リヴァイはエルヴィンに話した。料理をしたことがないことと、したことがない理由。そして、その上で料理をしてみたいのだと訴えた。
 リヴァイの言葉に、エルヴィンはきょとりとした表情の後に思案するように口を閉ざした。一瞬の沈黙。その一瞬の沈黙の間にリヴァイの胸には微かな不安が宿るが、しかし、そんなものは杞憂なのだと言わんばかりに、すぐにエルヴィンはにこやかに目を細めた。
「じゃあ、一緒に作ろうか」
「……いいのか?」
「あぁ、もちろん」
 エルヴィンの返事に、リヴァイは控えめに、しかし隠し切れない様子でぱっと表情を明るくさせた。エルヴィンがリヴァイの話を聞いてくれたこと、そして一緒に作ろうと受け入れたこと。そのどちらも、エルヴィンにとってしてみれば大したことではないのだろうが、リヴァイは嬉しかった。

 料理するにあたって、エプロンを着せられた。深い紺色をした、エルヴィンの体系に似合った大きなエプロン。リヴァイは、この家で過ごす間ずっとエルヴィンの服を貸してもらっていたから、ただでさえ大きな服の上にさらにぶかぶかのエプロンを着せられて不格好この上ない格好になってしまったが、貸してもらった服を汚すわけにはいかないので、リヴァイはむっと眉間に皺を寄せながらも我慢した。
 二人で、一緒に並んで立つ。夕食のメニューは、あれはどうだろうこれはどうだろう、と小さな小さな会議を開き、その結果、あまり難しくないものをということで、初心者の定番であるらしいカレーを作ることにした。
 昔のペトラ達との担当とは逆に、エルヴィンの方が野菜の皮をむき、リヴァイはその野菜を一口サイズに切る仕事を任された。今まで触れることすら許されなかった包丁を渡されて、リヴァイの心臓はドキドキといつもより早い鼓動を刻む。
「親指と人差し指を柄の付け根近くにかけて、残りの指は柄をしっかり握るんだ」
「お、う」
「押える方の手は軽く指を握って。危ないから、伸ばしてはいけないよ」
「こう、か?」
 言われたとおりに包丁を持ち指を握って、皮の剥かれた人参を恐る恐る押さえて見せると、エルヴィンはその通りだと大きく頷いてくれた。
「力任せに押し付けて切るのではなく、手前に引くように滑らせて切るといい」
「ん……」
「焦る必要はないから、ゆっくり切ってごらん」
「わかった」
 今度も言われたとおりにして、リヴァイはゆっくりと包丁を滑らせるようにして野菜を切った。ことり、と切られて二つになったのは橙色をした人参。思いのほか、あっさりと切れてしまったことにリヴァイは少し拍子抜けしてしまったが、これならいける、と一層のやる気を胸に、包丁をぎゅっ、と握り直した。
 それでも、エルヴィンの言いつけだけは忘れない。ゆっくり、ゆっくり、焦らずに。胸の中で言い聞かせながら、リヴァイは少しずつ順調に野菜を切っていき、そんなリヴァイにエルヴィンは嬉々とした声を上げた。
「なかなか上手いじゃないかリヴァイ」
「……そうか?」
「あぁ、スピードこそは確かにゆっくりだけど、見ていて危なげのない手つきだし、初心者にしてはとても上手だよ」
「……俺は、ただお前に言われたとおりに切っているだけだ」
「それでも、やっぱり初心者なら十分だ。それに見てごらん。教えてもいないのに切った形はどれも均等じゃないか」
 指摘され、改めて切り終えた野菜を見てみると、確かに大体の大きさは一緒のようだった。リヴァイは気が付かなかったが、エルヴィンはそこまでしっかり見ていてくれたらしい。
「髪の乾かし方といい、リヴァイはとても上達が早くて凄いよ」
「……だから、大げさだ、これくらい」
「そんなことはないさ」
 そう言っていつにも増してあまりにもエルヴィンが褒め称えるものだから、人参を切り終えてさらにジャガイモを切り終わる頃には、リヴァイの中にあった刃物を手にする緊張はすっかり解けてしまっていた。
 しかし、リヴァイは緊張が解けた後もエルヴィンの言いつけどおりに指を握り、次のターゲットである玉ねぎをまな板の上に抑えた。焦らずゆっくり。何度も繰り返しながら玉ねぎを切っていく。
 中々順調に進んでいく中、途中でふと目元につんとした感覚がした。玉ねぎを切ると涙が出てくると言うことは知っていたが、実際に経験するのは初めてのことで、その感覚にリヴァイは思わず手で目元を擦ろうした。だが、そうするよりも早く、エルヴィンの大きな手の平に手首を掴まれてしまった。
「擦っては駄目だよ。その手で擦ったら、ますます酷いことになってしまう」
 不意打ちの接触にびっくりして隣りを見上げると、いつの間に用意していたのか、柔らかなタオルで目元をそっと拭われた。
「辛いなら代わろうか?」
「いい、平気だ」
 ふるふると首を振って、リヴァイは改めの目の前の玉ねぎを切りはじめた。その途中も、エルヴィンに何度か目元を拭われたりしたが、中途半端に交代してもらうことはしなかった。

