ごとり、といささか重たい音を立てさせながら、リヴァイは預かった鞄をエルヴィンの部屋の片隅に置いた。出会った時も片手にしていたこの鞄をエルヴィンはいつも軽々と抱えているが、実は思いのほか重たかったりする。中にはいったい何が入っているのか。まだまだ中学生であるリヴァイには、社会人の鞄に何が入っているのか、今一実感を持って想像することはできない。
 そもそもとして、リヴァイはエルヴィンがなんの仕事をしているのか、いまだ知りえていなかった。秘密にされているわけではない。ただ、エルヴィンが積極的に自分の話をしようとはせず、リヴァイもまた積極的にエルヴィンのことを尋ねようとはしなかったからだ。
 興味がないのかと聞かれたら、そういうわけではない。知りたくないというわけでもない。エルヴィンが一たび彼自身の話をし始めれば、その一言一句を聞き漏らすことなく、リヴァイは彼の声に耳を傾けただろう。だがそれでも、リヴァイはわざわざエルヴィンに何の仕事をしているのかと聞く必要はないと思っていた。
 エルヴィンがエルヴィンであるならば、それでいい。
 実は何十歳も年上のおじさんであっても、例えば人には言えないようなことを職業にしていようとも、エルヴィンがエルヴィンであるのなら、リヴァイにはもうそれでよかった。
 大丈夫だと、エルヴィンが言ってくれたあの日から彼に感じていた安心感は、この三日間をもっていつの間にか絶対的なものへと変化していた。
(父というものが存在したら、こんな感じなのだろうか)
 タンスの中から干したばかりのぴかぴかの部屋着を取り出しながら、父親を知らないリヴァイは想像する。大きなYシャツ、重たい鞄、優しい微笑み、暖かな腕、安らぐ言葉。
(俺は、エルヴィンに父親の姿を求めているのか?)
 エルヴィンに対する執着によく似た自身でもよくわからない思いに対して、リヴァイは自問する。父親のようだから、大きくて優しいその存在に安堵するのだろうか。父親のようだから、彼との出会いを“よくあること”で済ませたくないのだろうか。
「……チッ、馬鹿か俺は」
 考えないようにと無理やり隅っこに追いやっておいて、結局はすぐに手繰り寄せてしまっている自分に気が付いてリヴァイは舌打ちした。

 これ以上の思考を改めてどこかへ追いやりながら、リヴァイはしまったばかりぴかぴかの部屋着を取り出すと、さっさとエルヴィンの部屋を後にする。そしてそのまま、すっかり自分愛用となったスリッパをぱたぱたと鳴らせながら風呂場へ向かった。
「エルヴィン、服置いとくからなっ」
 擦り硝子の扉の向こう。ぼんやりと映るエルヴィンのシルエットに向かって、シャワーの水音にまぎれてしまわないよう、リヴァイは大きめに声を上げる。そうすれば、あぁ、ありがとうっ、と同じようにして、少し張り上げられた声が返ってきた。
 その声にいちいち満足感を覚えながら、リヴァイは踵を返そうとして、しかしその前にタオルを一枚手に取った。そしてさらに櫛を手に取り、ドライヤーもその手の中に納めてから、今度こそリヴァイはリビングへと戻った。

 ソファにドライヤーらを置いて、次にリヴァイはキッチンへ向かった。暑い外から帰ってきて、きっと喉が渇いているだろうからと思って飲み物を用意するためだ。
 食器棚から二つコップを出し、まずは片方のコップにのみ冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを縁いっぱいにまでに注ぐ。リヴァイは中身を零さないように、そっ、持ち上げ、数回に分けてことさらゆっくり、ゆっくりと水を喉奥に流し込んだ。
 空っぽになったコップはすぐに洗って綺麗にした。少しの水滴も残らないように拭いて、まるで元から使っていなかったように食器棚に戻す。そうしてから、残ったもう片方のコップにはしっかりと三、四個の氷を適当に入れてミネラルウォーターを注いだ。
