06


 焦げた臭いに混じって血の臭いがしてきていた。嫌なその臭いは、同時に妙に身に馴染んでしまった臭いでもある。だが、その実、気分はそう悪いものではなかった。指先一つ動かすことすらひどく労力を使わざるを得ないほどに身体は重いのに、胸の奥がとても軽い。
 ただ一つ心残りがあるとしたら――。

『リヴァイ……ッ』
 声が聞こえた。すぐに力強い手が肩を抱いてきて、あたたかな温度が伝わってくる。場違いにも心地いい、馴染んだ温度だ。
『リヴァイ、しっかりしろッ』
 焦りに満ちた声が呼んでくる。
 早く返事をしてやらないと。そう思って痛む喉を震わせて声を出す。
『……だ、い、じょうぶ、だ……、』
 重たい手を精いっぱい伸ばしてその頬に触れた。大丈夫。大丈夫だ。心配はいらない。だって、もう終わったんだ。やっと、終わった。だから、もうお前がそんな表情をする必要はない。なぁ、そうだろ?
『――エル、ヴィン』


「っ…………」
 ぱっ、と視界が開けた。
 真っ白な天井が目に映る。見慣れた部屋の天井だ。
「ぇ、るびん……?」
 自分の声で目が覚めた、ような気がした。あの時と同じ目覚め。
 思わず名を呼びながら横を見るが、そこにあるのはやはり見慣れた無地の壁紙だ。温かく包んでくれる腕も、眩しい金色も、優しい空色の眼差しも、どこにもありはしない。一人っきりの目覚め。当然だ。だってもう、リヴァイの傍にエルヴィンはいない。
「…………」
 落胆に肩を落とすのも、ため息をつくことも馬鹿らしい。なんて愚かな目覚めだろうか。
 のろのろと失意のままリヴァイはベッドから身を起こす。顔をあげれば、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。

 そういえば、なにか夢を見ていたような気がする。ふとリヴァイは気がついた。どんな夢か。正確には覚えてはいない。脳裏に残っているのはおぼろげで不安定な記憶の身。ただ一つ覚えているとしたら――。
「エル、ヴィン……」
 たしか、その名を夢の中でも呼んでいたような気がする。
 しかし、だからどうしたというのだろう。夢は夢だ。いくら夢の中でエルヴィンに名を呼ばれ、エルヴィンの名を呼び返したところで、現実にはなにもありはしない。わかりきったこと。
「…………」
 リヴァイは零れそうになるため息をぐっと飲み込んだ。そして、寝起きで乱れている髪を撫でつけると、静かにベッドを脱け出した。


