かちゃり、かちゃり、と爪がフローリングにあたって音をたてる。 何度も何度も。かと思えば、ふいに音は途切れ、しかしまたすぐに落ち着きなく断続的に再開する。その音はエルヴィンがうろうろと忙しなくリビングを歩きまわる音であった。 『もぉ、いい加減落ち着いたら〜?さっきからずっとうろうろし過ぎでしょ』 『心配なのはわかるが、いまは待つしかないだろう、エルヴィン……』 『…………』 『ちょっとエルヴィン!聞いてるのっ?』 『っ、あぁ…聞いているしわかってもいるよ、ハンジ。だが、わかってはいるんだが……、』 返事をしながらも、相変わらずエルヴィンはあっちへうろうろ、こっちへうろうろ、と足を止めようとしなかった。止めることができなかった。 まさしく飛び出すように公園から走り出したあのあと、たどり着いたかかりつけの動物病院はクリスマスにもかかわらず、営業曜日通りにその扉を開けてモーゼスたちを受け入れてくれた。慌ただしく現われたモーゼスたちに、やけに目力のつよい獣医は「なにごとですか」と顔をしかめたが、その手の中に納められた子猫を見ておおかたを察してくれたらしい。いくつかの質問を口早にモーゼスに投げかけたのちに、満身創痍の子猫は獣医の手に預けられた。 そうなってしまえば、エルヴィンにもモーゼスにもできることはもうなにもなく、待つしかない。それでもエルヴィン自身としては、なにもしてやれないにしてもすぐに駆けつけられるよう子猫の傍で待っていてやりたかった。 しかし、用のない犬が3匹もいたら邪魔になるだろうとモーゼスの判断のもと、子猫が治療を受けている間にエルヴィンはハンジとミケとともに家に連れて帰らされてしまったのだった。そしてモーゼスだけが、土で汚れたエルヴィンを手早く洗ってくれてから再び動物病院に向かって行ってしまった。 それからというもの、残された家のリビングでエルヴィンの歩き続ける音がさきほどからずっと止まないでいた。 『あそこの獣医さんなら私たちだっていつもお世話になってるし、大丈夫だよ!』 『ハンジの言うとおりだ。おっかない人だが、あの獣医なら大丈夫だろう……』 『あぁ、そうだな……しかし、』 安心させてくれようとハンジは明るく、ミケは重厚にそう言ってくれたのだが、いくら大丈夫だと言葉にして説明してもらっても、エルヴィンのざわつく胸はどうしたって落ち着いてはくれなかった。 痛い思いをしてはいないだろうか。心寂しく思ってはいないだろうか。怖がって鳴いてはいないだろうか。そんなことばかりが、気になって仕方がない。ただ待っていることが、ひたすらにもどかしい。 『んもう、あなたがそんな調子だから、こっちまで落ち着かないよ』 『同感だ……』 一向に落ちつく様子のないエルヴィンに、ハンジはお気に入りの巨人君人形をがぶがぶと乱暴にかじり、ミケはふぅとため息をつき、その場に伏せて目をとじた。 ハンジとミケの2匹が口を閉じてしまえば、部屋にはかちゃかちゃとエルヴィンが歩きまわる音と、かちかちと時計の針の音だけが響く。モーゼスが暖房をいれていってくれたからリビングは暖かく快適ではあるはずなのに、部屋をただよう空気はどこか気まずく落ちつかなかった。 ゆっくりと時間は過ぎていく。 窓越しに見える空は、太陽が沈んですっかりと暗くなってしまっていた。 まさか、このままもう一度太陽が昇るまで帰ってこないなんてことはないだろうか。 そんな考えがエルヴィンの頭の中に浮かんできた頃だった。タイミングよく、がちゃり、と玄関のドアが開く音がした。3匹は揃って、はっ、と顔を上げる。 「よぉー、帰ったぞぉー」 『っ!?』 そして続けて聞こえてきた声に、エルヴィンは拳銃から放たれた弾丸のようにリビングを飛びだした。