朝食が終われば、いつもエルヴィンは少ししてから家を出る。残ったリヴァイは、一人で朝食の食器を洗っていた。けれど、今日は違う。エルヴィンは家を出ないし、リヴァイも一人で食器を洗わない。今日はエルヴィンと二人で一緒に並んで食器を洗った。

 洗い物が終わったあとも、まだエルヴィンが家を出る必要はなく、ソファに並んで座ってテレビを見た。大きな画面に映るのは、にっこり親しげな笑みを浮かべる女子アナウンサー。毎朝のように見ている彼女の顔は見慣れたものであるはずなのに、家のテレビよりも大きく鮮明な画面に映る女子アナウンサーは、なにかいつもと違うような気がして少し不思議な感じがした。
「やったな、リヴァイ。雨は降らないそうだよ」
 その女子アナウンサーが告げた今日の天気予報に、エルヴィンが喜びの声をあげる。楽しみだな、ともう昨日から何度目になるだろう。飽きもせずにエルヴィンは繰り返す。
「ん、そうだな……」
 けれど、リヴァイはそれを鬱陶しいだとか、しつこいだとか、そんな風に思うことはなかった。寝起きのエルヴィンのテンションの高さに多少なりとも呆れたりもしたが、リヴァイだって今日の祭りを楽しみにしている。むしろ、それくらいエルヴィンも自分と祭りに行くことを楽しみにしてくれていると思うと、胸の奥がくすぐったくなるくらいだ。
 だからだろうか、はじめこそはエルヴィンとテレビを見続けたり、雑談したり、目玉焼きのコツを教えてもらったり、“エルヴィンと過ごす休日”をリヴァイなりに楽しんでいたのだが、時計の針が進み正午になり、昼食を食べて、さらに時間が過ぎていくごとに、そわそわとした気持ちになってきた。
 もうそろそろだろうか、いやまだ早いだろう。そんな風に、何回も何回も時計を確認した。子どもっぽいな、と思う。まるで、遠足を楽しみにしている小学生のようで、恥ずかしい。けど、ふとまた時計を見ようとして視界に映ったエルヴィンが、同じようにちらちらと時計を確認していて、思わずちょっぴり笑った。
 リヴァイは途中から時計ではなく、時計をちら見するエルヴィンをちらちらと見上げた。こっそりと、ひっそりと。だが、見上げすぎて結局は途中で目が合ってしまった。
「どうした、リヴァイ?」
 エルヴィンが問いかける。だからリヴァイは時計を見上げ、そして再び視線を合わせてみせた。するとエルヴィンは、ん?と目を瞬かせたが、すぐにその意味に気がついたらしく、ちょっと照れくさそうに笑った。大人であるエルヴィンの子どもっぽい表情。リヴァイはまたしてもちょっぴりと笑ってしまった。
「……楽しみだな、エルヴィン」
「あぁ、そうだな、リヴァイ」
 そんな風に細やかな戯れをくり返す。
 そして、ついにその時は来る。


「そろそろ出かける仕度をしようか」
 ようやくエルヴィンがそう言ったのは、時計の短い針が四の数字を過ぎたころだった。
 あぁ、と短く返して、リヴァイはエルヴィンの家に来て以来ずっと着ていなかった学生服に着替えた。祭りがどんなものかはわからないが、きっと人がいっぱいいるだろうから、鞄は使わないで、財布と携帯電話の二つだけを持って行くことにした。見れば、エルヴィンも手ぶらの軽装だったから、多分これで大丈夫だろう。
 制服と同じく、何日かぶりになる靴を履いて、玄関を出る。馴染ませるように、爪先で地面を軽く叩いていると背後の方で、ドアの閉まる音が聞こえた。続けて、がちゃり、と鍵の閉まる音。その音に、リヴァイは少しだけ心臓の鼓動を早くさせる。
「それじゃあ、行こうか、待ちに待ったお祭りに」
「……あぁ」
 歩き出すエルヴィンの後ろに続く。一度だけ、リヴァイは閉められたばかりの玄関をふり返ったが、振り切るようにまた前を向いた。