 洗面所で顔を洗う。冷たい水に意識がはっきりとすれば、きっとばかな考えなどもう浮かばないはずだ。そんな風に思いながら、洗った顔をタオルにぎゅっと押しつける。
 顔をあげれば、鏡の中の自分と目が合った。われながら無愛想な表情。少し目元が暗いだろうか。思わず指先で撫でてみるが、消えるはずもない。そのまま無意識のうちに手を滑らせて頬に触れてみる。そこは相変わらず剃る必要のないつるりとした感触をしていて、リヴァイはぎゅっと眉間に皺を寄せた。くだらない。すごく、すごくくだらない。いつまで寝ぼけているつもりなんだろうか。
「なにをしてるんだ? リヴァイ」
 憎々しげに鏡の自分を睨んでいると、声と共に鏡にグンタの姿が横から映りこんできた。びくっ、と小さく肩を揺らしながらリヴァイは振り返る。悪い驚かしたか?と笑い交じりに謝るグンタは、またネクタイは付けていないYシャツ姿で、その顎には薄らと髭が生えている。
「べつに……」
「? そうか」
「ん……」
 リヴァイはこくりと頷いて、グンタに場所を譲った。譲られたグンタは、リヴァイと同じように顔を洗うと、次に白いあわあわを顎につけはじめた。エルヴィンもつけていたあわあわだ。
「なぁ……」
 リヴァイはその姿をしばらく見つめて、思わず声をかけた。グンタは剃刀を顎に当てながら、鏡越しに目を合わせてくれた。
「ん? なんだ」
「……ひげ」
「ひげ?」
「……グンタは、いつごろ髭が生えるようになったんだ?」
「ひげ、髭? ん〜、そうだなぁ、今のリヴァイくらいだったかな。少なくとも高校に入る頃には、毎朝剃ってた気がするな」
「……そうか、」
 グンタの答えに、ちょっぴりリヴァイは肩を落とした。
「どうした? 急に髭なんて」
「いや、ただ、なんとなく……」
「なんだぁ、もしかしてリヴァイ、髭が欲しいのか?」
 グンタの声は、少しからかいの混じった色をしていた。そんな兄にリヴァイはちょっとむっとしながら、ふるふると首を振った。
「そんなんじゃない」
 髭なんて欲しいなんて思わない。ただ本当に、なんとなく気になっただけだ。
「リヴァイは今のままで十分かっこいいし可愛いぞ」
 だから髭なんていらないさ、とグンタは笑う。弟の目から見ても兄馬鹿全開だ。
 リヴァイは今のままで十分だと言われて嬉しいような恥ずかしいような、それでいて、可愛いと言われてムカつくような悔しいような思いで、むぅと兄を見返した。
「べつに、可愛くなんてなくていい」
 結局それだけ言い返して、リヴァイは頬をつついて来ようとする兄の指を避けると、そそくさと洗面所を後にした。


「おはよう、リヴァイ」
 ダイニングに行くと、オープンキッチンでペトラが目玉焼きを焼いているところだった。料理はグンタの専売特許だが、朝食を作るのは主にペトラの仕事だ。グンタほど凝ってはいないが、ペトラの約目玉焼きは黄身の焼き具合がいつだってちょうどいい。
「おはよう……」
「もうすぐ出来るからね、ちょっと待ってて」
「ん……」
 頷きながらリヴァイは冷蔵庫から牛乳を取りだし、すでにテーブルに用意されたそれぞれのコップに注ぐ。一杯、自分だけ一足先に飲み干してから牛乳を冷蔵庫に戻したところで、くせ毛を散らしたオルオが姿を現した。
「おはよう……」
「おぉ、おはようリヴァイ」
 ふわぁあ、と大きくあくびをしながらオルオは椅子に腰を下ろす。そのあくびにつられそうになりながら、リヴァイもオルオの隣の椅子に座った。
「おー、今日もいいにおいだなー」
 すぐに髭を剃り終えたグンタもやってきて、リヴァイの向かいに座る。
 四日ぶりの家族との食卓。それはなんだか少し懐かしい光景で、しばらくリヴァイはぼんやりと兄二人の姿を見つめた。
「おまたせー」
 それからすぐに、ペトラはフライパンとフライ返しを手にやってきた。できたよー、と言葉とともにそれぞれの皿の上に目玉焼きを置く。黄身がぷるぷるとした美味しそうな半熟目玉焼きだ。
「じゃあ、食べよっか。いただきまーす」
 そしてフライパンをキッチンに戻してから、最後にペトラが席に着く。待ってましたと言わんばかりに、グンタもオルオもいただきますと食事に手をつける中、あれ、とリヴァイは一人首をかしげた。
「エルドは……?」
「あいつならまだ寝てるぞ」
「起こしてくるか?」
「あぁ、いいのよ」
「でも……」
 朝食は家族全員で取る。絶対の決まりごとではないが、それがこの家のいつもだったから、やけに素っ気なく首を振るペトラにリヴァイはさらに首をかしげた。
「エルド兄さんったら、リヴァイが留守にした次の朝から、リヴァイがいないなら俺も朝はいいや、って寝たまんまなの」
「まだエルドの奴はリヴァイが帰ってきたって知らないからな、今もぐっすりだろ」
 次兄エルドの仕事はバーテンダーだ。夕方ごろ家を出て夜中過ぎに帰ってくるエルドは、皆とは生活リズムが違う。そのため、下手すると何日も顔を合わせない日が続くのを防ぐために、朝食時には一度起きて顔を出していた。だが、ここ数日はそうではなかったらしい。
 そういえば、昨晩帰ってきたリヴァイはまだエルドとだけは顔を合わせていなかった。話しぶりから、グンタたちがエルドに知らせている様子もなく、きっと今もリヴァイの帰宅は知らないままなのだろう。
「やっぱり、起こしてくるか……?」
 朝食に起きてこない理由が自分がいないからなんて、またしても突きつけられたもう一人の兄馬鹿っぷりに、嬉しいやら照れくさいやらでぎゅっと眉間に皺をよせながら、リヴァイは再び尋ねた。半分は、自分のせいでいつもの習慣を崩してしまった申し訳なさ。もう半分は、たぶん、恋しさのようなもの。