 そしてその後、エルヴィンの監督のもと、なんだかんだと調理は順調に進んだ。
 リヴァイは最初から最後までエルヴィンの声だけに耳を傾け、エルヴィンに指示された順番で切った野菜と肉を鍋に入れ、エルヴィンの指示通りに具材を混ぜ、エルヴィンの指示されたタイミングで水を投入した。
 一番重要であろう味付けはほとんどエルヴィンが担当して、リヴァイはと言うとその味見係を一任された。はたして「味見」は任されたと言っていいほどの仕事なのか、いささか疑問ではあったが、それでも最終的にはリヴァイのOKサインによってカレーは無事に完成したのだった。

 いつの間にかエルヴィンが作ったらしいサラダも共に、ダイニングテーブルにカレーを並べ、向かい合って席に着く。
「いただきます」
「…いただきます」
 手短に挨拶を済ませて、早速一口カレーを口にした。ゆっくり、味わうようにもぐもぐと咀嚼し、そして嚥下。二度、三度、それらを繰り返し、瞬きを一つ。
「……ん」
 うまい。家で兄が作ってくれるカレーとは全然違った味ではあったが、十分すぎるその味にリヴァイは舌鼓をうつ。うまい。凄くうまい。初心者である自分が加わっているにもかかわらず流石はエルヴィンだ、とリヴァイは思った。
 しかし、遅れてカレーを口にしたエルヴィンは言う。
「うん、美味いな。流石リヴァイだ」
 とても初めて作ったとは思えないよ、とそれはまるですべてはリヴァイ一人の手柄なのだと言っているように聞こえて、リヴァイは、むっ、と眉間に皺をよせると正面のエルヴィンを軽く睨んだ。
「俺はお前の指示通りにやっただけだし、味付けをしたのもエルヴィンだ。ほとんどお前が作ったようなもんなんだから、うまくて当然だろう」
「いや、それでもこれは二人で作ったカレーなのだから、このカレーはリヴァイが作ったカレーでもある。それに、味見をしてOKを出したのはリヴァイなのだから、やっぱりこれはリヴァイが作ったカレーでもあるんだよ」
「……屁理屈野郎が」
「君が謙虚すぎるんだよ」
 ああ言えばこう言う、とはこのことだろうか。
 俺のどこが謙虚なんだよ、と思いつつ、リヴァイは反論の言葉をスプーンで掬ったカレーと一緒に飲み込む。このままさらに反論を続けたところで、きっとエルヴィンは言葉の撤回などしないだろうし、それに別にそこまで言い争うほどの内容でもない。
「練習すればきっとリヴァイはあっという間に、うんと上手くなるだろうね」
「今の今までまともに包丁を持ったこともなかったのにか?」
 それでも、リヴァイからしてみれば過剰すぎる褒め言葉を続けるエルヴィンには一言返さざるを得なかった。
「そんなことは関係ないさ。それに私だって、君の年の頃は全く料理なんて作れなかったよ」
「…そうなのか?」
「あぁ。人に作ってもらったり外で食べるばかりで、自分では全然作ったことなどなかった」
「でも、お前の料理はうまい」
「練習したからね」
 そこで一呼吸、エルヴィンは間を入れた。青い目がこちらをじっと見つめているはずなのに、なぜかどこか違うところを見ているような、気がした。
「たくさん、練習したんだ。うまい料理を作ってやれるように、たくさん」
「…そう、なのか」
「あぁ、そうなんだ」
 言い終わるころには、エルヴィンの双眸は再びリヴァイの元に戻ってきていた。優しさと穏やかさばかりが表にされたその顔は、いつものエルヴィンの表情である。
 時間にしてみれば、本当に一瞬の違和感。しかし、なんとなくではあったが、言葉に少し迷ったようなエルヴィンの態度に安易に深入りしてはいけないような気配を感じ取って、リヴァイはそれ以上の追及を避け、スプーンを口に運ぶことに集中した。

