04


 とても、とても広い空が見えた。
 どこまでも続くような青空。まるで、あいつの目の色みたいだ。
 そう思ったのに、肝心のそいつの目は今にも雨が降り出しそうな空模様で、なんだかとても残念だった。せっかくの青空なのに、すごく勿体ない。
 だから、なぁ、そんな顔してんじゃねぇよ。

『――――、』




「っ……」
 ぱちり、と自分の声で目が覚めた、ような気がした。
 けれど、その自分の声がどんな言葉を発していたのか、瞬きを二回くり返すころにはもうすっかりと忘れ去ってしまっていた。いったい、なんと言ったのだろうか。寝起きのゆるゆるとした頭で思い出してみようとするが、まるで記憶になかった。あぁ、朝っぱらから歯切りが悪い。
 リヴァイは、むぎゅっ、と眉間に皺を寄せた。ぐるぐるぐると喉の奥で唸り、すぐに、はぁ、とため息をつく。なんだか、夢を見ていたような気がする。しかし、声にした言葉と一緒で、見ていたその夢がどんなものだったのかは思い出すことはできなかった。良い夢だったのか、悪い夢だったのか。それすらもわからない。あぁ、本当に朝っぱらからとても歯切りが悪い。
 ぐるぐるぐる。もう一度喉の奥で唸ってから、寝転がったまま、ぐぐっ、と身体を伸ばす。そしてそのまま何気なしに身体の向きをかえれば、エルヴィンの顔が目に映った。けれど、そこにはいつもの空色はない。見えるのは、目をつぶったままのエルヴィンの顔だけ。
 どうやら、エルヴィンはまだ目覚めていないようだった。
(エルヴィンが、ねてる……)
 リヴァイは目の前のエルヴィンのその寝顔を、目を瞬かせながら見つめた。
 思えば、エルヴィンの寝顔を見るのはこれがはじめてだ。エルヴィンとはいつも決まって同じベッドで眠るが、リヴァイが眠るよりも早くエルヴィンが眠ってしまうことはなく、また逆に、リヴァイが起きるよりも遅くエルヴィンが起きることもなかった。いつだってエルヴィンの空色の瞳は、まるでリヴァイを見守るように、閉ざされることなくそこにあってくれていた。

(めずらしい、な……)
 リヴァイはついついエルヴィンの寝顔を見つめ続けた。
 崩したままの前髪と意志の強そうな瞳がまぶたに隠されているせいか、いつにもまして若々しく見える。だが同時に、男らしくがっちりとしたその顎には金色がかった髭が生えはじめていて、無防備なその寝顔とは裏腹にとてもワイルドな雰囲気をかもし出していた。
(おとこまえは、ねているときも、やっぱりおとこまえなんだな……)
 まだどこかぼんやりとした頭でそんなことを思いながら、リヴァイはついさきほどまでの歯切れの悪い心地が薄れていくのを感じていた。
 エルヴィンよりも早く起きて、はじめてその寝顔を目にした。ただ、それだけのことなのに、まるで傍にいても構わないのだと許されているような気がして、なんだか妙に嬉しいようなこそばゆいような、そんな気持ちになった。
 気がつけば、無意識のうちにリヴァイは、ふっ、と口角を緩やかにあげていた。
 すりすりと忍び寄る猫のように、エルヴィンに近づいて顔を覗きこむ。エルヴィンはまだ眠ったまま。リヴァイは好奇心に負けて、手を伸ばす。ゆっくり、ゆっくり。起こさないよう気をつけながら、指先だけでエルヴィンの頬にそっと触れた。指先に感じるちくりとした感触。エルヴィンはまだまだ起きない。
 気をよくしたリヴァイは、そのままさらにそっと頬から顎へと指を滑らせた。ざりざり、ちくちく。痛いようなくすぐったいような感触を堪能する。なにが楽しいのか、自分でもよくわかっていなかったが、すっかり夢中になってリヴァイはそのままエルヴィンの髭を撫で続けた。