あっという間に玄関にまで行くと、そこには待ちに待ったモーゼスの姿があった。片手に紙袋を、もう片手に小さなバスケットを持っている。 「くっそさみぃ、とうとう降ってきやがった、ちくしょうが……」 『モーゼス!あの子は、あの子はどうだったんだ!?』 「なんだエルヴィン、お出迎えかぁ?感心感心」 『モーゼス!!あの子はどうなったと聞いているっ!!』 がうがうがう、とエルヴィンは急かすように吠えたてる。 さんざん待たされたのだ。もう一分一秒だって待っていられなかった。 「騒ぐな騒ぐな、ちょっと待てって」 だが、そんなエルヴィンをモーゼスはマイペースに躱してリビングへと悠々と足を進める。じれったいその足取りにじゃっかんの苛立ちを覚えながら、エルヴィンはモーゼスの足もとにまとわりつきながら早く子猫はどうなったのか教えろと吠えつづけた。 「あー、もう、大丈夫だっつーの。あのちびすけなら、ほら、こん中だ」 うるさそうに顔をしかめながらソファにどかりと座り、モーゼスは手にしたバスケットを床におろして見せてくれた。 ようやく得られた回答にエルヴィンはモーゼスの手を押しのける勢いで早速バスケットの中を覗きこんだ。すると、そこにはふかふかのタオルに包まれてくぅくぅと眠る子猫の姿があった。汚れていた身体は綺麗になったおり、細い後ろ足には真っ白な包帯が巻かれている。 「怪我自体は大したことないらしいぜ。飯をいっぱい食わせて、たっぷり休ませりゃすぐ元気になるってよ」 『だってさ、エルヴィン。よかったね』 『…………、』 ハンジの言葉に返事はなかった。 エルヴィンはさっきまであんなに吠えたてていた口を閉ざして、バスケットの中の子猫をじっと見つめることに夢中だった。ふさふさの彼の尻尾だけがばさばさと振られて騒がしい。 まったく、どんだけ子猫に夢中なんだか。 ハンジとミケは互いに顔を見合わせて、無言で笑いあう。さっきまでの気まずげな雰囲気は、すっかりどこかへ消え去ってしまっていた。 『さてさて、ようやく帰ってきた噂の子猫ちゃん私にも見せて見せてー』 『……すん』 『なんだかんだ言って、じつはずっと気にはなっていたんだよね〜』 猫自体はべつにそう珍しいものじゃない。接することはあまりないが、散歩のときに何度か野良猫の姿を見たことがある。ただ、いつも冷静で理知的なエルヴィンがここまで気にかける子猫にハンジもミケも内心ではずっと興味津々だったのだ。 『うぉー、なにこれ!ちっちぇー!』 エルヴィンの横に並びバスケットを覗き込んだハンジは早速大声で騒いだ。 『たしかに、これはちいさい……』 『すげー!ちっちぇー!まじちっちぇー!』 『ハンジ、声が大きいぞ』 『あは、ごめーん!でもでも、本当にちっちゃくてさぁ!』 子猫は犬である彼らと比べて、だいぶちいさな身体をしていた。3匹の中では一番小柄であるハンジと比べても一回りも二回り以上もちいさく、一番大きなミケならば二口三口ほどかじってしまえばすぐになくなってしまいそうなほどにその身体はちいさい。 『こんなちっちゃいのに、ちゃんと生きてるんだよね?』 『あぁ、こんなに小さいが確かに生きている』 『すげぇ……!なんかわかんないけど、なんかすげぇ!』 『だからハンジ、声が大きい』 起こしてしまうだろう、とハンジを注意しながらも、エルヴィンの目は絶えず子猫を見つめたままでいた。 全身真っ黒だと思っていた身体はどうやら全身汚れていただけらしく、病院で手当とともにきれいにされた子猫は首もとから胸にかけての部分だけは真っ白な毛並みをしているようだ。ちいさな身体に見合ったちいさな前足には、さらにちっちゃな桃色の肉球。 