05


 どん、と花火が鳴る。大きな音。
 ぱらぱらと火の花弁が散っていくのが、視界の隅に映る。更に続けて、どんどんどん、と花火は音を立ててあがり続けた。しかし、それよりも大きな音が、胸の奥から聞こえていた。どくり、どくり、とまるで何ものかが内側からリヴァイの胸を叩いているかのような、激しい鼓動。息が苦しい。なにがどうなっているのか、わからない。見開いた目には、場に似つかわしくないはずの空色がいっぱいに広がっていた。

「……っ、すまないっ」
 エルヴィンの声とともに、その空色が遠ざかった。同時に、口元に感じていた感触がなくなって、そこでようやくリヴァイはエルヴィンに口づけられたのだと気がついた。途端に、ぼっ、と顔中が熱くなる。
「すまない、リヴァイ……ほんとうに、すまない」
 だが、謝罪の言葉をくり返すエルヴィンが身体だけではなく、いつの間にか繋ぎなおされていた手すらも放そうとしていることに気がつき、リヴァイははっとした。反射的に、その手を逃がさないよう強く握りしめる。
「リ、ヴァイっ」
「べ、つに!」
 うろたえたように声を揺らすエルヴィンの言葉を、同じように揺れた声でリヴァイはさえぎった。握った手をぎゅっと力を込めれば、自分よりも一回りも二回りも大きな手が、リヴァイの手の中でびくりとはねる。
「……べつに」
「リヴァイ……?」
「いや、じゃ……なかった、から……だからっ、べつに、いい」
 エルヴィンなら、いい。途切れ途切れに、後半のほうにいたってはほとんど顔を俯かせながらも、リヴァイは告げた。弱々しすぎる主張。けれど、本当に嫌ではなかった。

 エルヴィンとリヴァイは男同士で、付き合っている恋人同士では決してない。それどころか親しい友人同士ですらない不安定な関係だ。それなのに、なぜだろうか。そんな不安定な関係で、さらに合意のない不意打ちの口づけだったのに、不思議と嫌じゃなかった。
 例えば、これが他の誰かであったなら、手が出ていたかもしれない。でも、エルヴィンならば。エルヴィンだったのならば、構わない。そう、思えた。むしろ、いきなり口づけられたことよりも、エルヴィンの手が離れていってしまうことのほうが、嫌で嫌で仕方がない。

「……リヴァイ」
 少しの間を挟み、名前を呼ばれた。固まったままだった大きな手のひらが、リヴァイの手をぎゅっと握り返してくる。そのことに少しほっとしながら、リヴァイは恐る恐るゆっくりと顔をあげた。
 エルヴィンと目が合う。リヴァイの好きな空色。好きになった空色。エルヴィンは目が合うと同時に、離れた一歩の距離を再び詰めてきた。頬に、エルヴィンの手が伸びる。リヴァイはそれを避けることなく受け入れるが、しかし、その手は頬に触れる直前に動きを止めてしまった。だから、リヴァイはエルヴィンの手の甲に手を重ねて、自ら頬に導いた。
「っ……」
 エルヴィンが、はっと息を飲んだ。目を見開いて、そのあとすぐに目を細める。そしてそのまま、ゆっくりとエルヴィンの顔が近づいてきた。何をされるのか。先ほどとは違い、十分に理解していた。だが、手を伸ばされた時と同じようにリヴァイは避けるようなことはしなかった。むしろ、理解していたからこそ、リヴァイは身を引かないままでいた。エルヴィンならいい。エルヴィンならば。
 ただ、逃げこそはしないものの、徐々に近づいてくる空色に気恥ずかしさを感じて、リヴァイは思わず目を伏せた。すると、その目元をエルヴィンが親指の腹でゆるゆる撫でてきた。ほっとするほど優しい仕草であるのに、どきどきと胸の奥の鼓動は速まっていくばかりだ。
 目を伏せていても、ざわりとした肌の感覚にエルヴィンとの距離がもうほとんどないことがわかった。口元にふっと息がかかる。もう触れてしまう。そう思ったその次の瞬間に、リヴァイの唇にエルヴィンの唇が重なった。生まれて二度目の口づけ。角度をつけて隙間なく合わせられたその口づけは、先ほどよりももっと長く、そしてもっと深い。
「ん、……っ」
 唇を撫でるように舐められ、さらにちゅっ、と濡れた音とともに舌先を絡められて声が零れた。背筋にぞわっとした感覚が走る。悪寒ではない。もっと熱くじわじわしたなにか。はじめてのその感覚に、縋るような気持ちで握った手のひらをぎゅっとすれば、すかさずぎゅっと握りかえされる。
「ん、んぅ……」
 わけがわからなかった。胸の奥は相変わらずうるさいし、呼吸が上手くできなくて息苦しい。そもそも、唇と唇を合わせるなんて、気持ちの悪い行為だ。赤の他人はおろか、たとえそれが家族である兄姉らが相手だったとしても、拒否反応を感じる。でもそれなのに、エルヴィンに口づけられていると言う事実を、リヴァイはやはり嫌だとは思わなかった。

