「エルヴィン・スミスだ」

 リヴァイのものより二回りは大きな手のひらでリヴァイの手を引く合間、男――エルヴィンはそう名乗った。雨音に交じって、やっぱりその声はリヴァイの耳にすんなりと届く。低く芯の通ったその声は聞いて居てやけに落ち着いた気持ちにさせる。
「君の名を、訊いてもいいだろうか」
 空色の瞳がリヴァイを見る。身長差のせいでエルヴィンの目は自然とリヴァイを見下ろす形になるが、その空色は相変わらず穏やかなまなざしをしていた。
「……リヴァイだ」
「リヴァイ、か…うん、いい名だ」
「…ふん」
「リヴァイと呼んでも?」
「…好きにしろ」
 彼の歳がいくつなのか知らないが、年上を相手にする言葉遣いじゃないリヴァイの態度もエルヴィンは気にならないようだ。ただ名前を呼ぶことを許可されただけだというに、うれしそうに微笑すると、確かめるようにしてもう一度、名を呼んだ。リヴァイ、と。
 エルヴィンはリヴァイの名を聞きこそはしたが、それ以上の干渉はしてこなかった。雨のなか呆然と突っ立っていたわけも、明らかな学生服にどこの学校か訊くことも、なぜ家に帰りたくないかも、見も知らぬ人間の手を取った理由も、何一つ追及してはこない。無関心とも取れる態度。だが、自分でも正確な答えを持たぬ今のリヴァイにはありがたかった。
 言葉数少なに、二人で並んで歩く。スーツ姿の大人の男と学生服の子どもの姿は、第三者の目からどのように見えただろう。親兄弟にしてはあまりにも容姿が似ておらず、友人にするにしては年が離れすぎている。不思議そうな目で見られるだろうか、それとも穿った目で見られるだろうか、案外だれも気にしないだろうか。
 リヴァイは一人予想してみるが、残念なことにというべきか幸いというべきか、実際に誰かとすれ違うようなことはなく、予想はあくまで想像で終わった。


「さぁ、どうぞ」
 エルヴィンに手を引かれるがまま、リヴァイが連れてこられたのは見上げればすぐそこにあったあの高層マンションだった。オートロック式の玄関ホールを抜け、エレベーターで揺られたその先。エルヴィンはまるで淑女をエスコートする紳士のように恭しくリヴァイを迎え入れた。しかし、リヴァイは足を踏み入れるのに戸惑った。
 いまさら怖気づいたとか、そんな純情な生娘みたいなことを言うつもりはない。ただ、途中からエルヴィンが傘を差し出してくれたとはいえ、今の自分は雨でずぶ濡れの状態であり、このまま家に上がってしまっては廊下を濡らしてしまうことになる。潔癖症の毛があるリヴァイには、他人の家ということを抜きにしてもこのまま家に上がることには抵抗を覚えた。
 せめて、もう少し水気を払ってから上がったほうがいいだろう。そう思って、リヴァイはその場から少し身を引こうとして、しかし取られたままの手を引っ張られてしまいそれは叶わなかった。
「ちょっ……」
「濡れたら拭けばいい、気にするな」
 言いながら、親が一人で靴を脱げぬ子どもに手を貸すようにしてエルヴィンが腰を折るものだから、リヴァイは慌てて自ら靴を脱いだ。ぴちゃり、と水分を含んだ靴下がフローリングの綺麗な床を濡らす感触に思わず顔をしかめる。エルヴィンはそんなリヴァイの表情にそっと笑ったかと思うと、再びリヴァイの手を引いた。
「まずはシャワーを浴びておいで」
 先駆けて連れられたのは風呂場だった。そこかしこ真っ白で、きちんと手入れのされた清潔感の漂う綺麗なバスルームだ。リヴァイはその眩しいほどの白に目を細めながら、エルヴィンに言われるがまま素直に頷こうとして、止まる。
「あんたは…?」
 リヴァイはエルヴィンを見上げた。綺麗にセットされていたはずの彼の髪はすっかり雨に濡れて崩れてしまっていて、むしろあんたの方が先に風呂に入った方が良いとリヴァイは思ったのだが、しかしエルヴィンは首を横に振る。
「いいから、先に浴びておいで」
「……わかった」
「よし」
 今度こそ素直に頷くとエルヴィンはリヴァイの頭をほんの少し触れるようにして撫でた。子ども扱いするんじゃねぇよ、と思うが、彼の眼から見れば自分は正しく子どもなのだろう。リヴァイは口を噤む。
「濡れた服はそこの籠に入れておいてくれ」
「ん……、」
「タオルは好きなだけ使ってくれて構わない。それと着替えはあとで置いておこう」
「わかった」
 さらに素直に頷けばエルヴィンは何枚かのタオルを手にしてから、リヴァイ一人残しバスルームから出ていった。その姿を見届けて、リヴァイはさっさと服を脱いだ。服を籠に入れ、浴室へと足を踏み入れる。中まで真っ白な壁にはカビの一つもない。
 赤いラインの入ったコックをひねればすぐに温かい湯が全身に降り注いだ。中途半端に湿っていた肌を余すことなく濡らしていき、夏とはいえ、雨に晒された身体は思いのほか冷えていたらしく、湯の心地良さに肩の力が抜けた。
 棒立ちのまま、しばらく湯を浴び続ける。徐々に上がっていく体温。風邪を引かぬようにとするのが目的なのだから、身体が温まったのならばさっさと上がるべきだったのだろうが、リヴァイはついいつもの流れで髪を洗うと次いでボディソープを手に取ってしまっていた。はたと気づいて容器に目をやり、そしてそこにプリントされた家で使っているのとは違うメーカーのロゴに自分は今他人の家のシャワーを借りているのだと実感する。
 はじめてだ。自宅以外で風呂に入るなんて。それも、友人や親せきの家ならまだともかく、初対面の、さっきあったばかりの男の家でだなんて。
 少し迷ったが、もう既に手に取ってしまったのだからと、リヴァイはそのまま身体を洗うことにした。泡を立てれば、やはり家の物とは少し違う香りが鼻腔をくすぐる。慣れない匂いだ。けれど悪い匂いではなく、リヴァイは清潔なその匂いに包まれながら、足の指の間まで全身くまなくきっちりと洗い上げた。それこそ、今からいかがわしい行為を始めるために身を清める女のように。

