近所を適当にぐるりと一周して、最後に近くのおおきな公園内を突っきって家に帰る。
 それが普段のエルヴィンたちの散歩コース(夕方ver)だ。

 今日もかわりなく、いつもの公園にモーゼスは足を踏みいれて、エルヴィンたちもまた彼の横に並んでともに公園内へと足をすすめた。見飽きるほどに見慣れた公園は、しかし身も凍るような寒さにくわえ、日が日なだけあってかいつもはちらほらと見かける子供の姿がすっかりと消えて人気というものがまったくなかった。
 人気がないとき、たまにモーゼスはこっそりとエルヴィンたちのリードを外して公園内を好きに散策させてくれることがあるのだが、今日はもうまっすぐ家に帰るらしい。身を縮こませながら、ずりずりと足をするようにだらしなく歩みを進める。そんなモーゼスにエルヴィンたちはいつもの探索もおざなりに大人しくついていく。人間にくらべて寒さには強いが、やっぱり寒いものは寒いものだ。ストーブのあたたかさが恋しかった。

 しかし園内の中央付近で、ふいにエルヴィンが足をとめた。

『?どうしたの、エルヴィン』
 釣られて立ちどまったハンジがたずね、ミケもまた立ちどまってエルヴィンを見た。
『いま、なにか声が聞こえなかっただろうか』
『こえ?』
『あぁ、小さな声だ』
 そう言って、エルヴィンはきょろきょろと辺りを見渡す。またも釣られて、ハンジもきょろきょろと辺りを見渡してみた。が、相変わらず周囲に人気はおらず、エルヴィンの言う声とやらも聞こえはしなかった。
『べつに、なんも聞こえないけど?』
 ねぇ、とミケを見ると、彼は無言でうなづく。
『気のせいじゃない?』
『いや、しかし……いま確かに、』
『じゃあ、どっかの家からの声とかじゃないの?』
 園内に人の姿はないが、近くには一軒家が多く建っている。そこから聞こえた人間の声じゃないのかとハンジは推測してみせたが、いや、とエルヴィンは否定した。
『人間の声ではなかった…』
『え〜、じゃあなんの声?』
『わからない……すまないが、ちょっと静かにしてもらえるか?』
『はいは〜い』
 ハンジは後ろ足で首筋をかきながら適当に返事をかえすと、大人しく口を噤んだ。
 あちこちと身体の向きを変えながら、エルヴィンは耳を澄ませる。ハンジから見たエルヴィンのその表情は、テレビ越しに見かけた仕事中の警察犬にも負けず劣らずの真剣さだ。
 なんだか珍しいな、とハンジは思う。

「おーい、そろそろ行くぞー」
 少しして、モーゼスから声がかかった。急に立ちどまった飼い犬たちをさして気にせず待っていたようだったが、いい加減痺れをきらしたのだろう。エルヴィーン、ハンジー、ミケーとおのおのの名前を呼びながら、くいくい、と軽い仕草でリードを引っぱってくる。
『残念エルヴィン、時間切れ。もう行くってさ〜』
 ハンジがモーゼスにともなってエルヴィンをうながす。
 だが、エルヴィンは返事をすることなく、相変わらず辺りをきょろきょろと見渡していた。エルヴィンってば、ともう一度名前を読んでみても反応すら返そうとはしない。
 ハンジはそんなエルヴィンの姿に、やっぱり珍しいな、と思った。普段、遊び足りない散歩し足りないと駄々をこねるのはおもにハンジの役割であり、エルヴィンはいつだってそれを諌めるほうであるはずだったのに、いったいどうしたことだろう。
『なぁに、そんなに声が気になるの?』
 でも、ハンジにはそんな声は聞こえなかった。
 聴覚では垂れ耳であるエルヴィンよりも半立耳であるハンジのほうが若干の分がある。しかし、いくら耳を澄ませてみてもハンジの耳にはびゅうびゅうと冷たい風が吹く音か、モーゼスがずるずると鼻をすする音くらいしか聞こえてこない。
 やっぱりなんかの気のせいじゃないの?ともう一度言ってみるが、いや、とエルヴィンはそれを否定する。
『やはり、声が聞こえる……こっちだ!』
 言うやいなやエルヴィンは、だっ、と唐突に駆け出した。

「うをっ!?なっ、ちょっ、エルヴィン!?」
『ちょっ、エルヴィン!?』
 いきなりのことにモーゼスはエルヴィンのリードを手放し、ハンジは真ん丸と目を見開いた。だが、エルヴィンはそんな彼らを気にとめることなく走っていく。
 モーゼスとハンジは遠ざかっていく金色を呆然と見送った。
 あとを追おうとはしない。
 なぜなら、三匹の中でもいっとう賢く聞き分けのいいエルヴィンの突然の行動に、なにが起こったのか、状況を正確に理解しきれていなかったからだ。
 しかし、硬直してしまったそんな空気の中でミケだけがいつものように、すん、静かに鼻を鳴らした。そして、おや、と首を傾げたのちに誰とはなしにぽつりと呟く。
『これは、血のにおい、だな……』