 思えば、今まで何日も兄姉たちと離れたことなどなかった。リヴァイの毎日はいつだって兄姉らとともにあった。仕事の都合だったり友人との旅行だったりで、誰か一人と顔を合わせないことはあっても、毎日家族の誰かがリヴァイのすぐそばにいてくれた。
 リヴァイは、今さらながら何日も兄姉たちと離れて過ごしていたのだと実感した。すると不思議なことに、いま兄姉たちはリヴァイのすぐ傍にいるというのに、兄姉らに対する恋しさのようなものがむくむくと胸の奥で形作られていく。
『リヴァイ、お前はちゃんと彼らのことを愛せているよ』
 いつかのエルヴィンの言葉を思い出す。その言葉の意味を、いまひしひしと強く感じた。

「いいのよいいのよ、ほら、冷めちゃうから早く食べちゃいなさい」
 ペトラは椅子から立ちあがろうとするリヴァイを制して、苺ジャムの塗られたトーストをぱくりと口にする。
「ふっ、兄貴の悔しがる顔が目に浮かぶな」
「リヴァイがいないとは言え、家族団欒をないがしろにしたんだ、まぁ自業自得だろう」
 そうだ自業自得、自業自得、とグンタとオルオは頷きあう。なぜだか、ちょった楽しそうだ。リヴァイはしばらく悩んだが、まぁ今じゃなくてもすぐに会えるか、と浮かしかけた腰を下ろした。
「いただきます」
 口にして、さっそく目玉焼きを口にする。とろりとしてそれは、リヴァイが焦がした目玉焼きとは比べものにならないくらい美味しかった。
(なのに、エルヴィンは、美味しいと言ってくれた……)
 あんな、焼きすぎて硬く焦げてしまった目玉焼きを、エルヴィンは――。
「っ……、」
 リヴァイはすぐにはっとした。またエルヴィンのことを考えていた。
 兄姉が恋しい。けどエルヴィンも恋しいだなんて、とんだ我儘だ……。


 一人の兄を除いた朝食は、それでもいつもと似たようなにぎやかな朝食だった。いや、むしろ久しぶりだったせいか、いつもより騒がしいほどであった。あんなことがあったこんなことがあったとオルオが大声でしゃべって、そんなオルオにペトラが文句を言い、グンタがさらにペトラを注意する。かと思えば、今度はそのグンタああだこうだと口を開き、同じようにペトラに文句を言われてた。
 そんな調子で、あっという間に朝食の時間は終わって、兄姉たちが家を出る時間になった。
「それじゃあ、行ってくる。戸締りちゃんとするんだぞ」
「海、気をつけていってくるのよ?」
「なにかあったらまたこのオルオ兄さんに電話するんだぞ!」
 グンタ、ペトラ、オルオが順番に言う。過保護気味な言葉。それすらも懐かしく恋しい。
「ん、いってらっしゃい」
 リヴァイは頷いて、ひらひらと手を振りながら一斉に家を出る兄姉たちを見送る。どうやら、恋しい、と思っているのは兄姉たちも同じなようで、兄姉たちは最後の最後まで名残惜しそうな表情を見せながら、グンタは会社、ペトラは部活、オルオは大学へとそれぞれ家を後にした。