(どう、なってんだろうな…、)
 あらためて思う。こんな状況おかしすぎるだろうと。だが、頭でそう思う一方で胸の奥底はたいした違和感を覚えることなくこの現状を受け入れていた。
 今までとはまるで逆の感覚だ。正しい、間違っていないと頭では理解していながら、胸の奥底がざわざわと激しい違和感を覚え続けていた、今までとは。
(わからない…、)
 自問自答は相変わらずあやふやなまま、けれどリヴァイの心は少し前の様子が嘘のようにひどく落ち着いていた。そよ風に頬を優しく撫でられるような気持ち。しかしそれと同時に少し高揚もしていた。今までにない感覚に、ようやく何かが手に届きそうな、そんな予感がする。
「エルヴィン……、」
 男の名を呼ぶ。浴槽に響くそれは初めて呼ぶ名のはずなのに、なぜだろうか。その名前はやけに舌に馴染んでいるように感じた。


 風呂から出るとエルヴィンが言っていた通り、バスタオルと並んで着替えが置かれていた。封の切られていない真新しい下着にシンプルなシャツと黒のズボン。バスタオルで身体を拭くと、リヴァイはそれらを手に取り身につけた。
 きっとそれなりの値段がするであろうその服はたいそう肌触りは良かったが、すぐそばにある鏡に映った自身の格好をまじまじと見つめ、ため息をつきたくなった。彼との体格差を考えれば当たり前なのだが、シャツの袖もズボンの裾も余ってしまってしょうがない。その上、シャツはボタンを一番上までしっかりととめないと肩からずり落ちてしまうし、ズボンもまた限界までベルトを締めないとずり落ちてしまいそうだった。こうなることは予想できていたとはいえ、同じ男という生き物として年齢差を考慮しても少し複雑な心境にならざるを得ない。
 袖と裾を何重にも折ってから、廊下に出るとそこにはスリッパがちゃんと用意されていた。玄関の方を見ても、濡れた床はすでにしっかりと掃除された後のようでとても綺麗なものだった。掃除ぐらい自分でしたかったが、終わってしまったものは仕方がない。
 リヴァイはスリッパを履くと、玄関とは逆方向に足を進めた。

