「リヴァイ?」 名前を呼ばれる。ただそれだけであるのに、沈んだ水底から力強くひっぱり上げられたかのようにして、急速に意識が浮上した。 目を開く。自分の意志で息を止めていたはずなのに、ようやく呼吸を許されたような心地で、はっ、と息を吸った。一瞬、頭がぐらりと揺らぐ。それを根性に似た何かで押さえつけながら慌てて振り返ると、いなかったはずのエルヴィンの姿がそこにはあった。 「エ、ルヴィン……」 「起きたのか、リヴァイ」 ぱたり、ぱたり、と静かな足音を立てながら、エルヴィンはリヴァイの元へと近づいてくる。その姿を、リヴァイはぼぅ、と見つめていた。 「随分とよく眠っていたな」 そんなリヴァイを、まだ寝ぼけているとでも思ったのだろうか。エルヴィンは眠る赤子に触れるような繊細でもって、リヴァイの頬を手の甲で、そっ、と撫ぜた。触れた部分から、温かな温度が伝わる。その温度と感触に、自然と肩の力が抜けていくのを感じた。 「リヴァイ?」 ほっ、と静かに息を吐くと、気が付いたエルヴィンが身をかがめて、リヴァイの顔を覗き込んでくる。 「どうかしたのか?」 「…いや、何でもない」 リヴァイは首を振った。実際つい先ほどまでリヴァイの全てを支配していたあの暗い感覚は、エルヴィンの手が頬に触れた瞬間、あっという間に深い底の方へと沈んで行ってしまった。 しかし、その代わりに思い出すのは、リビングに出てもエルヴィンの姿を見つけられなかった時の、置き去りにされたようなあの感覚だ。 「そういうお前は、どこにいってた……」 声は、拗ねた子供のような声をしていた。エレンじゃあるまいし、なに餓鬼みたいな声を出しているのかとも思ったが、自然とそんな声になってしまったのだから仕方がない。 「ん?あぁ、すまない。風呂に入ったあと、ちょっと電話をしていたんだ」 「……別に、謝る必要はない」 確かに、よくよくエルヴィンの姿を見てみれば、彼の前髪は完全に崩れており、着ている服もさらに違うものへと変わっていた。そんなことにも気が付かないなんて、一体どれだけ動揺していたんだろうか。 リヴァイはぐぐ、と目元をわずかに歪めた。だが、内心ではこれ以上ないほどにほっとしていた。見知らぬ土地で迷子になった子供が、ようやく親の姿を見つけ出したような、そんな安堵の気持ち。 リヴァイは、ふん、と鼻を鳴らして、思わずエルヴィンから顔を逸らした。真っ直ぐにこちらを見つめる空色に、そんな自身の心境を見抜かれてしまうような気がして、少し気恥ずかしかったからだ。しかし、完全に視線を逸らしきる間際、彼の前髪から雫が一つ落ちていくのが見えて、リヴァイはぱちりと瞬きをしてからすぐにまたエルヴィンを見た。 あらためて目に映した彼の髪は、見間違いではなく濡れている。自分にはしっかりと髪を拭くように言ったくせに、なんだそれは。気が付けば、エルヴィンの首元にかかったタオルへとリヴァイは手を伸ばしていた。 「どうした?リヴァイ」 「座れ」 「へ……?」 「いいから、そこに座れ」 有無を言わさずソファを指さすと、エルヴィンは首をかしげつつもリヴァイに言われるがままソファへと腰を下ろした。そうすると彼の頭はちょうどリヴァイの胸辺りに位置する。リヴァイの黒髪とは真逆の色をした明るい金色の髪。 その金髪に、リヴァイは無造作にタオルをかぶせた。いきなりすぎて、エルヴィンが、うわっ、と声を上げたのが聞こえたが、頓着はしなかった。わしゃわしゃ、と撫でまわすようにして、髪を拭く。 「なんだ、今度は君が拭いてくれるのか」 すぐに理解したエルヴィンはふっ、と息を吐いて笑った。余裕綽々なその態度に、リヴァイはわざと無駄に手に力を入れてみた。 「嫌がれよ。つまんねぇ」 「それはすまない。けど、嫌じゃないのだから仕方ないだろう?」 乱暴に髪を拭う手の平にされるがまま、エルヴィンは右へ左へ頭を揺らす。