あたたかな、ぽわぽわととてもあたたかな温度がした。
 柔らかくて、ふわふわとした感触が全身を包み込むようにして、とても気持ちがいい。
 あまりにも気持ちがよくてぬくいほうへぬくいほうへと意識をやると、今度はなにかに優しく頭を撫でられたような、そんな感触がした。
(なん、だろうか……)
 確認したかったが、心地のいい温度にとろとろとした眠気が全身にまとわりついて離れず、目を開けることができない。
 それでも、なんとかして身じろぎをすると、またしてもなにかが優しく頭を撫でてきた。
『まだ眠っていてもいいよ……』
 声がした。
 穏やかな声だ。 
 聞き覚えのある、けれど誰のものだかわからない声。
(わからない、こと、だらけ、だ……)
 ここはどこなのか。なにが頭を撫でているのか。声は誰のものなのか。
 なにもかもがまるでよくわからなかった。だがそれでも、優しい声が眠ってもいいと言っているのだから、きっとこのまま眠っていてもいいのだろう。
 あたたかさに身を任せて、身体から力を抜く。
『ゆっくりお休み……』
(……あぁ、おやすみ)



◇  ◇  ◇



『ん、に……』
 目覚めは、ゆるりゆるりとした、とても穏やかなものだった。
 いままで、こんな心地のいい目覚めなどあっただろうかと、そう思えるほどの穏やかな目覚め。全身を包むのは、ふかふかとしたあたたかな感触。その気持ちのいい感触に、全身で頬ずりをするようにして身じろぎをする。
 ふかふか、すりすり、ふかふか、すりすり。
 何度も何度も繰り返す。そして、あれ、と首をかしげる。
(なんか、ちげぇ……?)
 違和感を覚えて、ふにふにと前足でふかふかのそれを握りこみ感触を確かめる。
 たしかに、空色のふかふかしたこれはあたたかくて心地いいのだが、なにかが違うとそう思った。似たようなふかふかさだが、それよりももっとあたたかくて、もっと柔らかくて、もっと心地のいいものに包まれていたような気がする。
 ……気がするのだが、“気がする”だけで“確証”はない。
 やっぱりただの気のせいだろうか。なんだかもやもやとする想いを胸に抱きながら、自然と零れてくるあくびに、くわぁ〜、とおおきく口をあけた。
 まだ残る眠気を飛ばそうと、うにゃうにゃと前足で顔をこする。そのまま自然な流れで毛づくろいに移行しようとして、しかし、はたと気がつく。
(ここ、どこだ……?)
 ふかふかにばかり意識を取られていて気がつかなかったが、顔をあげて見渡した風景は、まるで見覚えのないものであった。

 とても暗いところにいたはずだった。
 とても寒いところにいたはずだった。
 そのはずだったのに、この場所はとても明るかった。
 空色のあたたかいふかふかを除いても、この場所はとてもぽかぽかとした空気をしていた。
(からだも、そんなにだるくない……)
 さっきまでは起きあがれないくらいに身体が重くてしかたがなかったのに、心なしか体が軽くなっている気がする。痛みもちょっとだけ軽くなっているような気がする。
 気がする、気がする。
 さっきからそんな気がするばかりでなにひとつ確かなことはない。
 だから、その“気がする”がただの勘違いではないことを確認しようと足に力をいれて身を起こしてみれば、ちょっとも動かせないはずだった身体はぎしぎしと所々痛みながらも動かすことができた。
『ぐっ……ッ』
 けれど次の瞬間には、ずきん、と鋭い痛みが後ろ足に走る。
 そういえば後ろ足に怪我をしていたんだった。すぐに思い出して、後ろ足に目をやると真っ黒なはずの自分の足に真っ白ななにかが巻きついていた。
(なんだこれ……)
 見覚えのないそれに顔を近づけ、すんすんとにおいを嗅いでみるとなんだかつんとした変なにおいがして顔をしかめる。
 くさい。くさいし、そのうえ邪魔くさい。
 取ってしまいたくて歯をたててかじってみるが、その真っ白ななにかはがっちりと巻きつけられていて取ることができなかった。ならば強引に取ってしまおうと力を込めてみるが、そうするとずきずきとした鋭い痛みが走って、やっぱり真っ白いそれを取ることはできない。
『くそっ』
 もういいっ。
 そんなことより、今はこの場所がどこなのか知ることが大切だ。

 ほとんどやけっぱちのような気分で真っ白なそれを諦めて、きょろきょろと辺りを見渡す。
 どれくらい寝ていたのかは知らないが、だいたいの感覚でいまはもうとっくに空が真っ暗になっている時間帯のはずなのに、頭上はとても明るい。地面は、その光を反射してどこもかしこもぴかぴかしたような色していた。
 きれいだ。けど、土ともコンクリートとも違う見たことのない地面の質感に、ちょっとだけ戸惑う。
『…………っ、』
 迷ったが、でも結局はここはどこか探るためにふかふかのこの場から移動することにした。
 ふかふかは箱のようなものの中に敷かれていたらしく、ふかふかとぴかぴかの地面のあいだにはちいさな高さがあった。いつもなら、なんてことのないちいさな高低差。けれど、いまはその差がとても大きなものに思えた。
 あまり痛くないほうの後ろ足をそろそろと光る地面に伸ばす。
 足が届ききらなくて何度か宙を空ぶったりしたが、徐々に徐々にと足を伸ばすとしばらくして足のうらの肉球に地面の感触がつたわってきた。
『よし……いてっ、』
 うまくいった!と思ったら、体重移動がうまくできなくて、最後は転げるように箱から落ちた。ずきずきずき!と身体に痛みが走ってしばらく身を丸める。
 けど、ぴかぴかの地面に降りることはできた。