 自分には少し大きなスリッパで、ぱたぱた、と間抜けな足音をさせながら、リヴァイは早々にリビングにたどりついた。ノブに手をかけ扉を開ける。きぃ、と少しの音とともに足を踏み入れたそこで、一番最初にリヴァイの眼に入ったのは大きな窓だった。きっと天気が良ければ暖かな日差しが心地よく降りそそぐに違いないだろう大きな窓。薄手のカーテンは涼しげな白色で、床に敷かれた毛の少し長いカーペットも同じ白い色をしており、その上にはガラスでできたテーブルとダークブラウン色のソファが置かれていた。きっと、借りた服同様それなりの値段がしているのだろう。
 そこまで大きくなくてもいいんじゃないかと思いたくなるようなテレビはもちろん薄型のものであり、全体的にシンプルでありながら節々にはしっかりと金がかかっているような気配を感じた。ただ、広さの割に置いてある家具が少ないだろうか。必要なものはそろっているが、必要なもの以外はそろっていない。掃除こそ行き届いているものの、兄姉らが各々好き好きに物を飾っている自宅のリビングとはまるで違った雰囲気だ。
 そんな良く言えば広々とした、悪く言うと少々殺風景なリビングで、エルヴィンの姿はソファのすぐ向こうにあった。どうやらすでに着替えも済ませたらしい。先ほどのスーツとは違う格好をしたエルヴィンはリヴァイの足音に気が付き顔を上げた。
 ガラステーブルに向かい何をしているのかと近づくと、テーブルの上には見覚えのある財布やら携帯電話やらがタオルに乗せられ鞄と共に並んでいる。
「あぁ、すまない、濡れたままじゃまずいと思って出させてもらった」
「いや、別にかまわない」
 むしろ、ありがたいほどだ。濡れたまま放置して鞄にカビが生えるようなことに比べれば、中身なんてどれだけ見られても構わなかった。もともと、見られて困るようなものなど入っていない。
「手間をかけたな」
「大したことじゃないさ。それより……、」
 言葉を途中で切って、エルヴィンはまじまじとリヴァイの姿を見つめてきた。足先から、ゆっくりと顔へと上る空色の視線。最後にぱちり、と目が合うと彼はその男前な顔に深い笑みを浮かべた。なんとなくではあったが、リヴァイにはこの後の彼の反応が予想できてしまった。
「やはり、私の服では大きすぎたな」
 リヴァイからしてみたら、やはり、はこちらの台詞だ。予想通りのエルヴィンの反応。しかし、どうせなら盛大に笑ってくれた方がこちらとて反撃しやすいのだが、エルヴィンはあくまで微笑ましいものでも見るような目つきで目を細めるものだから、厄介だった。なんと言葉を返してもすべて癪に障りそうで、リヴァイは結局、口を噤んだまま、ふん、と鼻をならし顔を背けた。その拍子に、毛先から落ちた水滴が肩にかけたままのタオルにぽたりと沁みる。気が付いたエルヴィンが、軽く眉を上げた。
「あぁ、リヴァイ。ちゃんと髪を乾かさなきゃダメじゃないか」
 タオルでざっと拭いただけのリヴァイの髪はまだじんわりと湿りが残っていた。髪も身体も洗っといてなんだが、それはリヴァイなりにエルヴィンを早く風呂に送ろうと気遣ってのことだったのだが、かえって気遣わせてしまったらしい。
「俺のことより、あんたもさっさと風呂に入ったらどうだ」
「君の髪が先だ」
 エルヴィンが手を振ってリヴァイを呼ぶ。片手でソファの背をぽんぽんと叩き、そこに座れと言っているその様子に、どうやら彼直々にリヴァイの髪を拭こうとしているらしいと察し、リヴァイはむっ、と渋面を作った。
 些か今さらかもしれないが、あまり人に触れられるのは好きじゃない。自分からだとか、手を握るくらいならまだ平気だが、それ以外は出来たら遠慮したい。特に首筋を触られるのは苦手だった。誰かの手が首筋に触れた途端、悪寒に似た何かが、ざわりと不愉快に背筋を走る。
 それはたとえ相手が生まれてからずっと一緒に過ごしてきた兄姉たちであっても、首筋に触られればびくりと思わず身体がはねてしまう。触られる、と覚悟をしていても、首筋だけはだめだ。
 この間なんて、リヴァイの肩に糸くずが付いていたのを取ろうとしたエレンの指先が少し首筋に触れただけでも、つい手が出てしまった。叩かれたエレンが、ちょっと触れただけなのに酷い!とうるさく騒いだから、よく覚えている。
「別に、いい」
 だから、リヴァイはエルヴィンの申し出に首を振った。そもそも、中学生にもなって誰かに髪を拭いてもらうなんてないだろう。別に髪がそれほど長いわけでもなし、放っておけばどうせすぐに乾く。
 しかし、エルヴィンは良しとしない。
「リヴァイ」
「……」
「おいで」
 エルヴィンの言葉は少ない。けれど、その少ない言葉だけでも、リヴァイはこの些細な勝敗の勝利者はどちらなのか確信した。
 シャワーを浴びるときだってそうだった。エルヴィンにそうしなさいと促されると、リヴァイは途端に抵抗する気が起きなくなる。決して怒鳴られて無理を強いられているわけでもなければ、言葉巧みに言い聞かせられているわけでもなく、ましてや彼に従わざるを得ないような恐怖心を抱いているわけでもないのに、彼に言われると反抗心がぎゅっと縮こまるように小さくなってしまう。
「……どうなっても知らねぇからな」
 はぁ、とため息をつくと、リヴァイは言われるがままソファに腰を下ろした。エルヴィンは満足げに頷いて見せる。そしていったんリビングから姿を消すと、すぐにタオルとドライヤー、そして櫛を持って戻ってきた。