本当に嫌がっている姿を見たかったわけじゃないが、ここまで従順にされると、それはそれでなんだかとてもむず痒い。 リヴァイは乱暴に拭うのを止めると、今度はそっと撫でるようにして金髪を拭った。しかし、人の髪を拭く機会なんて今までなかったから、どこまで軽く、そしてどこまで強く拭いていいのかわからなかった。 エルヴィンの手付きに比べて、リヴァイの手付きは相当拙いものであっただろう。だが、それでもエルヴィンは表情に喜色をあらわにしたまま、もういいよ、と言って途中でやめさせるようなことはしなかった。それどころか、これくらいでいいだろ、と手を止めたリヴァイに対して、おや、私みたいにドライヤーはかけてくれないのかい、と物足りなさそうに要求してくるほどだった。 「ばかいうな」 「そうか…、それは残念だ」 「………、」 「………、」 「くそが、やればいいんだろやればっ」 吐き捨てて、リヴァイは櫛とドライヤーを取りにリビングを出て、すぐにエルヴィンの元へと戻った。どすどす、と苛立ち交じりに歩いてみても、スリッパを履いた足音はあくまでぱたぱた、と軽い音を立てて、なんだか見透かされているようで妙に悔しい。 「ちっ、…こんなの、ペトラにだってやらないぞ……」 正確にはやらないのではなく、望まれたとしても、いい年して何言ってんだとリヴァイが跳ね除けているだけなのだが、それならばなぜエルヴィンには抵抗を示しつつも最終的には許しているのかという問題になるので、深く考えるのは止めておく。 もういいから何でもいいから、さっさと終わらせてしまおう。リヴァイはそれ以上文句を言うのも止めて金色のその髪を梳かそうとするが、直前でエルヴィンが顔を上げたために目標を逃した。 「ペトラ……?」 どうやら、小さく呟いたつもりの声はしっかりとエルヴィンの耳にも届いていたらしい。不思議そうな表情を浮かべ、こちらを見てくるその目に、リヴァイは視線を逸らす。 「俺の、…姉だ」 「お姉さんがいるのか」 「一人、な。あと兄が三人。グンタとエルドとオルオだ」 「ということは君も入れて五人兄弟か。それは、とても賑やかそうだな」 何を想像したのか、エルヴィンはふふ、と笑う。 「…ん、まぁな。賑やかすぎて、時々うるさいくらいだ」 一人二人ならまだましだが、四人全員が集まればエルヴィンの想像するとおりそれはもう賑やかなものだ。特に賑やかなのは、できる限る五人全員そろって取ることにしている飯時だ。 一番初めにオルオが毎度おなじみの自慢話を口にすれば、ペトラが毒舌交じりの横やりを挟んで、そんな漫才みたいな二人のやる取りにエルドが笑い声をあげながらちょっかいを出す。それが影響してだんだんとヒートアップしていくオルオとペトラのやり取りに、最終的にはグンタが静止の言葉をかけるのだが、そこでまたエルドが余計なちょっかいをかけて、二人が反論しようと声を上げる。何度かそんなやり取りを繰り返して、ようやく静かになったかと思えば、リヴァイがちょっとソースを取ってくれ、と言っただけで四人全員の手が一つのソースに伸び、誰がリヴァイに手渡すか、そんな下らないことでまたぎゃあぎゃあと騒ぎだすのだから、うるさくて仕方がない。 これが、夕食時ならまだいいが、朝食時となるとまた大変だ。いつまでたってもソースが渡されないおかげでだらだらと時間は過ぎ、学校に遅刻しそうになったことは一度や二度のことじゃない。 「そのうえ、遅刻しそうになるたびにエルドとグンタが車で送ってってやるって言いやがるからたまんねぇよ」 朝食取るのに時間かかって車で送ってもらいました、なんて幼稚園児ではないのだから、中学生にもなって勘弁してもらいたい。思わずため息交じりに話すと、またしてもエルヴィンはふふ、と声を漏らして笑ってくる。 「…なんだよ」 「いや。リヴァイは、お兄さんたちのことが大好きなんだな、って思ってな」 ストレートに言われて、思わずぎょっとした。 