできた。
「ほんとうに子どもあつかいしてねぇ?」
 重ねて訊ねる口調は幼い。
 酔っているせいか今日はやけにそれを気にしてくる。
 本当のことを言えば、相澤は爆豪を子ども扱いしているし、同時に子ども扱いしてもいない。爆豪はもう酒を飲める大人だ。だが、大人としてまだまだ初心者の子どもでもある。爆豪は大人でもあり子どもでもある。それが相澤が爆豪に下す判決だ。
 しかし、いまそれを素直に告げてしまえば間違いなくこの酔っぱらった子どもは不服に声を荒げることだろう。
「本当に子ども扱いはしていない」
 その様がやすやすと想像することのできた相澤は、じとぉ、とこちらを睨み続けてくる爆豪にそう答えた。合理的虚偽というやつだ。
「…………」
「なんだ」
「……しょーこ」
「なに?」
「子どもあつかいしてないってしょーこ、みせろ」
 しょーこ……、証拠?
「証拠って、お前、そんなのどうやって見せろって言うんだ」
 相澤はなにを言ってるんだこいつはと思いつつと訊ねた。
 すると爆豪は、む、と口を引き結んでから、そんなの決まってんだろ! とでも言うようにはっきりと断言した。
「キスしろ!」
「は?」
「キス! 子どもにはしねぇようなやつ!」
「お前、キスが証拠ってなぁ……」
 子ども扱いするなと言いながら、その要求はなんだかやけに子どもっぽい。
「やっぱせんせいもおれのことまだまだ子どもだとおもってんだろ! つなぐみてぇに!」
「っ、」
 反応に遅れていると爆豪は眉尻を吊り上げて吠えた。
 その次の瞬間、反論の一つも返さずに相澤は爆豪の後頭部に片手をまわした。そして、そのまま爆豪の顔を寄せてきゃんきゃんと煩く吠え続けるその唇に噛みついてやった。爆豪お望みの子どもにはしないような、最初っから舌を絡ませてやるキスだ。
「ん、ぅ」
 ふいうちに一瞬、爆豪の肩が跳ねた。
 気にせずにさらに深く舌を絡ませてやる。先ほど爆豪はジュースみたいな酒ばかり勧められたと怒っていたが、けっきょく勧められたその酒を飲んだのか、爆豪の舌はとろりと甘かった。
「ん……、ぁ」
 その甘さがわからなくなるほどに口付けを続ける。くちゅり、とどちらのものとも知れぬ唾液が音を立て、唇を濡らした。爆豪が、ん、ん、と喉を震わせるようにして鳴く。
 いつの間にか相澤の服の裾を白い手が強く握っている。それを見た相澤は最後に爆豪の舌を己のほうへと引き込んで、ぐ、と舌先を軽く噛んでから唇を離した。
「は、ぁ……」
 爆豪が大きく息を吐く。
「ほら、これで――」
 満足か。
 相澤はそう訊ねようとして、しかし、その言葉をすべて言い終わるよりも先に、ふにゃり、と爆豪が表情を緩めた。その表情に語尾は尻すぼみに音を失くす。
 限界近くまで酔っぱらっているせいで、いつも爆豪を律している理性や見栄の心が緩みに緩み切っているのだろうか。先ほどまで不満げに引き結ばれていた唇は嬉しそうに弧を描いており、蕩けきたように爆豪は赤く染まった目尻を下げていた。
 ……まぁ、なんというか、端的に言ってしまうとその様子は中々にかわいい。
 思わず相澤は猫の頭を撫でるようにして爆豪の頬をするりと撫でた。
 そうすれば爆豪はいっそう嬉しそうに笑った。もっともっととねだるように手のひらに顔を寄せてすりすりと頬ずりをする。成人した男に向かって抱くべきものではないかもしれないが、その様子は欲目もあってやっぱりかわいらしかった。ちょっと、心配になるくらいに。
「……お前、飲み会で俺以外にもこんな風に触られなかっただろうな」
「あぁ〜?」
 意味が分からないのか、そもそも聞いちゃいなかったのか、爆豪はぱちぱちと瞬きをくり返す。そしてさらに相澤の手に頬をすり寄せ、せんせぇ、と甘えた声で鳴く。珍しいほどにべたべただ。
「…………」
 甘えてくる爆豪はかわいい。そこに嘘偽りの感情は一切ない。しかしやはりどういうわけか、こんなにもかわいらしいのに「先生」と呼ぶその声に、どうも一瞬意識がそがれた。
 もやもや、もやもや。キスをしても、その感覚が消えない。