「さてと、」
 兄姉たちを見送り、さらに朝食分の皿洗いを終えたリヴァイはリビングのソファに腰をおろし、どうしようかと首をかしげた。今日はエレンたちと海に行く予定だ。しかし、エレンが迎えに来る昼まではまだしばらく時間がある。
 夏休みの宿題でも終わらせておくか。そう思いながらも、面倒な気もしてぼんやりと天井を見あげた。兄姉たちが居なくなって、部屋はしんとしている。
、ふと思いつく。
(そうだ、掃除をしよう……!)
 四日も兄姉たちと別れたのも初めてなら、四日も家の掃除をしないままでいたのも初めてだ。たった数日程度で目に見えてなにかが汚れているわけではないが、一度思い立ったらもうそれ以外選択肢はなかった。
「よしっ、」
 リヴァイは座ったばかりのソファから立ちあがると、いそいそと愛用の掃除機を取りに行った。

 ぱちっ、とスイッチを入れた途端、愛機は大きな音を立ててごみを吸い込みはじめる。少し型の古い愛機は音こそはうるさいが吸引性はばっちりで、リヴァイのお気に入りだ。
 ごぉー、ごぉー。そのうるさい音すらも、どこか懐かしく思いながら、隅から隅まで掃除機をかけていく。ごぉー、ごぉー。丁寧に、リズミカルにごぉー、ごぉー。
「…………?」
 しかし途中でリヴァイは手を止めた。うるさい掃除機の音に混じって、ふいになにか音が聞こえた気がしたからだ。
 リヴァイは掃除機のスイッチを切って耳を澄ませる。すると、どたっ、と重たい音が上のほうから聞こえてきた。かと思えば、がっ、ばたん……だんだんだんだんっ、と大きな音がさらに続く。その音は2階から徐々に1階のこのリビングのほうへと近づいてきていた。
「リヴァイッ!?」
 大きな声とともにがちゃっ、と乱暴にリビングの扉を開けたのは、寝ているはずの次兄エルドだった。ぼさぼさの頭によれよれの寝間着姿は見るからに起きたばかりだ。きっと掃除機のうるささで目が覚めたのだろう。
「あぁ、エルド、わる――っ」
 だから謝ろうとリヴァイは口を開いたが、わるい、と言おうとしたはずの言葉は最後まで口にすることはできなかった。なぜなら、エルドがすぐさまリヴァイの元まで近づいてきたかと思えば、がばっ、と力強く抱きしめてきたからだ。
「リヴァイ〜、お前帰ってたのかよぉ!!」
「ぅぐ、あ、あぁ、昨日の夜にっ」
「まじで! じゃあ、まさか今日の朝食は!?」
「さっき、食べ、た」
「なんで! なんで起こさなかったんだよ!!」
「グンタたちが、起こさなくても、いいって……」
「ぐぐ、ず、ずりぃ……っ」
「そ、れより、くるしい……」
 リヴァイはぎゅうぎゅうと力を込めてくる腕をタップした。そうすれば、エルドははっとしたように力を抜く。
「あー、けど、よかったー。ちゃんと帰ってきたんだなぁリヴァイ〜」
 力は抜けたが抱きしめた腕自体は離すことなく、エルドはソファに座りこんだ。そのまま、膝の上にリヴァイをのせて、苦しくない程度の力でぎゅうっと抱きしめてきた。
 中学に上がって、リヴァイ自身は少しずつ子どもの域を脱していっているつもりなのだが、兄にとってはやはりまだまだ子どもでしかないようだ。ゆえに、心配も一入なのだろう。よかった、あーほんとによかった、となんどもくり返す。
「いきなりだったから心配したんだぞ」
「ん……わるかった」
 しゅん、とリヴァイは項垂れた。その頭をエルドは小さな子供を相手にするように撫でくる。いつもなら、やめろと言って振り払うそれをリヴァイは甘んじて受け入れた。
「どこに行ってたんだ?」
「……エ、レンのとこ」
「そうか……、まぁ、友だちと遊びたい気持ちはわかるが、次からはもっと早いうちに知らせてくれよ?」
「ん、わかった……ほんとに、わるかった」
「わかればいいんだ、リヴァイ」
 もう一度謝れば、エルドはあっさりと機嫌を治して、にこにことリヴァイの頭をさらに撫でてきた。
「ちゃんと飯食ったか? 枕変わってもしっかり寝られたか? エレンと一緒だからって夜更かししてゲームでもしてなかっただろうな?」
「大丈夫だ、ちゃんと食べてたしちゃんと寝てた」
「そうかそうか、リヴァイはやっぱりいい子だなー」
「……さすがに、子ども扱いしすぎだ」
「しょうがないだろー、なんてったって四日ぶりなんだからよ」
 それを言われてしまうと、文句を言いにくくなってしまう。
 ぐぬぬ、と黙りこむと、エルドは更にぐりぐりと頭を撫でてくる。だがまぁ、しばらくは仕方がないか、とリヴァイは大人しくされるがままに、ぐらぐらと頭を揺らした。