「今の話で、なんでそうなるんだ」 「だって、彼らの話をしている時の君はとても優しくて穏やかな声をしていたよ」 「……そう、か?」 リヴァイは首をかしげる。まるで自覚なんてなかった。ただ普通の声で、普通の態度で、普通に話をしたつもりだった。むしろ、“話”というよりは“愚痴”に近かったのではないかとすら思う。それなのに、エルヴィンはそんなリヴァイの言葉から感じる想いがあったのだと言う。 「とても仲の良い家族なんだな」 「……っ、」 どきり、と心臓がはねた。 家族。そうだ、家族だ。生まれた頃からずっと一緒にいる、血のつながった、家族。そのはず、なのに、家族という言葉に重たい石を飲み込んでしまったかのように、喉が息苦しく、胸が重苦しくなった。 リヴァイは思う。いつだって思う。家族。はたして、兄を兄さんと呼べず、姉を姉さんと呼べずにいる自分に、その言葉を使う権利はあるのだろうか。惜しみなくそそがれる家族としての愛情を消受する資格はあるのだろうか。 今までも、何度も何度も思ってきた。思うたびに、奥底に押し込めたはずの罪悪感に表情をゆがめた。しつこいくらいに付きまとってくる暗い感覚に、またしても意識が沈みそうになる。しかしリヴァイは首を振ってそれを誤魔化した。 「リヴァイ?」 「……なんでもない、気にするな」 なんでもない。本当になんでもないだ。 エルヴィンにと言うよりは、自分自身に言い聞かせるように、まるで、そう繰り返している内に本当に何でもなくなるような気さえしながら、繰り返す。だが、不意に頬に触れる感触がしてはっとした。ぱちり、と瞬きをすると、エルヴィンの空色がすぐ近くにあった。 「リヴァイ、どうしたんだ?」 エルヴィンは優しく促すようにして言った。少し前にも、同じように訊かれた言葉。しかし、なぜだろうか。真摯にこちらを見つめる瞳に、思い遣りばかりが詰まった声に、硬く暖かな手の平に、何でもないのだと、もう一度首を振ることができない。 「エ、ルヴィン……」 「言ってごらん、リヴァイ」 眼には見えない絶対的な何かが、そこには確かにあった。 「お前には、家族はいるか」 「あぁ。兄弟はいないが、父と母がいるよ」 問いかけは、先の会話を思っても、きっと唐突だった。けれどエルヴィンは、そんなリヴァイの問いを笑うでも訝しむでもなく、変わらぬ真摯でもって答えた。 「じゃあ、その両親を両親と思えなかったことは、あるか」 「…それは、こんな人が自分の親だなんて…、とそういう意味でか?」 「違う。そうじゃなくて、父を父として、母を母として、ちゃんと認識しつつも、その事実に違和感を覚えたことは、あるか」 「…いいや、それはない、かな」 「……俺は、ある」 そしてリヴァイは話した。 物心つく頃にはすでにいなかった両親に代わってリヴァイを不自由なく育て、心の底から愛してくれた兄姉のことを。そして、そんな兄姉に対してどうしようもない違和感を感じる自分のことを。 彼らが、血の繋がり兄弟であることに間違いはない。昔、あまりの違和感にリヴァイは自力で彼らとの繋がりを調べたことがある。けれど、そこに薄暗い真実は存在せず、どこに晒しても恥ずかしくないほどに正しい繋がりが確かなほどに存在していた。彼らとは、同じ父を持ち、同じ母を持つ、間違いなく血の繋がった兄弟である。普通なら、安堵はすれど落胆する必要のないその事実に、しかしリヴァイは少なからずなショックを受けた。 本当に血の繋がりがなかったのなら、胸に湧く違和感は無意識のうちにその血の違いを感じ取ったからなのだと納得することができた。納得したうえで、それでも今まで彼らと暮らしてきた日々は本物なのだと、流れる血の違いなど関係ないのだと、違和感なんて無視して彼らを兄弟として受け入れることができた、はずだった。 けれど実際には、血の違いなどなかった。間違っていることなど、何一つとしてなかった。