「ふふっ、そんなに髭が珍しいか?」
「っ!?」
 だから、急に口を開いたエルヴィンにリヴァイはたいそう驚いて、大げさなくらいに大きく肩をはねさせた。顔を上げて見ると、さっきまで閉ざされていたはずの空色が、真っ直ぐにこちらを見ているではないか。
「お、きてたのかよ」
「たった今、くすぐったい感触でね」
「……わるかったな、起こして」
「いいや? なかなか心地の良い目覚めだったよ」
 言いながらエルヴィンは、じっ、とリヴァイを見てきた。リヴァイは、二度寝するでもなく身体を起こすでもなく、ただこちらを見つめてくるエルヴィンに首をかしげる。
「なんだ……?」
「ん? いや、もう撫でてはくれないのか、とね」
 エルヴィンはにこにこと楽しそうにそう言い、そんな彼とは正反対にリヴァイは眉間に皺を寄せた。ぷいっ、と顔を背けて、エルヴィンと距離をとるようにそそくさとベッドから抜け出す。
「からかうな、くそ……」
「からかうだなんて心外だな」
 思いっきり笑ってるじゃねぇか、と悪態をつきながら、ベッドのすぐ近くに置いておいたスリッパを履く。しかし、片脚を突っ込んだところで、ぐいっと後ろから肩を引かれた。
「う、わっ」
 身体が後ろへと倒れ、足が宙を蹴る。その拍子に、履いたばかりのスリッパがぽーんと飛んでいった。あっ、と思わず目でスリッパを追いかけそうになるが、その直後に背後からまるでテディベアをぎゅっとするかのように抱え込まれて、目を見張った。
「リヴァイ、怒ったのか?」
「ひ、あっ……!?」
 あまつさえ、エルヴィンはリヴァイの頬に自分の頬を合わせてそのまま頬ずりをしてくるものだから、リヴァイの口からは変な悲鳴が飛び出てきてしまった。ぞりぞりぞり、と擦られる髭の感触が、ぞわぞわとする。
「やめろよっ、エルヴィン」
「リヴァイ、すまない、怒らないでくれ」
「べつに、おこってねぇ、よっ」
「本当か?」
「ほんとう、だっつーの……」
「あぁ、それならよかった」
「ぅ、ひっ……!」
 また頬ずりをされて声が出る。
「ははっ、リヴァイの頬はすべすべだな」
「だ、から、やめろって……!」
 リヴァイはじたばたと暴れてエルヴィンから距離をとろうとするが、抱きしめてくるエルヴィンの力は強い。かろうじて頬を遠ざけることはできたが、テディベア状態から抜け出すことはできなかった。
「ったく、なんなんだよっ、朝っぱらからやけにテンションたけぇな……」
「そりゃあ、高くもなるさ。なんたって今日はお祭りだからね」
「まつりは夕方からだろうが」
「それだけ楽しみなんだよ」
「……そうかよ」
 いつもと比べてテンションの高いエルヴィンにリヴァイはうまくついていけない。だが、祭りを楽しみにしている気持ちは一緒だったため、リヴァイは、はぁ、とため息をつきつつ、しばらくのあいだエルヴィンの高いテンションに付きあった。
 いい加減にしろと言ってようやくベッドを抜け出したころには、夢のことはもうすっかり忘れてしまっていた。