 痛みが引いたころに顔をあげて、あらためて辺りを見渡す。周りは見たこともないようなものばかりがいっぱいあって、ここがどこなのかちっともわかりはしなかった。
(ほんとうに、どこだここ……)
 そろり、そろり、とどこへともなくゆっくり足を進める。
 ぴかぴかの地面はどうやら普通の地面とたいして違いはないようだったが、なんだかつるりとした感触がして、足が滑って少し歩きにくい。そのせいか、ちょっとも歩いていないというのに、すぐに疲れ果ててしまった。

 やっぱり、まだまだ本調子じゃない。
 早く回復するためにふかふかの場所に戻って休んだほうが良いだろうか、と思うのだが、その一方でどこともわからぬ場所でのんきに休めるはずがない、と野生の本能が警戒の信号を送る。それでも、やっぱり疲労には勝てない。
(つかれた……)
 くふり、と息をついて、その場に腰をおろし身も伏せる。
 せっかく暖かいふかふかから出たというのに、なにひとつ有益な情報は手にいれることはできなかった。それどころか、無駄に体力を消費しただけで、状況は進展しているどころか悪化しているのではないだろうか。
 身を伏せたまま、これからどうしようかと考える。
 その場その場でちょっとずつ休みながらさらに辺りを調べるか。それとも、もう少し頑張ってあのふかふかまで戻り体力を回復させてから辺りを調べるか。
 考える。でも、考えているうちに、うとうととしてきた。
 ――と、その時だ。かちゃかちゃ、と音をたててなにかが近づいてくる気配を感じて、耳がぴんと立つ。やばいっ、とすぐに顔をあげ、伏せていた身を慌てて起こす。
 しかし、身を起こし終えたところで、すでに“そいつ”は目の前にいた。

『ああー!子猫ちゃん起きてるー!』
『……ッ!?』
 目があった。
 かと思えば、とてもおおきな声が聞こえて、ぶわわっ、と反射的に全身の毛が逆立ち、尻尾がいつもの倍くらい膨らむのを感じた。
 見開いた目に映るのは、大きな大きな、ふさふさとした生きもの。
 いままで散々わからないことばかりだったが、そいつの名前は知っていた。
(犬だ……っ)
 外でよく見かける、すぐにわんわんとうるさく吠えてくる犬。
 声がでかいだけでなく、図体もでかくて力も強い、相手にすると厄介な生きもの。
 その生きものが、いま目の前にいる。
 すぐそばに。しかもその犬は1匹だけじゃなかった。茶色と白色をした大きい1匹に、それよりさらに大きく、くすんだたんぽぽ色の1匹が、一緒に並んでこちらを見ていた。
『あ〜ぁ、エルヴィンったらタイミング悪かったなぁ』
『あぁ、まったくだ。よりにもよって、このタイミングとは……』
『ほんとうにね!ご飯食べるのも我慢してたのに、ちょっとトイレに行った隙に起きられちゃうなんてさ〜』
『さすがに、これはちょっと同情するな……』
『ねぇ〜』
 2匹はこっちのことなどお構いなしにのんびりと会話を交わしている。
 なにを話しているのかはわからなかったが、会話の切れ目をきっかけにやたら騒がしい声をしたほうの犬がこちらに近寄ってこようとするのが見えて慌てて、ふしゃぁー!とおもいっきり威嚇してみせた。すると、その犬は首をかしげながら立ち止まる。
『あれ?なに?もしかして警戒されてる?』
『みたいだな。まぁ、無理もない……』
『なんでさぁ、べつになにかしようってわけじゃないのに!』
『相手は子猫で、それに俺たちは初対面だぞ?くわえてこの体格差だ。警戒するなって言うほうが無理な話だ……』
『えぇ〜、いじめたりしないってば。ねぇ?子猫ちゃ〜ん』
 またしても、騒がしいほうの犬が足を進めて近寄ってきた。
 ふしゃぁー!ともう一度威嚇してみせても、今度は立ち止まろうとしない。
『も〜、ほんとになにもしないってば』
 それどころか、身を低くして鼻先をこちら近寄らせてきた。
 その口元から覗く犬歯に、反射的に身を固くする。ぎゅっ、と全身に力をいれたせいで、また後ろ足にずきりと痛みが走った。だが、このまま黙ってやられるわけにはいかない!
 少しは軽くなったとはいえ、まだ痛む身体に鞭を打って、前足に神経を集中させた。近づく鼻先にじりじりと狙いをさだめる。

 きっとチャンスは1回きりだ。
 この身体では、たかが1発でもいっぱいいっぱいだろう。
 だから慎重に、とても慎重に相手との間合いをはかった。
 いますぐにでも引っ掻いてしまいたい衝動を、押えて押えていっぱい我慢する。
 腹のそこがぞわぞわぞわっとなっても、それでもまだ我慢した。
 そうやって粘りに粘って、そして、ここだ!と思ったところで前足を勢いよく振りあげる。

 ――が、その次の瞬間だった。

 振りあげた前足が目標に届くよりも早く、そいつとのあいだに“なにか”が立ちふさがってきたのは。金色で、まぶしい輝きをした“なにか”。
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