それならば、この胸に感じる違和感は一体なんなのか。全てが本物であったがために、逆にリヴァイはわからなくなった。 「兄さん、って呼べないんだ……姉さん、って呼べないんだ」 そしてなによりもリヴァイは、彼らとの血を疑った上に、彼らとの血が本物である事実にショックを受けた自分自身に対して、これ以上ないほどの憤怒を覚え、嫌悪を感じた。最低で最悪で、最高に度し難い。 「リヴァイ…」 「こんなんで、あいつらと家族だなんて、言えるのかよ……」 「リヴァイ」 「わからねぇ……どうしてだ、どうして俺は、こんな感覚を、ずっと……どうして!」 「リヴァイ!」 「ッ、」 ぎゅっ、と手を握られて我に返る。ぱっ、と開けた視界に、心配そうに眉尻を下げたエルヴィンの顔が映って、それでリヴァイは今の今まで自分が強く目を瞑っていたことに気が付いた。こめかみに、嫌な汗が一筋流れる。 「……悪い、お前に問いただしたって仕方ねぇのに」 取り乱してしまった自身を恥じるように、リヴァイは汗を拭うとそのまま額に手を当て息を吐いた。こんなつもりではなかったのに、自分で自分が制御できない。やっぱり話すべきじゃなかった。こんな話を聞かせたところで、エルヴィンを無駄に困らせることにしかならない。 話したことを早々に後悔したリヴァイは、今の話は忘れてくれ、と告げようとして、しかしそれよりも早くエルヴィンの手がリヴァイの腕を引っ張った。ぐらり、と身体が倒れる。そして、気が付けばリヴァイの身体はソファに腰を下ろしたエルヴィンの膝の上に横抱きにして乗せられていた。 突然のことに、リヴァイは目を見張って固まった。いきなりなんだ、と文句を言うことも、子ども扱いしてんじゃねぇよ、と悪態をつく余裕もなく、瞬きを繰り返す。その間に、エルヴィンは抱えやすいようにとリヴァイの背中に片手を回した。衣服越しに感じる手の平の感触。 「リヴァイ、少し私と“もしも”の話をしよう」 「い、っ…きなり、なんだ」 「いいから、聞きなさい」 声も表情も、エルヴィンはとても真面目な様子で言った。 「もしも、そうだな…、今この瞬間、君の兄弟の誰かが事故にあったとしよう」 「………っ、」 いささか物騒な仮定に、リヴァイは肩を揺らした。何を言っているんだと声には出さなかったが表情に出ていたのだろう。エルヴィンは、これはあくまで仮定の話だ、と言って、仮定の部分を強調しながら、リヴァイの背を撫でてくる。仕方なく、リヴァイはエルヴィンの声に大人しく耳を傾けることにした。 「君の携帯電話が鳴り響いて、誰かが告げるんだ。君の兄弟が事故にあったと。そうしたら、リヴァイ、君はどうする?」 「そ、んなの決まっている…」 怪我の有無と程度を心配するに決まっている。 リヴァイは答えた。どこでとか、どうしてだとか、そんなのはどうでもいい。怪我はしていないか。しているのなら、どの程度のものなのか。リヴァイはきっと、それを第一に気に掛けるだろう。 「では、その怪我が病院に担ぎ込まれるほどのものだったら、君はどうする?」 「だから、そんなの決まってる…」 今すぐにでもこの場所から飛び出して、病院へと走るに決まっている。 リヴァイはまたしても答えた。走って走って走って、目についた自転車を盗んででも、病院に駆けつけて見せるだろう。 「では、その怪我が手術を必要とするほどのものだったら、君はどうする?」 「どうする、って……、」 そんなのリヴァイにはどうすることもできない。 リヴァイは言葉に詰まった。リヴァイは医者ではない。多少の擦り傷程度なら、消毒をして絆創膏を貼ってやることくらいはできるけれど、手術を必要とするほどの怪我をどうにかするほどの腕など当然持ってなどいるはずがない。せいぜい出来るとしたら、医者の腕に精いっぱいの願いを託すくらいだろうか。 もしかしたら、たいして信じてもいない神に祈ったりするのかもしれない。みっともなく泣き喚くのかもしれない。