 水に溶けて崩れた氷が、からん、と涼しげな音を立てる。心地よいその音を聞きたいがために無意味にコップを揺らしながら再びリビングにリヴァイが戻れば、ちょうどよくこちらに向かう足音が廊下の方から聞こえてきた。
 ぱたり、ぱたり、と聞こえるスリッパの音は、リヴァイと比べていささか間隔が広い。原因は考えるまでもなく足の長さの違いだろうな、なんて思いながら顔を上げれば、五秒と待たずにエルヴィンが髪を濡らしたままの状態でリビングに姿を表した。
「ちゃんと全身きれいに洗ったか」
「もちろん。頭の天辺から爪先まで、しっかりとね」
「ならいい……ん、」
 頷いてから早速、表面まで冷え切ったコップを手渡せば、ありがとう、と言いながらエルヴィンは微笑みを浮かべる。
「まったく、本当にリヴァイは気が利くなぁ」
「……だから、別にこれくらいどうってことねぇよ」
「そうか?だって、風呂の掃除までしてくれただろう?」
「暇だっただけだ。それも大したことじゃない」
 なのに、お前はいちいち大げさなんだよ。
 感謝の言葉は嬉しいものだが、自分がやりたくてやっていることなのに、そこまで誠実に感謝されると嬉しいを通り越してなんだか照れくさい。だからリヴァイはことあるごとに礼などいらないと主張するのだが、エルヴィンは聞き入れない。
 リヴァイが私を想って行動してくれている事実が嬉しくて仕方がない。
 だから、ついその一つ一つに感謝の言葉が出てしまうんだ。
 それがエルヴィンの主張だ。リヴァイの主張を前にして、決して揺らぐことのないエルヴィンの主張。エルヴィンは優しくて穏やかな大人の見本のような男なのに、変なところで子どものように頑固でもあった。
 今回もまた、リヴァイの主張はエルヴィンの主張の前に呆気なく根を上げる。仕方がない。照れくさい気持ちが大きいのは事実だが、嬉しいのもまた事実なので、この主張の張り合いに対してリヴァイは圧倒的に不利なのだ。
 もう、さっさと話を逸らしてしまおう。リヴァイは水をあおるエルヴィンの顔から目を逸らすと、ソファに置いたタオルを手に取り、そしてすぐ再びエルヴィンに向き直った。
「髪、乾かすんだろ」
「あぁ、そうだな。今回もお願いしよう」
 ぽんぽん、とソファの背を叩けば、エルヴィンはこくりと一つ頷いてソファに座った。
 眩しい金髪が、ぐっ、とその位置を低くし、リヴァイは近くなったエルヴィンの頭をタオル越しに触れる。そっ、と丁寧に、と心がけるその仕草は、はじめてエルヴィンの髪に触れたあの日よりもいくらかぎこちなさが抜けていた。なんせ、この髪にこんな風にして触れるのは今回で少なくとも4回にはなる。
 エルヴィンの髪をリヴァイが乾かす。それは、出会ったあの日から今日までいつの間にか習慣のようになってしまった行為のうちの一つだった。当然、リヴァイの髪はエルヴィンが乾かすことになっている。
「もうすっかり上手くなったな、リヴァイ」
 わしゃわしゃと髪を拭く手にされるがまま、ゆらゆらと頭を揺らしながら言うエルヴィンにリヴァイは首をかしげる。
「そうか?」
「はじめの頃に比べて、だいぶ手際が良くなっているぞ」
「そう、か」
「あぁ、そうだ」
 気持ちがいい、とエルヴィンは上機嫌そうだった。
 エルヴィンが嬉しいなら、リヴァイも嬉しい。でも、やっぱりエルヴィンの言葉は嬉しくもあるが、少し照れくさくもある。悪い気分では、ない。だからこそ厄介だ。
 胸の奥が、暖かな温度でたやすく融け崩れてしまいそうで、リヴァイは、そうか、ともう一度だけ頷き答えると、目の前の金髪とそれを拭く手の平だけに意識を集中させることにした。

「よし、終わりだ」
 最後に櫛で全体を整えて、リヴァイはエルヴィンの背から一歩離れた。
「ありがとう、リヴァイ」