かわいいなぁ、なんて思いながら、子猫が眠っていることをいいことにエルヴィンはじろじろと観察を続ける。そしてエルヴィンは、おや、と気がついた。同時にハンジがあれ?と首をかしげてぽつりと言った。 『子猫ちゃん、震えてない?』 『そう、だな……』 3匹の視線の先、静かに眠りつづけている子猫はハンジの言うとおり、ちいさくとだが、ぷるぷると小刻みに震えているようだった。 『寒いのかな?』 『十分、暖かいはずだがな……』 『でも震えてるよ?』 『あぁ、どうしたんだろうか』 3匹そろって首をかしげる。 暖房のつけられた部屋はぽかぽかと暖かい。くわえて、子猫はふかふかとしたタオルに包まれていて、とても暖かそうに見えた。けれど、子猫は震えている。 『怖い夢みてるとか?』 『だったら、起こしたほうがいいのか……?』 『いや、それはどうだろう』 怖い夢をみているのなら確かに起こしたほうがいいのかもしれないが、もしそうじゃないのなら、疲れきっているだろう子猫を起こすことはしたくない。 『えー、じゃあどうするの?』 『どうする、といっても原因がわからないとな……』 あーだこーだとハンジとミケが解決策を探る。 その間も、子猫はぷるぷると震えていた。時おり、もぞもぞと身じろいではタオルに顔を擦りつけている。その姿に、やっぱり寒いのだろうか…、と考えたエルヴィンは悩んだ末に、子猫を起こさないよう、そっ、と襟首を咥え持つと、その場に身体を伏せた。そしてそのまま胸元に子猫を抱き込むようにして丸くなる。 すると、子猫は暖かいほうへと誘われてか、無意識のままエルヴィンの胸元に身体をよせてきた。うにゃうにゃとちいさく何ごとか鳴きながら、身じろぎを繰り返す。 『…………』 『…………』 『…………』 しばらくの間、3匹とも無言のまま、じっ、と固唾を飲んで子猫を見つめた。 やがて、身じろぎを続けていた子猫は居心地のいい場所が見つかったのか、尻尾の先まで抱え込んで丸くなると、くぅくぅと穏やかな寝息をたてた。 震えは、どうやら止まっているようだった。 『うっわー!なにこれ!なにこれ!なんかかわいくね?子猫ってかわいくね!?』 『……すんっ』 『だよね!だよね!ミケもそう思うよねー!』 『……ハンジ?』 『あー、わかったわかりましたよ、静かにしてますよー』 エルヴィンに注意され、ぷーい、とハンジは拗ねたように顔を背ける。 けれど、それはあくまでポーズでしかないようで、すぐに子猫へと視線を戻すと尻尾をぱたぱたと左右へ振った。 『まっ、なにはともあれ、子猫ちゃんが無事でよかったね』 『まったくだな……』 頷くミケの尻尾もまた、緩やかに揺れている。 2匹とも本当に子猫の無事を喜んでいるのだろう。 エルヴィンは、ハンジとミケの優しさに笑みを浮かべながら抱えた子猫を優しさのこもった眼で見おろした。子猫の身体はちいさいうえに細く頼りないものであったが、出会ったときの死にかけの姿に比べれば、安らかに眠るその姿はエルヴィンの胸に暖かな温もりを灯す。 『……本当に、本当に無事でよかった』 もしも、あのときエルヴィンが見つけなかったら、この子猫はどうなっていたことか。 無事だとわかった今でも、その“もしも”を想像すると肝のあたりがひんやりとする。だからこそ、エルヴィンは子猫の無事をよりいっそう実感するようちいさな身体に顔をよせると、子猫の額を舌先でぺろりと撫でた。 (いまは、ゆっくりと休むといい) (そして元気になったなら、あの銀灰色の瞳をまた私に見せてくれ) |
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