 マンションのエントランスから外に出た途端、むわっとした生温い風が頬を撫でた。
 まだまだ眩しく輝いている太陽の光に目を細めながら、リヴァイは隣のエルヴィンを見上げる。
「まつり会場、ちゃんと覚えているか?」
 昨日の夕食の後、エルヴィンと一緒にネットで調べてみたところ、祭りのイベント会場は、そう遠くはない。
 この街には、遠くの山の方からずっと続いているとても大きな川が一つ流れていた。リヴァイが兄姉たちとよく見ていた毎年の花火は、その川の河川敷から上がっているのだが、今日やる祭りの会場はそのすぐ向こう側の河川敷であるらしい。
「当然、ばっちりだよ」
「なら、道案内は任せる」
 知らない土地ではないとは言え、この辺りのことはあまり知らないリヴァイは、すべてエルヴィンに丸投げる。別にいいよな、と声を出さないまま問いかければ、エルヴィンは穏やかに笑って頷いた。
「あぁ、任されよう」
 そう言って、わざとらしくおどけて見せながら歩き出すエルヴィンに、リヴァイは再びその後ろに続く。
 昨日の夜から、会場までは徒歩で行くことにしていた。きっと今日はリヴァイ達と同じような祭り目的の客でいつもに増して交通量が増えているだろうし、バスもきっと満員だろう。ぎゅうぎゅうと窮屈な思いをしながら、進んでいるのか進んでいないのかわからないバスに乗っていくよりは、少し時間がかかってものびのびと自分たちのペースで行ける徒歩の方がいい。
「にしても、暑いな……」
 ただそれでも、さんさんと降り注ぐ日差しには、ついつい愚痴を漏らさずにはいられなかった。バスにすし詰めにされるよりかはましでも、暑いものは暑い。
「やっぱり、暑いのは苦手か?」
「まぁ、得意、ではない……」
 暑いと、どうしても頭がぼぉっとしてしまう。それに加え、汗のせいで服は鬱陶しく身体にまとわりつくし、露出させた肌は日差しに焼かれてひりひりと痛くなって、散々だ。
「まだ冬のほうが過ごしやすくていい」
「そうか? 私はどちらかと言ったら冬のほうが駄目だな」
「ふぅん……」
「朝など、ベッドから抜け出すのが辛くてかなわないよ」
「まぁ、それはわかるな……。けど、顔さえ洗っちまえば、あとはこっちのもんだろ」
「その顔を洗いに行くまでが辛いんじゃないか……」
 冬の温かなベッドの魅力は筆舌に尽くしがたいよ、とエルヴィンは続ける。そのやけに実感のこもった言い方に、リヴァイはエルヴィンがその身体を丸め蓑虫のごとく毛布に包まっている姿を想像する。そして、いや、こいつの場合は蓑虫じゃなくて冬眠中の熊だな、と大きな背中を見つめ、一人笑った。

「ところで、リヴァイ」
 ふいに、その背中が声と共にふり返り、空色の瞳と目が合った。
 ぴたり、とエルヴィンが立ち止まり、釣られてリヴァイも一緒に立ち止まる。どうかしたのだろうか。リヴァイは、ことり、と首をかしげた。
「なんだ……?」
「…………」
 問いかけても、エルヴィンは返事をしなかった。その代りに、ちょいちょい、と手を振って、手招きのような仕草をした。なんだろうか。ますます首をかしげながら、リヴァイはその仕草に引っぱられるようにして、エルヴィンとの距離を詰めた。
「どうした……?」
「あぁ、たいしたことじゃないが……」
 エルヴィンはそう前置きをしながらも、しかし、と続ける。
「せっかく一緒に出掛けるんだ。そんな後ろじゃなく、ぜひ隣を歩いてはくれないか?」
「え……?」
「気がついていなかったのか?」
 ずっと私の後ろを歩いていたじゃないか。
 エルヴィンに言われて、そう言えば、と気がつく。マンションを出てから、ずっとエルヴィンの背中ばかり見ていた気がする。真っ白なシャツを着た、エルヴィンの大きくたくましい背中。その背中を、見失わないよう気をつけながら追っていた。
 距離にして、約一歩半。声が届かないほど遠くはないが、触れるには手を伸ばす必要のあるくらいには遠いその距離を、リヴァイは特に疑問に思うこともなかった。しかし、一緒に出かける者の距離としては、後ろに一歩半は確かにちょっと距離があったのかもしれない。
 納得したリヴァイは、足を一歩と半分踏み出して、エルヴィンの横に並んだ。これでいいだろうか。隣を見上げると、エルヴィンはにっこりと嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、あらためて行こうか」
「ん……」