 言いながら振り返ったエルヴィンの前髪がさらりと揺れる。
 いつもは堅苦しいまでにきっちり揃えられているエルヴィンの前髪だが、風呂に入った後はたいてい前髪を下ろしたままでいた。そうすると、普段は大人の男としか言いようのないエルヴィンが少し若く映って見える。
 リヴァイは最初、エルヴィンを長男のグンタと同い年くらいかと思っていたのだが、その姿を見てからはどちらかと言ったら二男であるエルドと近いのかもしれない、とこっそり思っていたりする。
(……俺もエルヴィンのような髪型にすれば、もう少し大人っぽくなれるだろうか)
 年の割に幼く見られてしまうことが多いリヴァイは、自身の前髪を指先でいじりながら思ったが、あの髪型はきっとエルヴィンだからこそ似合うのだろう、と早々に諦めた。
 ソファに置きっ放しにしたタオルをせっせと集める。私が片づけよう、とエルヴィンが申し出るのを素っ気なく断って、ドライヤーらを腕にリヴァイはリビングを後にした。

 タオルを洗濯かごに、ドライヤーと櫛を定位置に戻してからまたすぐにリビングに帰ると、そこにエルヴィンの姿はなかった。けど、今はもうそれだけで動揺などしたりしない。エルヴィンがどこに行ったのか。それを知っているリヴァイは、迷うことなく己の足をキッチンへと向かわせた。
 そうすれば案の定、エルヴィンの姿はキッチンにあった。深緑色のエプロンを身に着けて、冷蔵庫を覗き込んでいる。きっと、晩御飯の夕食は何にしようか考えているのだろう、とリヴァイには理解できた。
 エルヴィンは料理がうまい。味も手際もうまい。初めてその手料理を振る舞われた時、リヴァイはなんだかやけに驚いてしまって、つい、お前料理できるんだな、と言ってしまった。聞きようによっては失礼なその言葉を、エルヴィンはやっぱりと言うかなんと言うか、気分を害した様子など微塵も見せないで、意外かい?とのんびり笑っていた。
「今日の晩御飯はなににしようか?」
 リヴァイに気が付いたエルヴィンが尋ねる。リヴァイはことりと首をかしげて考えたが、すぐにまた首を元に戻した。
「なんでもいい」
「おや、なんでも?」
「あぁ…だって、お前の料理はなんだってうまい」
「それは嬉しいな。だが、本当に希望はないのか?」
 遠慮しているのならそんな必要はないのだと、そう言ってエルヴィンは見上げるほどの長身を屈ませてリヴァイと視線をぴったりと合わせた。ぐっ、と近づいた空色。その目を、リヴァイはじっと見返す。
「……しいて言うなら、」
「ん?」
「…………」
 言おうか言うまいか。口にしてしまってから悩み、リヴァイは言いよどむ。大したことではない。けど、リヴァイにとっては大したことでもある。だから、少し悩んだ。けれど、迷うリヴァイに、言ってごらん、と無言でうながすエルヴィンのその眼差しに、そっと口を開く。
「……俺も、なんか料理してみたい」
 まるで大変な願いをするかのように、控えめな声量で告げる。そのリヴァイの言葉は、どうやらエルヴィンにとっては予想外のものだったらしく、エルヴィンはきょとりとした表情を見せた。
 リヴァイは家事が得意だ。掃除も洗濯も、どちらもお手の物で、特に掃除は綺麗好きなこともあって家族のだれにも負けないほどに得意だ。けれど、実は言うと唯一、料理だけは全くできなかった。だが、料理が苦手なのかというとそれは正確ではない。自身は料理が苦手なのか、それすらも、リヴァイはしっかりと認識していなかったからだ。なぜなら、リヴァイは料理というものをしたことがない。より正確にいうなら、料理をさせてもらったことがなかった。

 昔のことだ。リヴァイがまだ小学生に上がるか上がらないかくらいの頃、既に小学生高学年だったペトラと中学生だったオルオが仕事で忙しい長兄を気遣って自分たちで晩御飯を作ろうと言い出し、実行したことがあった。
