「リヴァイ?」 喋りの途中でふと止まってしまったリヴァイにエルヴィンは目を丸くさせた。どうかしたのかと顔を見やれば、ちいさな頭がなにかを探すようにきょろきょろと忙しなく動いていた。 「リヴァイ?どうかしたか?」 「……いま、声が聞こえなかったか?」 「声?」 「あぁ……」 「いや、私は聞こえなかったが……」 言いながらエルヴィンは耳をすましてみた。だが、聞こえてくるのは外でごぉごぉと降りつづける豪雨の音ばかりだ。リヴァイの言う声など聞こえてはこなかった。 「気のせい、か……?」 「……いや、もしかしたら私たちより先に誰かが避難しているのかもしれないな」 「あぁ、そうか」 その可能性があったかとリヴァイが頷く。そしてすぐにぱっと顔を上げた。その目には微かに期待が満ちている。エルヴィンは有無と頷き返すとすぅっと息を吸い、そして大きく声を張り上げた。 「誰かいるのかっ!!」 雨音に負けないくらいの大声。しかし、返事の声はなかった。自分が聞こえなかっただけだろうかと隣を見るが、目があったリヴァイは無言のままふるふると首を横に振る。ならば、こちらの声が聞こえなかったのだろうか。エルヴィンはもう一度声を張り上げた。 「…………」 「…………」 リヴァイと一緒に口を閉じて返事を待つ。だが、やはり聞こえてくる声はない。雨音さえ無視してしまえば、屋敷内はひどく静かなものである。 「…………」 「…………」 「……やはり誰もいないみたいだな」 「……みたい、だな」 頷きながらも、リヴァイは訝しげに首をひねっていた。 「やっぱり気のせいか……?」 「そうだな……あぁ、それか本当にゴーストだったりしてな」 「……あほ」 先ほどの話を蒸し返してみると素っ気ない一言だけ返して、リヴァイが歩き出す。屋敷内を散策するつもりだろう。エルヴィンはあほとは酷いなと笑いながらのんびりとその背中を追った。 ぎしぎし、と足をつけるたびに軋んだ音を立てる廊下を進むと、途中で大きな両開きの扉があった。開けてみるとその先はリビングのようだった。ボロボロなカーペットの上には同じくボロボロのソファ。床にはクッションのようなものがいくつか転がり、こじゃれた小さなテーブルの上にはガラス製の重たげな灰皿。壁には大きな暖炉があり、燃えカスの真っ黒な薪が今もまだそこにあった。 「思いのほか、きれいだな」 エルヴィンがしげしげと内装を見渡して言うと、リヴァイはむむむっと眉間に深々と皺を寄せた。 「どこがだ……」 「確かに埃で汚れてはいるが、家自体に傷はないと言っていい」 残された家には、巨人によって壊されてしまったものも少なくはない。だが、幸いとこの家には破壊されたような崩れはなかった。せいぜい壁や床の一部が腐って痛んでいるくらいだ。 「この分なら、じゅうぶん雨風もしのげるだろう」 「……なら、雨が止むまではここで待機か」 「そうだな、少なくとももう少し雨脚が弱まらなければ、動くのは危険だろうな」 「まぁ、そうだな……」 「リヴァイ、少しの辛抱だ」 我慢してくれ、と濡れた髪を撫でると、リヴァイは少しむすっとした表情をしながらもわかってると返事をした。だが、綺麗好きのリヴァイにはやはりこの屋敷の状態は我慢ならないのだろう。わかっていると言いつつ、ソファに目をやるとまたしてもむむむっと眉間に皺を寄せる。 「……しかたないな」 リヴァイの様子にやれやれと呟くが、口元には思わず笑みが浮かんでいた。 エルヴィンは入り口で二の足を踏むリヴァイを置いてリビングに入ると、一直線にソファのもとへ向かった。ソファに積もったほこりを払い、マントを脱いでその上に敷く。そして敷いたマントの隣に座ると、マントの上をぽんぽんと叩いた。 「ほら、リヴァイ」 「…………」 「リヴァイ」 もう一度名を呼ぶと、リヴァイは渋々と言った様子でリビングに足を踏み入れた。重い足取りでソファまでやってきて、ゆっくりとマントの上に腰掛ける。 「帰ったら、すぐに風呂に入りてぇ」 「それはいつものことじゃないか」 「いつも以上に風呂に入りてぇ気分なんだよ……」 ぶすっ、とリヴァイは不機嫌に口を尖らせた。