 次第に意識がぼんやりとしてくるころになって、寄せられた時と同じようにエルヴィンはゆっくりと口を離した。ぐらり、と身体が崩れかけて、エルヴィンに片手で支えられる。力強い腕だ。リヴァイは、はぁはぁと荒くなった呼吸を整えながら安心してその身をエルヴィンに預けた。
「リヴァイ……」
 朦朧とした意識の中でも、エルヴィンの声だけはいつものように真っ直ぐと聞こえる。しかし、その声は戸惑い混じりの不安定な声をしているように聞こえた。
 リヴァイは顔をあげて、エルヴィンを見た。そして、ぱっ、と目を見開いた。
「どうして……、どうしてお前は、そんなに、……」
 エルヴィンは、くり返す。どうして、どうしてなんだリヴァイ、と。
 だが、どうしてはこっちの台詞だった。どうして、どうして――。
「エ、ルヴィン……どうして、そんな目をする?」
 悲しそうな、苦しそうな、泣き出しそうな、そんな目。
 まるで雨が降りつづけたままもずっと止まないでいる空のような、そんな色。
 手を伸ばして、今度はリヴァイがエルヴィンの頬に触れる。目元を撫でて、こちらまでつられて泣きたくなるような眼差しに、リヴァイはぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「リヴァイ、私は……」
「なんだ……?」
「私、は……」
「エルヴィン?」
「……リヴァイ……リヴァイ、リヴァイ」
 エルヴィンはなにかを言いかけて、すぐに言葉を詰まらせた。かと思えば、まるでそれしか言葉を知らぬように、何度も何度もリヴァイの名を呼ぶ。いつもどっしりとした大人の包容力で温かく抱きしめてくれるエルヴィンの、いつになく錯乱した様子にリヴァイは焦った。
「エルヴィン? どうした? どっか痛いのか? 腹か? 頭か?」
 おろおろとリヴァイは必死にエルヴィンを見あげて尋ねた。見当違いなことを聞いてるな、と自分でも思ったが、じゃあほかになにをどうすればいいのか、わからなかった。エルヴィンエルヴィンと名前を呼んで、どうした、大丈夫か、と馬鹿みたいにくり返す。
「エルヴィン……」
 何度、エルヴィンの名をくり返しただろうか。どうすることもできない無力感にリヴァイの声は少しずつ小さくなっていった。そのまま、しゅん、と俯きかけて、しかしその前にがっと両手で両肩を掴まれた。
「リヴァイ、私は――」
 エルヴィンの手によって、あらためてエルヴィンと正面から向かいあわせられる。エルヴィンの表情にはまだ迷いが滲んでいたが、揺れていたはずの声はどこか決意をしたたように固まっていた。
 そのエルヴィンの背後の夜空では、相変わらず花火が大きな音をたてて綺麗に撃ちあがっていた。だが、そのどちらもがすでにリヴァイには届いてはいない。リヴァイの視覚も聴覚も、なにかを伝えようとするエルヴィンにのみ集中していたからだ。だからだろう。リヴァイは、すぐそこまでやってきていたその人物の気配に気がつくことができなかった。