「よし、リヴァイ。久しぶりに兄ちゃんと一緒にどっか行くか?」
 ぐんぐんと機嫌をよくしたエルドが、明るい声で提案してくる。
「仕事は?」
「今日は休み。マスターの子どもも夏休みだから、早いうちに海に行くんだってよ」
「そうか……」
 けど、だめだ。リヴァイはすぐに首を振った。
「今日は、俺も昼からエレンたちと海に行く」
「ははっ、さっそくか」
 面識自体は多くないが、リヴァイを通してエレンの海好きを知っていたエルドは笑う。
「送ってくか?」
「いや、エレンが迎えに来るから、平気だ」
「そうか、気をつけて行ってくるんだぞ?」
「ん」
「よしよし……あっ」
 こくこくとリヴァイが頷くと、エルドはなにかに気がついたように声をあげた。
「? どうした」
「いや、ちょっと待ってろリヴァイ」
 そう言ってエルドはリヴァイをソファへとおろすと、そのまま立ち上がってリビングを出て行った。なんだろうか。首をかしげながらも、リヴァイは言われるがままソファに座ってエルドを待った。

「リヴァイっ」
 エルドはすぐに帰ってきた。ぴったりとリヴァイのすぐ横に座ったエルドのその手には、なにかが握られている。携帯電話と同じくらいの大きさのそれには、読み取れないなにかが書いてある。
「なんだ、それ」
「日焼け止めだよ、日焼け止め」
「日焼け止め……?」
「あぁ、お前この時期になるとすーぐ真っ赤にさせてるだろ」
 小さいころから日差しにはあまり強くないリヴァイは、夏の海だったり川だったり長時間外に出ているとあっという間に肌が真っ赤になってしまう。だから、夏の外出にはいつも日焼け止めが欠かせなかった。
「けど、まだ前のが残ってる」
「あー……、それって去年お前が自分で買ったやつだろ?」
「あぁ」
「だめだだめだっ、リヴァイお前、てきとーに安い日焼け止め買っただろ?それで、けっきょく去年は顔も腕も真っ赤にさせてただろうが」
 いつもはリヴァイはペトラが使っている日焼け止めを一緒に使わせてもらっていたのだが、去年は中学に上がったこともあって、自分のものは自分でしっかり揃えようとリヴァイは自分の小遣いで日焼け止めを買ったのだ。しかし、肌に合わなかったのか単に粗悪品だったのか、エルドの言うとおり確かに去年の夏は少し肌を赤くしてしまった。
「……けど、つかわねぇともったいないだろ」
「だーめーだ、あんなの使わせられない」
 だからこれだ、とエルドは手にした日焼け止めをリヴァイに差しだす。
「これな、海外のやつなんだが効果があってその上肌にもやさしいって評判なんだってよ」
「なんか……、高そうだ」
「そりゃあ、まぁ、お前が適当に買った薬局の日焼け止めよりはな」
「やっぱり、高いのか……」
「なんだ、値段を気にしてんのか?」
「まぁ……」
 海外の日焼け止めだと言うそれは薬局で買ったものと比べて随分と高級感があった。日焼け止めに金をかける意識がないリヴァイは、その高級感に少し気が引けてしまっていた。
