07 『リヴァイ』 低い声が呼ぶ。奥のほうまでじんわりと届くような、深い声。 『リヴァイ……、リヴァイ』 何度も繰り返されるその声を、ゆらゆらとした意識で聞いていた。呼び起こそうとして、それでいどこか遠慮の混じった優しい声だった。 深く心地のいいその音に、意識はとろとろと溶けていく。 このまま深い眠りについてしまいたい。あぁ、でもそれじゃあ、この心地のいい声が聞こえなくなってしまう。相反する思いに、意識は寝ているとも起きているとも言えぬまどろみの中にあった。 「おい、リヴァイ?」 しかし、すぐ近くではっきりと聞こえた声に、ぱっと目を開いた。 「っ……」 急激に意識を引っ張られ、びくっと頭を起こす。 「おはよう、リヴァイ」 すると、ふたたび低い声が名を呼んだ。 目の前には柔らかく微笑む男の顔。少し細められた目は晴れた空の色をしていた。ぼんやりとリヴァイはその空色を見つめながらぱちぱちと何度か瞬きをくり返す。そして気がつけば、反射的におはようと返していた。 「……寝てたか?」 「あぁ。珍しいな、お前がうたた寝とは」 言いながら男は柔らかな微笑みを太い眉を八の字にした心配そうなものへと変えた。 「疲れているのか?」 「いや、べつにいつも通りだ」 「そうか……。ちゃんと休めているんだろうな?」 「なんだ? ちょっとうたた寝したくらいで大げさなやつだな」 心配げに言葉をつづる男に、思わずふっと小さく笑う。 くすぐったい。けれど、悪くない。そんな感覚。 ちょっと照れくさく思いながらも、大丈夫だちゃんと休んでると答えれば、それなら良いんだがと男は再びその顔に微笑を浮かべた。 「お前は頑張り屋さんだからな、無茶してないか心配だ」 「頑張り屋さんって、お前なぁ……」 幼い子どもに向けるような男の言葉に、リヴァイは浮かべたばかりの笑みを引っ込め少し呆れた。確かに、リヴァイの身体は少年のように小柄だし、顔も歳の割には若いと言われるが、これでもいい年をした大人だ。「頑張り屋さん」なんて言葉、似合わないにもほどがあるだろう。 含みを込めて男を見る。すると、男はふとその大きな手のひらを伸ばしてきたかと思えばそのまま頬をするりと撫でてきた。 「無茶はするなよ、リヴァイ」 「……だから、大丈夫だと言っている」 「わかっている。けど、一応、な」 男は少しの空白を挟んでから更につづける。 「……心配くらいさせてくれ」 静かな声だった。 でも、それでいてとても強い意志の感じられる声でもあった。 リヴァイは改めて男の顔を見る。昨日よりも、目の下の隈が少し濃いだろうか。自分の顔にはもう当たり前も同然の隈だが、この男にはあまり似合わないものだ。疲れているのだろう。ちゃんと休めているのかと男はリヴァイを心配するが、リヴァイからしてみれば男の方こそしっかり休んでいるのか心配な所だ。 「……仕方ねぇな」 だからリヴァイは男の懇願に頷いてやった。 心配なんて必要ない。そんな気を回すぐらいなら、自分の身のほうを心配してやってほしい。けれど、その方が男の気が休まると言うのなら、好きにさせてやろう。そう思う。 「はは、ありがとう」 偉そうなリヴァイの返事に男は嬉しそうに笑った。きっと、無愛想な言葉の裏側にある真意を男はしっかりとくみ取ってくれたのだろう。すべてを言わなくてもわかる。もう、それほどの付き合いだ。 男の笑みに釣られてリヴァイもふたたび口元を緩めた。 「リヴァイ」 ゆるゆるとした空気が場を包む中、笑みを浮かべたまま男がなにか言葉を続ける。 「なんだ……?」 「――――――」 「…………?」 しかし、なぜかリヴァイの耳にはそれが届いていなかった。 男はすぐ目の前にいるというのに、あの低く聞き心地のいい声が聞こえない。いったい、なぜ。