幸いにして、今まで生きてきて兄姉たちの身に命の危険が迫るようなことなどなかったから、実際の所、どうするのかなんてリヴァイにもよくわからない。 ただ、よくわからないままに、酷く嫌な気分だった。一体エルヴィンは何を話したいのだろうか。それすらもリヴァイにはわからない。 「手術をしても助かるかどうかわからないと言われたら、君はどうする?」 「…なぁ、もう、やめろ」 答えずに、リヴァイは首を横に振った。もうそれ以上、エルヴィンの言葉を聞いていたくなかった。耳触りの良かったはずの声が、一転して不愉快で仕方がない。 止めてくれ。もう、何も言わないでくれ。リヴァイ願う。それなのに、エルヴィンは言葉を止めてはくれなかった。 「万が一、そのまま助からなかったとしたら、君は―――」 「エルヴィン!!」 だからリヴァイは、エルヴィンの言葉を最後まで聞くことなく叫んだ。エルヴィン、エルヴィン、と名前を呼んで、それ以上の続きを許さなかった。かぶりを振って、ひたすらに拒絶をあらわにする。 「エルヴィン、それ以上は言うな、やめろ」 「リヴァイ」 「やめろ、やめろエルヴィン」 「リヴァイ、落ち着け、これはあくまで仮定の話だ」 「やめろッ!!」 リヴァイは衝動のまま、エルヴィンの胸ぐらを掴みあげた。荒げた声とは裏腹に、酷く冷えた心地で目の前の男を睨み付ける。ふつふつと、この身の外まで溢れんばかりにこみあげてくるのは、喪失への恐怖と、震えるほどの怒り。 「いくらお前でも……、いくら仮定の話でも……、」 「………、」 「あいつらの死を軽々しく口にすることは、許さない」 未だに、拳を振り上げていないことの方が不思議なくらいだった。何をしたわけでもないのに、やけに呼吸が乱れる。まるで全力疾走をした後のように、心臓がばくばくと音を立ててうるさかった。 空気がぴりぴりとした棘を纏う。だが、そんな張りつめた空気の中、エルヴィンは硬かった表情をふと緩めた。今にも殴られそうになっているというのに、やけに穏やかな、慈愛に満ちたような、そんな表情。 「わからないとお前は言っていたが、けど、これで一つ分かったな」 「なにがだ……」 「やっぱり君は彼ら家族のことが大好きで、とても大切なんだってことがだ」 「なっ……、」 「なぁ、リヴァイ。君は仮定の話の中であろうと、彼らの死を想像できない、想像したくないほどに、彼らのことが大切なんだ。兄弟であるとか、ないとか、兄と呼べないだとか姉と呼べないだとか、そんなのは関係ないほどに、ただ彼らの存在そのものが大切なんだ」 そんなのは詭弁じゃないだろうか。思ったが、それを口にすることはできなかった。 だって、リヴァイが彼らを大切に思っていることは事実だったからだ。彼らの死に際など、それこそ死んでも見たくないし、死んでも考えたくない。そこには、エルヴィンの言うとおり、兄弟であるとか、兄さんと呼べないだとか、そんなこと、彼らの命を前にすれば一切合財が些細なものへと姿を変える。 エルヴィンは、そんなリヴァイの想いを見透かしているかのようにして、言葉を続けた。 「リヴァイ。私は君の兄弟を羨ましく思うよ」 「……なんで、だ」 「だって、そうだろう。彼らは、こんなにも君に愛されている」 言われて、すっ、と力が抜けた。指から、肩から、身体から、全てから力が抜けて、エルヴィンの胸ぐらを掴んでいた手が、重力に負けてぱたり、と落ちる。 愛されている。誰が。兄姉たちが。 誰に。リヴァイに。 愛されている。そうだ。愛している。 ずっとずっと一緒にいた。大好きで大切でかけがえのない、愛しい存在。 あぁ、とリヴァイは息をついた。 「おれは……ちゃんと、あいつらのことを愛せているだろうか」 「あぁ。リヴァイ、お前はちゃんと彼らのことを愛せているよ」 だから、大丈夫だ、と間髪容れることなくエルヴィンは答えた。本当に不思議だ。