 けれど、少し経った頃、またエルヴィンは歩みを止めた。
「ほら、リヴァイ。また離れているよ」
「え、あっ……」
 ぱちり、と眼を瞬かせながら前を見れば、確かに、こちらをふり返るエルヴィンの姿が、隣りにではなく前方にあった。気がつかないうちにまた一歩半の距離ができていたようだ。リヴァイは短い距離を急いで詰める。そうすれば、エルヴィンはまた嬉しそうに笑ってくれた。
 でも、なぜだろうか。
 しばらくして気がつくと、またエルヴィンとの間に一歩半の距離が開いてしまっていた。
 別に、エルヴィンの隣りを歩くことが嫌なわけではなく、かと言ってエルヴィンの歩みが速いと言うわけじゃない。むしろ、その長い足を考えたら、普通に歩けばもう少しエルヴィンの歩みは早いだろうに、苦も無くリヴァイがいつもの足取りでついていけていると言うことは、体格の違いからくる歩みの速さをエルヴィンは考慮してくれていると言うことだ。ただなぜか、その考慮を上回る形で、リヴァイの歩みがエルヴィンの歩みよりも一歩半、遅くなっていく。

「リヴァイ」
「っ……悪い」
 また遅れていた。
 リヴァイの名を呼ぶエルヴィンの声には、苛立ちや咎めるような音は含まれていなかったが、リヴァイは反射的に謝って距離を詰めた。今度こそは、遅れないよう気をつけなければ。言い聞かせながら、足を進める。
「そうだ、リヴァイ」
 すると、またしてもふいに、エルヴィンが言った。
「いっそのこと、あの時みたいに手を繋ごうか?」
「あのとき?」
「あぁ、あの時だ」
「…………?」
 少しだけ考え込んで、すぐに思い出した。
 あの時。それはエルヴィンと出会ったあの時のことだ。公園からエルヴィンの家へと行くあいだ、エルヴィンはリヴァイの手を取り、まるで離れてしまわないように、はたまた、こっちだよと導くように、ずっと離さないでいてくれた。
 リヴァイは、それを当たり前のように受け入れていた。温かな手の平に、気がつかないうちに安心感すら抱いていた。しかし、今になって思い返してみると、少し気恥しい気がした。あの時は、今ほど心に余裕がなかったとは言え、中学生にもなって、そんな、子どもっぽいこと。
「……繋がねぇよ」
 リヴァイは気恥ずかしさから、ぷいっ、と顔を背けながら、エルヴィンの提案を素っ気なく拒否した。
「おや、嫌か?」
「嫌とか嫌じゃないとかじゃなくて、おかしいだろ……幼稚園児じゃあるまいし」
 嫌なわけではない。それは確かだった。
 けれど気恥ずかしさはある。それも確かなことだ。
「手を繋ぐのに、年齢制限はないと思うが?」
「そう言う問題じゃない……とにかく、繋がないって言ったら繋がない」
「そうか……、それは残念だ」
「…………ふん」
 エルヴィンは肩を落とすが、リヴァイは意思を変えようとはしなかった。しかし、また歩みが遅れようものなら、エルヴィンだったら本当に手を繋ぎかねない気がして、リヴァイは本当に気をつけなければとより一層意識を強くして、エルヴィンの隣を歩いた。
 そのおかげか、これ以降、二人の間に一歩半の距離はできることはなく、エルヴィンはちょいちょいと隣りからこちらを見おろしては、何回も嬉しそうなあの笑みを浮かべていた。その顔を見て、もしかしたら嵌められたのかもしれない、と後になって思ったが、だとしても別にまぁいいかとリヴァイは気にしなかった。