◇  ◇  ◇



 エルヴィンは走った。
 モーゼスたちの声を無視して、滅多にないくらいに全力で走った。
 頼りは、途切れ途切れに聞こえたちいさなちいさな声。
 聞き逃してはならない。無視してはならない。そう思った。

 エルヴィンは走り続ける。
 途中で、ミケが気がついたようにエルヴィンもまた血のにおいに気がついた。同時に、そのにおいが声が聞こえた方向と一致していることにも気がつき、エルヴィンは聞こえた声から、血のにおいに頼りを変えた。
 そうして走りに走り続けてどりついた先は、大きな公園のすみっこにある水飲み場だった。その水飲み場近くにふたつ並んだ白いベンチの後ろ。緑が生い茂った植え込みの中から、場違いな深い血のにおいがしている。
 エルヴィンは身をかがめて、植え込みの中を覗きこんだ。しかしあいにくと日の落ちはじめた植え込みの中は暗く、なにがどうなっているのかはあまりよくわからなかった。
『誰かいるのか?』
 声をかける。だが、返事は帰ってこなかった。それどころか、途切れ途切れに聞こえていたはずの声が一切しなくなっていた。
 その事実に、どくどくと心臓が波打つように焦燥が募る。

 決断は早かった。
 エルヴィンは腹這いになりながらすぐに植え込みの中へと飛び込んだ。迷う素振りもなければ毛が土で汚れることもこれっぽっちだって気にしない。
 ただただ、血のにおいだけを頼りにがさがさと音をたてながらエルヴィンは突き進んだ。次第に色濃くなるにおいに、じょじょにその血の持ち主そのもののにおいが混じっていく。
 腹ばいになっているせいで、思うようにスピードが出ないのがもどかしい。それでも、やがて大きな植木をひとつ越えた先に、ちいさな黒い塊がぽつりと落ちているのが見えた。
 それがいったいなんなのか。すぐにはわからなかったが、よくよく目を凝らして見てみると、それは黒い毛並みをした子猫のようだった。

『きみ、大丈夫かっ?』
 声をかけながら、慌てて駆け寄る。
 子猫は見るからに元気がない様子でぐったりとしていた。どうやら血のにおいの元はこの子猫のもので間違いないようで、丸まっている子猫の後ろ足あたりの毛に血がこびりついているのが目に映った。
 子猫の元、エルヴィンはその小さな身体を鼻先でそっとつついてみた。不安と祈り。胸の中でそのふたつが混ぜこぜになりながらも何度か繰り返していると、子猫はとてもゆっくりとだが両目を開けてくれた。真っ黒の毛並みの中、まるで夜空に浮かぶ月のような、そんな銀灰色の瞳がふたつが覗く。
(生きている!)
 エルヴィンはほっと息をつく。
 だが、そんなエルヴィンの気持ちとは裏腹に子猫はエルヴィンと目が合うと鼻にしわを寄せてフゥゥと威嚇の声を上げた。見知らぬ犬であるエルヴィンを警戒しているのだろう。背中の毛を逆立たせ、小さな身体を精一杯大きく見せようとする。
『怖がらなくても大丈夫だ、きみに危害を加えたりはしないよ』
 だからエルヴィンは安心させるように優しく声をかけた。
 顎を地面にぴたりとくっつけて、できるだけ視線を低く、子猫とあわせる。だが、子猫はフゥゥと威嚇を止めない。そればかりか、鼻っ先にぽかりと猫パンチを喰らわされた。
『いたッ!……すまない、驚かせてしまったね』
 反射的に声をあげてしまったが、エルヴィンはすぐにまた優しく声をかけた。
 ここでへたに大きな声をあげてしまったら、ただでさえ怯えている子猫をますます怖がらせてしまうことになるだろう。今はとりあえず、子猫の警戒をといてやることが大事だ。
『安心してくれ、本当に危害を加えるつもりはないんだ』
『後ろ脚を怪我しているね?ほかに怪我はないか?』
『あぁ、名乗るのが遅れてしまったね。私はエルヴィンという』
 フゥゥ、と威嚇を止めない子猫に、何度も語りかける。
 もしかしたら、まだ子猫だからエルヴィンの言葉はあまりうまく通じていないのかもしれない。それでも、エルヴィンは子猫に言葉を投げかけることをやめようとはしなかった。その合間、合間に何度か猫パンチが飛んできたが、やっぱりエルヴィンは諦めない。辛抱強く、根気強く、猫パンチに耐えながら子猫に話しかけ続けた。