 洗面所で二人並んで歯を磨き、順番に顔を洗う。最初がリヴァイで、エルヴィンはその次。ふかふかのタオルで顔を拭い、籠に入れようとしたところで横からタオルを攫われた。
「おい、ちゃんと新しいやつをつかえ」
「これくらい、別にいいだろう」
「よくねぇよ」
 言ってる間にエルヴィンはさっさと顔を拭き終え、髭の処理をし始めた。
 洗ったばかりの顔に、何かよくわからない白いもこもこを塗りたくり、スムーズな動作で剃刀を進めていく。もう洗面所には用はなかったが、そんなエルヴィンの姿をリヴァイは眺めていた。
 確か、三人の兄たちも、朝になるとこんなふうに鏡の前で髭の処理をしていた。とくに、小洒落た感じで顎鬚を生やしている次兄はしょっちゅう鏡に向かっては髭の手入れに余念がなかった。一方、リヴァイの朝はというと、今日のように歯を磨いて顔を洗い、手櫛で軽く髪を整えるくらいで、剃刀を手にすることはない。
(髭って、いつごろ生えてくるものなんだ……?)
 一番年が近い三兄が髭を剃るようになったのはいつの頃だっただろうか。
 考えながら、リヴァイは何とはなしに自分の頬を撫でてみると、指先にはつるつるとした感触だけが伝わった。別に髭を蓄えたいわけではないが、むむむっとちょっと唸る。すると頭上から、ふふっ、と笑う声が聞こえてきた。
 なんだ?と首をかしげながら顔をあげると、鏡越しにエルヴィンと目が合った。鏡の中のエルヴィンは髭を剃る手を止めて、もこもこだらけのその口元を可笑しそうに緩めている。
更にむむむっとしたリヴァイは、べしっ、と目の前の大きな背中を叩いた。いてっ、とエルヴィンは小さく声を零す。実際には、べつに痛くもなんともないだろうが、その声にリヴァイは、ふんっ、と鼻を鳴らしながらも、ため息を下げた。

 そんなやり取りをしながらエルヴィンが髭を剃り終わるのを待って、そのあとは二人で一緒に朝食を作った。メニューはトーストとサラダ、そして目玉焼きベーコンだ。エルヴィンがパンを焼いてサラダを作り、リヴァイはその隣で目玉焼きとベーコンを焼いた。
 昨日のカレーの引き続き、はじめての目玉焼き作り。エルヴィンが目玉焼きは半熟が好きだと言ったので、半熟で作るつもりだったのだが、焼き加減がわからなくて固焼きになってしまった。
「…………」
 しゅん、と少し肩を落としながら、リヴァイはその焼きすぎた目玉焼きを食べる。たかが目玉焼き。そのたかが目玉焼きすらもうまく作れないなんて。
「美味しいよ、リヴァイ」
「なぐさめはいい」
「悪いが本心だよ」
 それなのに、エルヴィンはそう言った。半分、お決まりのような穏やかな表情を浮かべて、縁が焦げてしまっている目玉焼きをどんどんと食べ進めていく。リヴァイは、少し慌てた。小さいころリヴァイは兄姉らに、真っ黒な焦げは身体に悪い、と教えられたからだ。
「おいっ、焦げたところは食わなくていい、身体に悪いだろ」
「大丈夫、問題ないよ」
「問題あるだろ」
「だって、せっかくリヴァイが作った目玉焼きなんだ。全部食べるに決まっているだろう?」
「……腹壊してもしらねぇぞ」
「大丈夫、大丈夫」
 にっこりと笑みをひときわ深めて、エルヴィンは出来そこないの目玉焼きを更に食べ進めていった。躊躇など微塵もない。
 リヴァイは、本当に知らねぇからな、と最後の抵抗のように呟いて、自身もまた目玉焼きを口にした。舌にちょっと苦い焦げた味が伝わる。だが、その味とはまるで正反対に、胸には甘い感覚が広がる。

(エルヴィンは、俺に甘い……)
 エルヴィンが優しいのは今更だ。
 だが、リヴァイは改めてそう思った。
 それも、その甘さは日に日に増しているように思えて仕方がない。まるで、ミルクティに一杯、また一杯と砂糖を入れていくような、まろやかな甘さ。一度その味を口にしたら、きっと簡単には忘れることなどできない。そんな、ちょっと中毒的な甘さ。
 仮初めの居場所、仮初めの日々だとわかっているのに、この甘さがリヴァイを惑わす。
 このままじゃいけない、このままではいられないと知っているのに、その優しさがリヴァイを引き止めさせる。
(もう少し)
(もう少しだけ)
(もう少しだけだから)
 そうやってまた、リヴァイは向き合わねばいけない“何か”から目を逸らす。
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