 そうこうしているうちに、いつの間にか、橋の近くにまで二人はやってきた。
 ここまでくれば、もう祭り会場もすぐそこだ。周囲にも、人の姿が多くなってきた。親子連れや男女のペア、学生の団体。中には男二人だけ、女二人だけの姿も多くあって、エルヴィンとリヴァイの親子としても友人としてもいささか違和感のある組み合わせも、この人混みの中ではたいして目立つようなことはなさそうだった。
 しかし、そんな誰も彼もが有象無象の一人になってしまう人混みの中に、やたらと目を引かれる格好をした女性がちらほらと何人か存在していた。その人たちは、皆なんだか見慣れない形の服を着ている。たとえるなら、それはカラフルな色をしたバスローブだ。どれもこれも細やかな模様がほどこされておりとても綺麗だったが、見慣れぬ格好にリヴァイは首をかしげる。
「あれは浴衣だよ」
 横からエルヴィンが言った。
「ユ……?」
「東洋に伝わる和服の一種だよ」
「東洋、和服、ユ……、ユタ?」
「ゆかた」
「ユカタ……なんで今日はそのユカタを着たやつが沢山かいるんだ? マツリだからか?」
「そうだ。東洋のとある国ではこの浴衣を祭りに着ていくことが多くあるらしい」
「へぇ……」
 バスローブもどきの正体と理由が分かったリヴァイは傾けた首を元に戻した。
 にしても、動きづらそうな格好だと思う。足元も、サンダルに似た歩きづらそうな靴を履いていて、大変そうだった。けれど不思議と、浴衣を着ている女性たちはちっとも辛そうなものではなく、とても明るく楽しそうな表情をしていた。どこか浮足立つような祭りの雰囲気に、とてもよく似合っている。
「なかなか良いね」
 どうやらエルヴィンも、同じような感想を抱いたらしい。
 リヴァイは、そうだな、と声にして頷こうとして、しかし――。
「リヴァイが着たらとてもよく似合いそうだ」
 続けられた思いもよらない言葉に、はぁ?と間抜けな声が出た。
「なに言ってんだ、急に……」
「いや、ただ素直にそう思っただけさ」
「……そうかよ」
「あぁ、私の偏見だけどね。色白で黒髪で小柄で、それに君は背筋が綺麗だ」
「…………」
 はたしてそれは褒められていると思っていいものだろうか。女相手にならともかく、どれもこれも、男に対する褒め言葉ではない。むしろ、色白やら小柄やらは、年頃の少年相手には侮辱となってもおかしくないのではないかと思う。
「特にリヴァイは綺麗な黒髪だからね。きっとどんな色の浴衣でも似合うだろうな」
「…………」
 ほんとうに何を言っているんだか。
 エルヴィンに悪意があって言ったわけではないことがわかっていたので、怒りの感情が湧いてくるようなことはないが、そのかわりに喜びの感情が湧いてくることもない。今までもエルヴィンはやたらとリヴァイの行動を褒め、なんだかんだと言いながらも満更ではなかったリヴァイだったが、今回ばかりは別だった。
「そう言うことは、それこそ女相手に言え。俺に言っても仕方ないだろ」
「いや、それは無理だよ」
「なんでだ……?」
「当然だろう?だって私はリヴァイに似合うと思ったのだから」
 リヴァイ以外の人にはそんなこと言えないよ。
 エルヴィンは平然とそんなことを言ってのけて、リヴァイはちょっと呆れた。
「お前の感性って変わってるな」
 エルヴィンが変わりものだと言うことは、出会ったあの瞬間からわかっていた。じゃなきゃ、どこの誰とも知らない子供に願われたまま、自分の家に置いておくなんてことするはずがない。しかし、まさか美的感覚まで変わってるとは思わなかった。
「そうでもないさ」
 きっぱりと言い切るエルヴィンに、リヴァイはやっぱり呆れる。だが同時に、そんなところがちょっとエルヴィンらしいとも思った。普通じゃない。ちょっと変わってる。けど、それくらいがなんとなく“らしい”。
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