 ふわり、と頭をタオルで覆われて、左右の視界がぐっと狭まる。そのタオルが視界の端で揺れるたびに、柔軟剤の匂いが香る。しかし、今はその香りに意識を傾ける余裕はなかった。タオル越しに伝わる頭部に触れる手の平の感触に、身体がわずかにはね、そのまま固まる。だめだ。我慢しろ。これくらい平気だ。強く言い聞かせて耐えた。
 丁寧に、丁寧に、エルヴィンはリヴァイの髪を拭く。きっと以前にも誰かの髪を拭いてやったことがあるのだろう。疎かに髪を引っかけることなく痛みの伴わないその手つきはとても初めて人の髪に触れるものには思えず、言葉に表すなら”優しい”の一言に限る。
 しかし、どれだけ優しい手の平であっても、上から下へ少しずつ移動した指先が僅かに首筋に触れた瞬間、もうだめだった。ぞわり、と肌が総毛立ち、背筋に冷たい感覚が走る。反射的に手が動く。ぐっ、と握った拳に、まずいと思ったが止まらない。はず、だった。

「大丈夫だ」
 凛と響く声に、制御の効かぬはずだった拳はぴたりと止まっていた。それどころか、呼吸と意識まで数秒止まっていた気がする。息苦しさに気が付いて、はっと息を吸う。大丈夫っていったい何がだ。尋ねようとして、それよりも早く大きな手の平で拳を包まれて、さっき以上に身体がびくりとはねる。
「あ……、」
「大丈夫だ、リヴァイ」
 動揺は、またしても声によって制された。無意識で受け入れたその声をリヴァイは少ししてから、それがエルヴィンの声だと気が付いた。そしてさらに少し遅れてから、言葉の意味を理解する。大丈夫。大丈夫。そうエルヴィンは言った。
 リヴァイは心中でエルヴィンの言葉を繰り返す。大丈夫。大丈夫。そうやって何度も反芻させている内に、荒かった呼吸が落ち着き、強張っていた身体の力がすぅっと抜けていくのがわかった。そうか、大丈夫なんだ。
 静かに手を離され、リヴァイは拳を下す。握りしめた手の平を解いて、背もたれに寄り掛かるとエルヴィンは何事もなかったように再びリヴァイの髪は拭きはじめた。その途中、またしても首筋にエルヴィンの指が微かに触れたが、今度はもう身体がはねることはなかった。
 むしろ、何をそんなに不安がっていたのか、今となってはもうわからないほどだ。

 ある程度髪を拭くと、次いでエルヴィンはドライヤーを手にし、もう一方で櫛を手に取った。壊れ物に触れるような手つきでそっと髪をとかされ、ドライヤーはごうごうと耳元近くで酷くうるさいはずなのに、妙に心地良くて仕方がなかった。
 徐々に徐々に瞼が重くなり、開けていられない。逆らわぬままに眼を閉じれば頭の重心がぐらりと揺れて、つられた上体が横に倒れた。ぼんやりとした意識のまま、このままじゃ肘掛けにぶつかるな、と思ったが受け身は取らなかった。
 いや、正確に言うならば、取る必要はないとそう思ったから取らなかった。だって、そうだろう。彼は“大丈夫だ”とそう言った。ならば、大丈夫なんだ。何も心配することはなく、何も恐れる必要はない。
 実際に、リヴァイの身体が肘掛けにぶつかることはなかった。代わりに身体を受け止めたのは、硬いけれど暖かく優しい腕だ。誰の腕だなんて、それこそ今さら考える必要はない。だからリヴァイは無防備にその腕に自身の身体を預けると、そのまま緩やかに意識を落としていった。
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