 なぜこうも自分はもやもやしているのか。
 相澤はするすると爆豪の頬を撫でながら考える。己の状態について。一番初めにこのもやっとした感覚を覚えたのはいつだ? 確か、爆豪がベストジーニストにああだこうだと文句を言っていた時にこの感覚を覚えた。
 けれど、はたして本当にそこが一番初めの瞬間だったのだろうか?
(……いや、違う)
 明確にもやっとしたのは確かにその瞬間だ。でも、違う。いま思い返してみれば、本当の本当はもっと早く……、そう、例えば爆豪が自分のことを「つなぐ」と呼び間違えた瞬間、あの時の自分は確かになにかを感じていた。
(そうだ……、あの瞬間、俺は)
 白い頬を撫でる手が自然と止まる。
「せんせい」
 爆豪が促すように呼んでくる。
 そうして、相澤はたどり着く。一つの答えに。

 先生と爆豪は相澤を呼ぶ。慣れ親しんだ呼び方。聞きなれた呼び方。家でも外でも、一言「先生」と爆豪が呼べば、相澤は彼をふり返る。自分が呼ばれたのだと、当然のように思う。でも違う。それは確かに相澤を呼ぶ声であるが、でも、相澤だけを呼ぶ声ではない。
 中学の時の教師と対面すれば爆豪はその人のことを先生と呼ぶだろうし、病院にかかって医師の世話になればその人のことも先生と呼ぶことだろう。世の中、先生と呼ばれる職業の者は大勢いる。
 でも、例えば爆豪の呼ぶそれが「つなぐ」だとしたら?
 広い世界を見渡せば「つなぐ」という名前はたった一人のものの名前ではないことだろう。でもきっと、いまこの瞬間の爆豪の世界に「つなぐ」という人間はベストジーニスト以外にいる可能性は極めて低く、爆豪が「つなぐ」と口にすればそれは100%ベストジーニストのことを指しているに違いない。
 誰とも重なることのない、爆豪から呼ばれる唯一の呼び名。
 誰にも盗られることのない爆豪の声。
 じわりじわりと実感が沸いてくる。ずっと胸に巣くっていたもやもやの正体。なんてことはない。くだらない原因だ。気がついた瞬間、自分でも笑ってしまいたくなるほどに幼稚。
 つまるところ、自分は嫉妬していたのだ。爆豪に唯一の響きで呼ばれるベストジーニストに。自分はただの先生呼びなのに、なぜあいつのことは親しげに下の名前で呼んでいるのか。しかもベストジーニストのほうまで爆豪のことを下の名で呼んでいる。相澤を差し置いて。
 そう、恋人であるこの俺を差し置いて!
(そうか、これが嫉妬か……)
 若い時分ならまだしも、ある程度の年を超えてから誰かに嫉妬を覚えるなどという感覚からはずいぶんと遠くなっていたからすぐには自覚できなかった。
 しかし、一度自覚してしまえばすべてに納得できるような気がした。「勝己」と爆豪を呼ぶベストジーニストの声、「つなぐ」と名前を呼び返す爆豪の態度、甘えられているのにあくまで「先生」としか呼ばれない自分。
 それらに胸がもやもやとしたのは全部嫉妬が原因だったのだ。
 ふ、と思わず笑う。三十路なんてとっくに過ぎたこの自分が、嫉妬なんて感情を覚えていたことがやけにおかしくて、やけに新鮮だった。

「せんせい……?」
 突然笑った相澤に爆豪が不思議そうに首をかしげる。
 なにもわかっていない仔羊のような表情。実際、爆豪はなにもわかっていない。さっきからずっと相澤が胸をもやもやとさせていることも、その原因が自分のせいであることもなにも知らない。気がついてもいない。まったくなんて憎たらしくて、でもそれ以上に愛おしいんだろうか。
 もやもやの原因が分かったからといって、そのもやもやが無くなったわけではない。むしろ、自覚したことによってそれは明確な形となって相澤を苛立たせる。この苛立ちを解消しなければ今夜はもう眠れそうにない。それほどまでに久しぶりの嫉妬という感情は相澤を揺さぶった。
 このままじゃいけない。
 相澤はその苛立ちを速やかに解消すべく、爆豪の身体を抱き上げた。
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