「リヴァイさんッ!!」
 その声は叩きつけるようにして、リヴァイの耳に届いてきた。
 リヴァイは、はっとして目を見開く。見れば、正面のエルヴィンも同じような表情をしており、埋めたばかりの距離をまたしても離した。リヴァイも一緒になってその場から一歩後ずさると、慌てて声のした方へと顔を向けた。すると、数メートル先に離れたところに、まるで縄張りを荒らされて荒れ狂う獣のような表情をしたエレンが立っていた。
「エ、エレンっ」
 どうしてここに、とは思わない。エレンがこの祭りに来ていることは、予想ではなく確信していた。しかし、なぜ屋台から離れたこの場所に、しかもよりによってのタイミングにやってきたのか。予想だにしないエレンの登場に、リヴァイは慌てた。
 まさか、見られただろうか。だとしたら、一体いつから……。リヴァイは先ほどの行為をふり返る。しかし、あらためてエルヴィンとなにをしていたのかを実感して、すぐに想起を中断させ、エレンから視線を逸らした。頬が熱いような、そんな気がする。
「リヴァイッ!!」
 しかし、怒声としか言いようのない大きく荒々しいエレンの声から、ただならぬ気配を察してリヴァイはすぐに顔をあげた。そして、目に映ったエレンの表情に目を瞬かせた。
 エレンは眉間に皺を寄せ、目を吊り上げ、さらに口元は食いしばるように引き締め、怒りの表情をあらわにしていた。ぐぅぅ、と今にも唸り声が聞こえてきそうな険相。しかしそれでいて、怒気を感じさせる金色の瞳は今にも泣きだしそうにゆらゆらと揺れていた。
「エレン?」
「…………」
 思わず、呟くようにして名を呼ぶ。だが、応えは返ってこなかった。エレンはこちらをじっと睨みつけているが、その目はリヴァイではなく、リヴァイのすぐ隣に立っているエルヴィンを睨みつけているようだ。しかし、なぜ?
「知り、合いか……」
「え、あ、あぁ……」
 首をかしげていると隣りから、ふいにエルヴィンが尋ねてきた。リヴァイはエレンから視線を外してエルヴィンを見あげる。目はあわない。エルヴィンも、じっと目の前のエレンを見ていた。
「エレンって言って、クラスメイトで、その、友人だ……」
「友人……」
「あぁ」
 ぽつり、と呟くエルヴィンに相槌を打ってから、エレンにも説明を、とリヴァイはエレンに顔を向けた。
「エレン、こいつはエルヴィンて言って、あー……、その……」
 しかし、いざエルヴィンのことを伝えようとしても、なんと説明すればいいのかわからなくて、リヴァイは口ごもる。友人と言うには年が離れているし、知人ではなんだか素っ気ない。かと言って、ありのままを言うわけにもいかない。そもそも……。
(そもそも、俺たちの関係って、なんなんだろうか……)
 長いようで短いような短いようで長いこの数日間、何度も考えて、でも結局は答えが出ない疑問。その度に考えても仕方がないなんて言い訳をして、目を逸らしに逸らし続けた。そのつけが、とうとう形になってあらわれてしまったらしい。