「買い直すにしても、わざわざそんな高いやつじゃなくてかまわねぇのに……」
「大丈夫だって! そもそもこの日焼け止めな、バーのお客さんに教えてもらったんだ。んでよ、まとめて買うと安くなるらしくってさ、そのお客さん、いつも友達の分と一緒にまとめ買いしてるって言うからついでに俺の分もお願いしてもらったのさ」
 言いながら、エルドはリヴァイの肩に腕を回してぐいと身体を引き寄せた。
「だからお前が思ってるほど金はかかっちゃいないって」
「……そう、か?」
「そうそう、だから気にすんなって」
「…………」
「なっ、リヴァイ」
「……ん、わかった……エルド、わ――」
 ――わるいな。
 リヴァイはそう言おうとした。だって、兄にわざわざ手間をかけさせてしまった。そのうえ、こんな高いものまで買わせてしまった。だから、謝ろうとした。けれど、すぐにはっとしてリヴァイは口を噤んだ。

 脳裏に、またしても彼の声が蘇る。
『私はリヴァイに喜んでほしかっただけで、謝ってほしくてそれを買ったわけではないぞ』
 屋台でたこ焼きを買ってくれた時、彼はそう言っていた。少し、怒ったような表情。

 そうだ。ここで謝罪の言葉を口にするのは、あの時と一緒で、エルヴィンの好意を否定しているも同然ではないか。
 気がついたリヴァイはぐぐっ、とさらに唇をきつく引き結んだ。ごくりと言おうとしていた言葉を飲み込んで、かわりの言葉を考える。言葉はすぐに浮かんできた。ただ少し、心臓がどきどきとする。それでも、その言葉を音にしない選択肢はない。
 リヴァイはぱっと顔をあげてエルドの顔を見た。そして、意を決して言った。
「その、ありがとう……エルド、に、ぃさん」
 言い慣れない言葉に、声が詰まった。なんて不格好な礼の仕方だろう。
 リヴァイは、すぐにいたたまれなくなって俯いた。急な兄さん呼びにエルドはどう思っただろうか。ちいさな不安が胸に浮かぶ。と、ふいに頭にぽんと手のひらを置かれた。
「おう、どういたしまして」
 優しい声だ。またすぐに顔をあげれば、リヴァイの不安に反してエルドは兄さん呼びを訝しむわけでもなく、とても嬉しそうな表情をしていた。
「ちゃーんとしっかり塗るんだぞ?」
「……ん」
「なんだったら兄ちゃんが塗ってやろうか?」
「いい、自分で塗れる」
「そうか……じゃあ、宿題はどうだ?あるんだろ? 兄ちゃん手伝ってやるぞ?」
「いいっ、そこまで子ども扱いするなっ」
 ふいっ、とリヴァイはエルドから顔を背けた。言ってる事とは裏腹なその子供っぽい仕草に、エルドが笑う。そんなエルドを横目で見て、リヴァイもちょっと笑った。

(エルヴィン、お前の声が、お前の言葉が、やけにおれの中に残ってる)
(こんなんでおれは上手にお前を忘れられるだろうか……)
 きっとそれは、夏休みのたくさんの宿題よりも、難関で厄介な問題だった。
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