 気まずい、と言うほどではないが、どこかむず痒くなるような沈黙が二人の間に降りる。かちり、かちり、とスプーンの背が皿の底に当たる微かな音が、やけに耳につく。何か話した方が良いだろうか。そう思いつつも何も言葉が出ないままでいた。
 さらに続く沈黙。結果としてその沈黙はそう時間の経たぬうちに破られることになった。しかし、沈黙を破ったそれはリヴァイの声ではなく、かと言ってエルヴィンの声でもなかった。突然、二人の沈黙の間に割り込んだものの正体。それは、腹の底に響くような、どぉん、という低く重たい音であった。
「…………」
「なんの音だ……?」
 重低音に対し、リヴァイは一切の反応も見せずに黙々とスプーンを進める一方で、向かいのエルヴィンはなにやら訝しげな表情を浮かべ、首をかしげた。そんなエルヴィンを見て、リヴァイは彼とはまた違った理由で首をかしげる。
「なにって、明日の予行演習の音じゃねぇの?」
「予行練習?」
「あぁ、明日は花火大会だろ」
 リヴァイが言うとエルヴィンは眉間の皺を引込めて、かわりに目をぱっと大きくさせた。
「花火大会?花火を上げるのか?」
「この時期は毎年やっているだろ」
 花火とはまた違った、空砲のようなその音はリヴァイにとってはもうすっかり聞きなれてしまった音だ。つい花火大会のことを忘れていてもあの音を聞けば、あぁそういえば明日は花火大会か、すぐに思い出せるほど昔から聞き馴染んだ音。
「そうか、花火か」
 このあたりに住んでいれば誰もが聞きなれているその音に慣れぬ反応を見せるエルヴィンにリヴァイは首をかしげたままだったが、エルヴィンの方はリヴァイの説明に納得がいったように一つ頷いていた。
「知らなかったのか?」
「あぁ、実はここに来たのは今年の春ごろなんだ」
 なるほど。それならば花火大会の存在を知らなかったのも無理はない、とリヴァイは傾げた頭を元に戻した。その拍子に、ころころ、と一つの情報が頭の中を転がる。
「…そういや、今年はなんか特殊なイベントをやるらしい」
 それはエレンから教えてもらったばかりの情報。なんといったイベントだっただろうかとリヴァイは先ほどの沈黙をすっかり忘れ、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながらエレンの言葉を思い出す。
「たしか…、マ、マツ、リ?…とかいう東洋風のイベントだそうだ」
「ほぅ、祭りか」
 マツリというものがどういうものか。リヴァイの中にはその知識がないが、どうやらエルヴィンの中には存在しているらしい。拙いリヴァイの言葉を正しく発音してみせたエルヴィンは、そっ、と目を細めた。楽しそうな、興味深そうな、そんな目だ。
「知っているのか?」
「あぁ、ここに来る前から何度か引っ越しを繰り返していてね、何年か前に住んでいた近所の祭りに行ったことがある」
「へぇ……」
 自分が全く知らないでいることをすでに体験までしたことのあるエルヴィンにリヴァイは軽い感服を素直に露わにした。エルヴィンは何でも知っている。そんなことが、なぜか嬉しい。
「その様子だと、リヴァイは行ったことがないようだね?」
「あぁ、花火大会は毎回やっているし行ったこともあるが、その祭りってやつは知らないな」
「なら、ちょうどいいじゃないか!よしリヴァイ、明日はその花火大会に行こう」
「は、ぇ……?」
 突然、嬉々として発せられた言葉に、リヴァイはぽかりと口を開きエルヴィンを見た。
「え、でも、仕事は……、」
「大丈夫、明日は休みだ。リヴァイはなにか用事が?」
「い、や……用事は、べつにないが……、」
「なら決まりだな」
 そう言って、にっこりとエルヴィンは今日一番の笑顔を見せた。楽しみで仕方がないと言う気持ちをこれでもかというくらい伝えてくる笑顔。そんな顔をされて嫌とは言えない。いや、そもそもエルヴィンがすることに対してリヴァイが嫌だと感じたことなどなく、気が付けばリヴァイはエルヴィンの言葉にこくりと頷いていた。
「楽しみだな、リヴァイ」
「……あ、ぁ」
 些か早急に決まった明日の予定に、少し呆然としながらさらに頷く。エルヴィンと一緒に出掛ける。頭の中はただその言葉を繰り返すことでいっぱいだった。

 あの日からずっと外に出ることが怖かった。外に出て、ここに二度と帰ってこれなくなることが怖かった。だから、エレンからの誘いを断ってしまった。けれど、エルヴィンと一緒ならばなにも怖いことなどない。それは、リヴァイの中では揺るがしようがない事実であった。
 じわりじわりと角砂糖が紅茶に溶けていくようなスピードで、ようやくエルヴィンの言葉を真に受け止め理解したリヴァイは、二人で初めて出かける明日を思ってこっそりと頬を緩めた。エレンからの誘いは断ってしまった手前、花火大会に行くことに多少なりとも思うことがないわけではない。それでも、思ったのだ。
「楽しみだ……」
 本当に、心の底から思ったのだった。
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