「エルヴィン、さん……」
 リヴァイが悩んでいる内に、エレンがエルヴィンの名を呼んだ。固い声だ。両脇にだらりと下げられているエレンの両手は、強く拳を握って震えている。
「…………」
「あんた、は……」
「…………」
「あんた、は……覚えている、んですか」
 エルヴィンは返事をしなかったが、エレンは構わず続けた。覚えているのか。それは、リヴァイには意図がよくわからない質問だった。
「…………だとしたら、どうする」
「ッ……!!」
 しかし、エルヴィンには意味が理解できる質問だったらしい。
 静かなエルヴィンの返答に、エレンはひゅっと息を飲んだ。ついで、エレンの怒気が強まった気がした。肩をいからせて、ぎり、と喰いちぎるのではないかと心配になるほど強く唇をかみしめる。なぜ、エレンはそんなに怒っているのか。リヴァイは困惑した。
「おい、いったい何の話をしている?」
 初対面にしては不自然な様子の二人に、そして意味のよくわからない会話。リヴァイはエルヴィンとエレンの二人を交互に見るが、二人はそれぞれ目を合わせたまま。いつのまにかエルヴィンの表情までもが、どこか険悪な雰囲気に変わっていた。
「なんだ、お前ら知り合いだったのか……?」
「…………」
「…………」
 尋ねるが、どちらからもいらえは返ってこない。痛いほどの沈黙。ぴりぴりとした空気に、実際に肌が痛むような錯覚を覚えるほどであり、リヴァイの困惑は不安も交えて増す一方だ。
「俺は……」
 震えた声でエレンは言う。
「俺は、まだ納得できてません、から……」
「…………」
「あんな仕打ち、……やっぱり、酷過ぎると、俺は、思いますッ」
「おい、だからなんの話をしている、エレンっ」
「…………」
「くそが……っ」
 ますます意味がわからなくなる話にリヴァイが再び尋ねると、エレンは途端に口を閉ざしてしまう。それならば、とリヴァイはエルヴィンに目をやると、袖を引っ張り無理やりにでも意識をこっちに向けさせようとした。
「なぁ、おい、エルヴィン、なんの話を――」
「リヴァイ!!」
 しかし、エレンの大声にさえぎられリヴァイはびくっと肩を震わせた。何度目かになるエレンの怒声。なんなんだ、と思いながら目をやれば、エレンはずかずかと荒々しくこちらに寄ってくるところだった。
「っな、んだよ……エレ、うわっ」
 エレンはあっという間に傍まで来たかと思えば、そのまま強くリヴァイの腕を引っぱってきた。反射的にリヴァイは腕を引くが、エレンの力はやけに強い。
「帰りますよ!!」
「はぁ? なに言って、っておいっ……!」
 ぐいぐいと更に強く引っぱられて、リヴァイの足は一歩二歩と進んでしまう。
「いっ、きなり、なんなんだエレンっ」
「いーから、帰るんだよッ」
「なにも、よくねぇ、よっ」
「いいんだ、よっ」
 押し問答をしながらリヴァイはエレンの手を振り払おうと腕を振るが、やっぱりエレンの力は強い。エレンとリヴァイでは、身長こそは大きな差はあるものの、力比べでは五分五分程度であったはずなのに、どういうことだろうか。いくら振り払おうとしても、エレンの手を振り切ることができなかった。
「エレン、放せ」
「…………」
「おい、エレンっ」
「…………」
「おい、……おいっ」
 離せと言い続けるリヴァイに、ついにエレンは口を閉ざし沈黙したままリヴァイの腕を引き足を進める。
「っくそ、エルヴィン!」
 リヴァイは助けを求めてエルヴィンをふり返った。
 この馬鹿をなんとかしてくれ。そう言おうとして、だが、エルヴィンと目が合ったとたん
、すべての言葉は引っ込んでしまった。なぜなら、さっきまでおっかない表情をしていたエ
ルヴィンのその目が、ふたたびあの悲しげな色を浮かべていたからだ。
「ェ、ル……」
 胸がぎゅぅっと痛くなって、声がかすれた。

(どうして、どうして)
(どうして、また、そんな目をしている……)
 そんな目などするなと言いたい。言ってやりたい。
 お前に、そんな目は似合わない。じゃあ、どんな目が似合うのかと聞かれたら、きっと困ってしまうけれど、でもその目だけは、そんな目だけはしてほしくなかった。大丈夫だからと、なぜかそんな言葉をかけてやりたくなった。お前がそんな目をしなくても大丈夫なんだ。安心しろって、そんな優しい言葉をかけてやりたくなった。
「っ――――」
 胸の痛みを跳ね除けて、今度こそしっかり名前を呼ぼうとした。エルヴィン、とたくたん名前を呼んでやって、たくさん言葉をかけてやろうとして、――けど直前でふと気がつく。
(も、しかして――)
 脳裏に浮かぶそれは暗い想像、不安な予想。
 そんなはずがない、そんなはずであってほしくない。そう思うのに、一度気がついてしまえば、想像は現実に、予想は確信に変わっていく。ただの勘違いだ、ただ思いこみだ。そんなふうに切り捨てることはできない。

 もしかして――もしかして、お前がそんな顔をするのは、全部、全部――。
(――おれ、のせい、なのか……? エルヴィン)

 認めた瞬間、全身から力が抜けていくのを感じた。座りこんでしまわなかったことが不思議なくらいの虚脱感。だらり、と力の抜けきった腕が身体の横に落ちる。その拍子に手首に引っかけていた金魚の袋が地面へと落下してしまった。だが、リヴァイにそれを気にするだけの余裕は残っていなかった。されるがまま、エレンに腕を引かれる。
 離れていくエルヴィンとの距離。リヴァイははっきりとしない意識のままエルヴィンを見つめていたが、エルヴィンはその場に立ち尽くしたまま、追いかけてくることはおろか、引き止めの言葉を投げかけてくれる様子もない。それがすべての答えなのだろうか。
 リヴァイが自失している間も、エレンはどんどんと歩みを進めていく。そうやって、リヴァイとエルヴィンの距離は離れつづけ、互いの姿はいつしか夜の暗闇へと混じり消えていってしまった。
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