 やがて、いくら叩かれても反撃しないエルヴィンに警戒を緩めたのか、それとも優しく語りかけた声が効いたのか、はたまたもうそこまでの体力が残っていないのか、子猫は手を上げることも威嚇の声を上げることもなくなった。
 ただ、銀灰色の瞳だけが油断なく、じっ、とこちらを見つめている。しかしそれも、何度も何度もまばたきを繰り返していて、目を開け続けていることが辛そうに見えた。
(だいぶ衰弱している……)
 はやく怪我の手当てをしなければ、このまま死んでしまうかもしれない。
 血がどんどんと流れてゆっくりと冷たくなっていく子猫の姿が脳裏を過ぎ、エルヴィンはたまらない気持になった。焦燥が、ますます募っていく。

 いまさっき出会ったばかりの子猫。
 一方的に声をかけるだけで、まともに会話なんてできなかった。
 猫パンチは、子猫の力とは言えなかなかに痛かった。
 身体だって、土で汚れて散々だ。
 しかしそれでも、もういいよ、と見切りをつける気にはなぜかなれなかった。
(だって、声が聞こえたんだ…)
 ハンジもミケも聞こえないと言っていた。けれど、確かに聞こえた声。
 あれはきっと、子猫が生きようとする声だった。
 その声をエルヴィンは聞いた。
 誰もが聞き逃した声をエルヴィン“だけ”が聞いた。
 そうして出会った黒い子猫。
 この目の前の子猫をエルヴィンは死なせたくない。
(死なせたく、ない……っ)
 エルヴィンはそう強く強く思う。

『君を助けたいんだ……、』
 思わず情けない声で言葉が零れた。けれど、それは紛れもないエルヴィンの本心であった。
 意識していないのに、くふん、と鼻が鳴る。するとその音に答えるようにして、ふいに子猫が、にゃあ、と鳴いた。たった一声。言葉にもなっていないただの鳴き声。
 はっ、として子猫を見つめる。子猫は変わらぬ銀灰色の目のこちらを見返していた。心なしか、先ほどと比べて警戒の色が薄くなっているような、そんな銀灰色。
 少しの間、呆然と子猫と見つめあう。そしてエルヴィンは、ぐっ、と表情を引き締め子猫に告げた。
『大丈夫だ、私を信じてくれ』
 今度は、しっかりとした意思をもった声でもって答えた。
 子猫はぴくぴくを耳を揺らして聞いていた。そして子猫はゆるりとまばたきを繰り返し、にゃあ、ともう一声鳴いたのち、ゆっくりとその瞼をとじた。
 まるで身を任せるようなその声と仕草に、エルヴィンは急いで子猫の身体に顔をよせた。子猫の黒い毛並みに、鼻先が触れるが猫パンチはもう飛んでこず、エルヴィンはそのまま子猫の襟首を細心の注意で咥え持った。ぜったいに死なせはしない。かたい決意を胸に、植木の枝が身体を打つのも気にせず全力できた道をもどった。



◇  ◇  ◇



『あ〜、いたいたエルヴィーン!』
 植え込みを抜けた途端、声が聞こえた。
 視線をそちらへとやれば、そこにはモーゼスたちの姿があった。植え込みから出てきたエルヴィンに、ぎょっとした表情を浮かべ近づいてくる。
「エルヴィン!なにやってんだお前!」
『ほんとだよ〜、もぉ』
『……なんだ、それは?』
 怒るモーゼスに呆れるハンジ。ミケはというと、エルヴィンが咥えているものにいち早く気がつき、興味深げにすんすんと鼻を鳴らした。少し遅れてモーゼスもエルヴィンが何かを咥えていることに気が付いたらしく、先ほど以上にぎょっとした表情を見せる。
「お前、なに咥えてんだっ!?」
 言いながらモーゼスは膝をついて顔を近づけ、すぐにそれが怪我をした子猫であるとわかると眉間にきゅっと皺を寄せて真剣な表情を浮かべた。
「子猫か、それ? 怪我してんか……」
『あぁ、そうなんだモーゼス。早く手当をしないと』
「だいぶ弱ってんな……」
『そうだ。だから早く、モーゼス!』
 言葉は通じないと散々わかっていても、エルヴィンは言わずにはいられなかった。子猫を咥えながら、ウゥ、ウゥ、と唸り訴える。早く早く!早くしろモーゼス!
 幸いにして、言葉自体は通じなくともモーゼスはエルヴィンがなにを言いたいのか、どうしてほしいのか、しっかりと理解してくれたらしい。がしがしと乱暴に髪を掻きむしりながら、モーゼスは大きな声で叫んだ。
「だぁああ、もう!クリスマスだってのに仕方ねぇな!走るぞお前ら!!」
 片手にリードを持ち直して、モーゼスはエルヴィンの口元に手をよこした。できることなら、自分で運んでやりたかったのだが、ここはモーゼスに任せたほうが良いだろうと判断したエルヴィンは差し出された手にそっと子猫の身体をのせた。
 子猫を胸元に抱えて、モーゼスは走りだす。
 その背中を追って、エルヴィンも走った。
 目指すは、すぐ近所にあるエルヴィンたちかかりつけの動物病院だ。
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