リヴァイは眉をひそめて首をかしげるが、今は「聞こえなかった原因」よりも「聞こえなかった声の内容」のほうが気になった。 「…………っ」 だから、もう一度言ってくれとそう聞き返そうとした。 それなのになぜか声はうまく口から出てくることはなかった。はくはくと口を動かし喉を震わすが、一向に声は音にならない。 「――――――」 「――――」 「――――――」 だというのに、どういうわけか男との会話は続く。 男の声は聞こえないのに、己の声は出ないのに。 なにが起こっているのか。疑問と困惑に、緩み切っていた気は瞬く間に混乱へと支配される。 「――」 「―――――」 混乱をよそに、会話はさらに続く。 「――――」 「―――――――」 「――」 「――」 「――――ー」 リヴァイはすっかり置いてけぼりだ。 目の前で男が微笑む。好いているはずの微笑み。だが、聞こえぬ会話に混乱を通り越して、リヴァイの胸にはやつあたり交じりのいら立ちが募り始めていた。今この瞬間に身体の自由が戻ったのなら、人の気も知らないでなにをのんきに笑っていやがると、脛あたりでも思いっきり蹴り上げてやりたい。そんなことを思った。 ――その時だ。 「――リヴァイ?」 突然、無音だった世界に声が届いた。 はっきりと耳に届いた声。 聞き慣れているその声は、しかしあの男のものではない。男の低い声ではなく、まだ少し高さの残った子どもの声。それは……。 「リヴァイ?」 もう一度名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。するとすぐ真正面にエレンの姿があった。その左右にはアルミンとミカサの姿。三人そろって、どこか訝しげな表情を浮かべている。 「……なんだ?」 これは、いったいどういう状況だろうか。 わからないなりに、咄嗟になんでもない風を装って答えた。ぱちぱちと何度か瞬きをしてからこっそりと手元を見れば、机の上には見覚えのあるプリントが数枚広がっている。 (あぁ、そうだ……) いくつもの式が書かれているそのプリントを見て、すぐに思いだした。自分は今、エレンたちと一緒に夏休みの宿題をしているところだったのだと。 「どうかしたのか? さっきからずっとぼーっとしてたぞ?」 エレンが尋ねる。眉尻の下がった、あの男が浮かべていた表情と似た心配げな表情。だが、違う。目の前にいるのはあの男ではない。 「……いや、なんでもない」 意識しながら、リヴァイはふるふると首を振った。 「ただちょっと眠かっただけだ」 混乱しそうになる頭を制して、余計な心配をかけまいと誤魔化す。寝起きのせいか少しくらりときたが、それは一瞬。リヴァイは顔を上げて、しっかりと3人の顔を見返した。 「でも、ちょっと顔色悪いよ。もしかして具合悪い?」 「……たいしたことないが、最近暑いからな」 アルミンに聞かれ、さらに誤魔化した。だが、それはまるっきりの嘘と言うわけでもない。日ごとに太陽の距離が近づいているのではないかと感じてしまうほどに暑い日々が続いており、夜もむしむしと暑く寝苦しい。 「あぁ、リヴァイ暑いの苦手だもんね」 「私も、苦手……」 「僕も得意じゃないなぁ。やっぱ夜は寝苦しいよね」 「そうかぁ?」 リヴァイの誤魔化しをすんなり受け入れてくれたアルミンとミカサが同調する中、エレンだけが首をかしげた。 「エレンは昔っからそうだよね。夏も元気いっぱい」 「うん、エレンらしい……」 「……それって褒めてんのか?」 「うぅ〜ん、褒めてるわけじゃないけど、羨ましくはあるかな?」 「なんだよ、それ」 そんなんで羨ましがられてもなんか全然嬉しくない、とエレンはふて腐れるように口をへの字に結び、そのまま3人はやいのやいのと冗談交じりの言いあいを続けた。咄嗟の誤魔化しだったが、うまくいったらしい。