彼に大丈夫だと言われると、本当になにもかもが大丈夫に思えてしまって仕方がない。 「そう、か……」 「あぁ」 「そうか………なら、いい」 なにがいいのか。言いながらも正確にはよくわかってはいなかった。それでも、リヴァイは“それでいい”と思った。胸に重く鎮座していた感覚が、すっ、と遠ざかる。けれど、それはあくまで見えないほどに奥底に沈んでしまっただけで、決して抱いた罪悪感が完全に無くなってしまったわけではなければ、浮かぶ違和感が永遠に消え去ったわけでもない。 名もつけられぬ複雑怪奇な感覚はリヴァイの中に巣食ったまま存在し続けている。だが、それでもこの瞬間、リヴァイの意識はその感覚に囚われることなく、ただひたすらに安らかなものであった。 大丈夫だ。 エルヴィンがそう言ったから、そう言ってくれたのがエルヴィンだから。 「すまない、リヴァイ。仮定の話とは言え、不愉快な話をした」 「いや、俺こそ…」 実際には手を出さなかったとはいえ、あと少しでも歯車がずれていたのなら、きっとリヴァイの拳は正確にエルヴィンの頬を捕らえていた。 リヴァイは強く掴みあげたせいでくしゃくしゃになってしまったシャツの襟を伸ばしながら、悪かった、と謝罪の言葉を口にした。暴力を振るって自分の思い通りにしようなど、小さな子供にだって許されない。野蛮で幼稚な餓鬼だと呆れられただろうか。リヴァイは少し不安に思ったが、エルヴィンは、ならばお相子だな、と言って、笑ってくれた。 思えば、長年感じ続けていたこの胸の違和感を人に向かって話すのは初めてだった。話してもどうせ理解されない。そう思って、ずっと口を閉ざしていた。それがまさか今日会ったばかりの、数時間前まで名前すら知らないでいた男に口を開くことになるとは思いもしなかった。 「エルヴィン、お前は変わった男だな…」 「そうかい?でも、私からしてみれば、君も十分変な子だよ。見知らぬ男に簡単について行ってしまうなんて、危ないじゃないか」 「はっ、何言ってんだ」 その見知らぬ男であるお前が言う台詞かよ。 リヴァイは思わず笑った。さっきまでの息苦しさが嘘みたいに、撫でられて喉を鳴らす猫のようにして、くつくつと喉を震わせながら、でもほんの少しだけ泣きそうだった。だから、リヴァイはエルヴィンの胸に頬を寄せると、表情を見られないように少し俯いた。 エルヴィンは、そんなリヴァイになにを言うわけでもなく、ただ優しく背中を叩いた。リヴァイもまた、それ以上なにも言わずに、静かに目を瞑った。 エルヴィンの温度はまるで質の良い睡眠導入剤のようで、起きたばかりであるはずなのに、覚えのある眠気がリヴァイの全身を包み込むようにして襲う。心地良いまどろみ。うつらうつら、と意識が揺れるが、このまま意識を失ってしまう方が惜しい気がして、瞑っていた目をすぐに開き、リヴァイは首を振って眠気を払おうとする。 だが、こく、こくり、と揺らぐ頭に気が付いたエルヴィンが低く潜ませた声で、寝てもいいよ、なんて言うものだから、リヴァイの望みに反して瞼はどんどんとその重みを増した。くそ、お前の声にはなんか変な力でも宿ってんのかよ。胸中で毒づきながら、せめてこれだけは言っておかなければと、リヴァイはうまく回らぬ口でエルヴィンに告げた。 「な、ぁ…エルヴィン。こんどは、おれが起きるまで、そばにいろ、よ…」 「……リヴァイ?」 「おれを、おいて、いくなよ……」 目が覚めるその時まで、ちゃんと傍にいろ。言いきってから、リヴァイは頬を一層エルヴィンの胸に摺り寄せると、意識が落ちるその瞬間まで、その先にある鼓動に耳を傾け続けた。 だから、リヴァイは気が付かなかった。 眠りにつく間際、彼が小さく震える声で零した一言。 「私を置いていってしまったのは、お前の方じゃないか。リヴァイ……」 |
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