 せっせと動き回る二人を、小さなリヴァイは眺めていた。あれやこれやと言い合いながらも二人協力して料理を作っていくその姿は、なんと言葉にして良いいかわからなかったが、リヴァイの目にはとても良いものに映った。だからだろうか、そんな二人の姿を眺めている内に、リヴァイの胸に“自分も一緒に手伝いたい”という気持ちが浮かんだ。
『おれも、なにかやりたい…』
 だからリヴァイは小さな声で、しかししっかりとした意志でもって言った。
 リヴァイの申し出にペトラとオルオは少し迷ったそぶりをみせた。無理もない。なんせその頃のリヴァイは身長がようやく百センチに届いたくらいのちびっこで、キッチンに立ったところで邪魔以外の何ものでもないだろう。
 しかし、ペトラもオルオも最終的にはリヴァイの願いを聞き入れてくれ、流石に包丁は無理だがピーラーならば使っても大丈夫だろうと野菜の皮むきを任せてくれた。
 リヴァイが皮をむき、ペトラがそれを手ごろな大きさに切り、オルオがフライパンを片手に火にかける。兄弟三人による共同作業は中々にうまく進んだ。しかし、残念なことにそれはあくまで途中までの話であった。リヴァイの小さな手の平は、ただのピーラーであってもうまく扱うにはまだ少し至っていなかったらしい。結果、力を込めて扱うあまり、リヴァイは勢い余ってピーラーの刃で自身の手の平を切ってしまった。
 大した怪我ではない。出血はしたが、適当に放っておいてもそのうち止まるであろう、それくらいの傷だった。その傷に、リヴァイは思わず、あっ、と声を出したが、それだけだ。昔から転んで怪我をしても泣かない子であったリヴァイは、その時も涙一つ零さなかった。
 大変なのはむしろリヴァイの怪我を見たペトラとオルオの反応だった。怪我に気が付いた途端、二人ともざぁっ、と音を立てそうな勢いで顔色を青くし、次の瞬間にはどちらのものともわからぬ甲高い悲鳴が上がる。まるで、いつかのサスペンスドラマで見た死体第一発見者のような悲鳴。
『リリリリ、リヴァ、リヴァイの手からッ、ち、ちち、血がッ』
『お、おち、落ち着けペトラッ、なぁに、この程度の傷、手当てすればすぐになヴぉッ』
『噛んでる場合じゃないでしょッ、手当て、そうよ手当!あぁ、でも手当ってどうしたらっ』
 あまりの慌てっぷりに、リヴァイは傷の痛みも忘れて呆気にとられたた。ペトラもオルオもいつも明るく、喧嘩もよくして騒がしいが、それでも、ここまで取り乱した姿など見たことがなかったから、当時の小さなリヴァイは本当に驚いたものだった。傷の痛みなどよりもそんな二人の姿と、そして出血を止めようとしてか、ぎゅっと力強く手を握ってくるペトラの手のほうが切り傷なんかよりもよっぽど痛かった覚えがある。
 結局、大学から帰ってきたエルドがその場を収めるまで、ちょっとしたパニックは続き、その時の事件と呼ぶにはあまりにも小さな出来事があって以来、幼いリヴァイには兄姉らからキッチン侵入禁止令を言い渡された。許されるのはせいぜい、冷蔵庫に用があるときだけ。中学に上がってからは一人で湯を沸かすことと皿洗い位は許されるようになったが、その皿洗いの時ですら包丁を持つことは許されてはいなかった。
 たったあれだけの怪我がきっかけで、こんな禁止令は馬鹿らしいし大げさだ。リヴァイは幼いながらにそう思ったのだが、しかし、それに従うことによって兄姉らが安心できるのであれば、と今の今までその大げさすぎる約束を素直に厳守してきた。
 だが、その約束を今、リヴァイは破ろうとしている。こんなことは、はじめてだ。
 エルヴィンと出会って、何かが変わり始めている。
 着実に、少しずつ、何かが、何かが。
 しかし、その何かがなんなのか、リヴァイはやっぱりまだ理解できないままでいる。
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