3人の声を片隅に聞きながら、リヴァイはこっそりと息をついた。 余計な口をはさんでぼろが出ぬよう、リヴァイは3人の声を聞くだけにとどめ放置していたプリントに向き直った。転がっていたシャーペンを手にし直し、数字の羅列を見つめる。だがその実、意識はまだしっかりと引き戻せないでいた。 (また、夢を見た) ぼんやりと思いだすのは、先ほど見た“夢”。 最近、リヴァイは夢を見る。 それは夢と言うには、はっきりとした感触まで感じる、現実のような夢。 エレンたちには暑くて眠れないと誤魔化したが、違う。夜は確かに暑くて寝苦しいが、それでもリヴァイは毎夜いつも眠っている。眠って、夢を見ている。それどころか、起きているはずの瞬間すら、ふと夢を見ることがあった。 不思議な夢だ。起きているのに夢を見ると言う時点で不可思議であるが、さらに不思議なことに、それらの夢は内容が繋がっていると思われるものばかりであった。 まず、決まってリヴァイが登場し、リヴァイ自身の目線で夢は進んでいく。時代は現代ではなく昔なのだろうか。夢のリヴァイはよく掃除や洗濯をしていたが、掃除機や洗濯機はないようであり、建物も少々古臭さを感じさせるものばかりであった。 自分も含めて多くの人たちが制服のような同じ衣装を身に着けており、どうやら生活を共にしているように思える。なんの集まりなのかはわからなかったが、年下が多いのか、たいていの人間はリヴァイに敬語を使っていた気がする。 そして、それらの夢に必ずと言っていいほど出てくる男が一人いた。見間違えるはずがない。見上げるほど高い長身、遠目からでもすぐにわかる金髪、鼓膜に静かに響く低い声、優しげに見つめてくる空色の目。さっきの夢にも出てきた男。 (エルヴィン……) そう、あの男の姿は紛れもなくエルヴィンのものであった。 リヴァイの記憶に残っている姿よりも、ほんの少し歳を取っているだろうか。どことなく研ぎ澄まされた鋭い雰囲気をしていたが、確かにあれはエルヴィンだった。 「…………」 無言のまま、頬に手を当てる。夢の中で、エルヴィンが撫でた頬。 まさか、エルヴィンへの未練が、こんな変な夢を見させているのだろうか。だとしたら、最悪だ。自身で出した予想にリヴァイは頬に手を当てたまま眉間に皺を寄せて顔をしかめた。なんて女々しい原因だろうか。 しかし、それにしては世界の設定がなんとも特殊であった。エルヴィンへの未練から夢を見ると言うなら、その夢はエルヴィンと過ごした日々の続きであるべきではないだろうか。それなのに、実際に見たのは見知らぬ世界観の夢だ。リヴァイは首をかしげる。 (なんなんだ、いったい……) わけがわからない。はぁ、とため息をついた。見つめるだけ見つめてけっきょく全然進めていないプリントから早々に目を逸らして、窓から外を見る。そうすれば、窓越しに青い空が覗いて見えた。夢で見た、エルヴィンの瞳の色だ。 「…………」 ただの空にすら、エルヴィンの面影を重ねてしまっている。 そんな自分自身を、リヴァイは自覚している。 はじめは辛くとも、日が経てば否が応でも忘れられると思っていた。けれど、実際には日が経てば経つほどに夢を見て、その夢が重なるほどにエルヴィンの存在が色濃く忘れられないまま胸の深いところへと残る。 それは良いことなのか、悪いことなのか、リヴァイにはわからなかった。「忘れなければ」と義務のように思ってはいても、「忘れてしまいたい」とは思っていないから。ただ、夢を見るたびに胸の奥がぎゅっとする。痛いような、苦しいような、寂しいような、それでいてどこか恋しいような、ぎゅっとした感覚だった。 |
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