眉間のしわが凶悪なまでに深いのに、どこか幼くて愛嬌のある表情。エルヴィンはふはと軽く笑うと慰めるようにして濡れた髪を撫でた。 そのままリヴァイの髪を指先に無意味に絡ませながら、エルヴィンはふぅと軽く息をつく。リヴァイは汚いとご立腹だが、この状況でこの屋敷と出会えたことは本当に幸運だった。まだ壁外とはいえ、ようやくつくことのできた一息に身体の緊張が解ける。 もう一度、ふぅと息を吐く。すると同じタイミングで横からもはぁと息をつく音が聞こえてきた。隣を見ると、リヴァイは背もたれに寄りかかって伏し目がちな表情をしていた。ともすればいじけているように見えるが、そうではないとエルヴィンはすぐに違和感を覚えた。 「リヴァイ……?」 声をかけると、リヴァイはやけにゆっくりと顔を上げた。 「……なんだ?」 「どうかしたのか?」 「なにがだ?」 「ずいぶん、重たいため息だったじゃないか」 「そう、だったか……?」 無自覚であったのか、リヴァイはことりと首を傾ける。 「それに疲れた顔をしている」 「そりゃ、まぁ……少し疲れてはいる、な」 お前もそうだろ、とリヴァイは言いながら再び息を吐いて、しょぼしょぼと瞬きをくり返す。 確かにリヴァイの言うとおりだ。壁外に出て、長く馬を走らせ、雨に降られた上に巨人と遭遇し戦闘を余儀なくされた。疲れないはずなどない。どれだけ身体を鍛えあげても、巨人との戦闘はごっそりと体力と気力を削がれる。 しかし、だ。疲労することは当然とはいえ、それを目に見えてあらわにするリヴァイの姿に、珍しいな、とエルヴィンは思った。くたくたに疲れ果てていても、リヴァイは滅多にそれを面には出さない。二人きりで隠す必要がないとしても、壁外でこうも無防備な姿をさらすなど、らしくない。 「リヴァイ、まさか怪我をしているわけではあるまい?」 エルヴィンは思わず顔を険しくして尋ねた。 「してねぇって、最初に言っただろ」 「本当か?」 「こんなことで、嘘なんざつかねぇよ……」 それはエルヴィンもよくわかっている。 自身が調査兵団において重要な刃であると自覚のあるリヴァイは、壁外で無意味に自身の体調を偽ったりなどしない。下手に隠して、いざという時に動けなくなってしまっては、失うのは自身の命だけではないのだと彼はよく理解している。 ただ、怪我による問題のあるなしの基準が人より緩いため、多少の怪我ならばそのまま押し通してしまうところがあるのもまた事実であった。兵団に所属し始めた頃は特にその傾向が強く、常人なら痛みに顔をしかめるような怪我を負っても、無表情のまま飛び続けた実績が彼にはある。エルヴィンの再三なる注意のもと、今はもうそんな無茶をするようなことは無くなったが、油断はできない。 どうにもリヴァイには自己犠牲的なところがあり、そもそも無茶を無茶とも思っていない部分がある。腕だけで言えば、誰よりも強い戦士であるのに、そんなところが少し不安定で放っておけない。そんなところが少し悲しくて愛おしくもある。 「体調は……?」 「問題ない、はずだ。少なくとも、出発前の体調は万全だ」 「そう、だな」 昨晩は共にいたから、リヴァイの体調に問題がなかったことはエルヴィンも知っている。原因はなんだろうか、考えている間にもリヴァイがふるりと震えた。手を伸ばし頬を撫でれば、ひやりとした体温が伝わる。 「雨で冷えたか?」 「さぁな……」 エルヴィンの心配もよそにリヴァイの反応は素っ気ない。 おかしいな、とエルヴィンは訝しんだ。雨に濡れれば、確かに身は冷えるだろう。しかし、今の時期、夜になってもむしむしとした暑苦しい日々が続いている。雷を伴う豪雨は厄介なこと極まりないが、ちょっと飛んだだけでも汗にまみれてしまう身には雨はある意味では心地良くもあった。 少なくとも、この雨に打たれて身を冷やすには、気温が高すぎる。実際に、雨に打たれたエルヴィンの身は生温い。しかし現にリヴァイの身体は冷えている。 エルヴィンはリヴァイの頬からその細い首筋へ手を滑らせた。頬と同じく首筋はひやりと冷たい温度をしていた。もともとリヴァイの体温は高くない。だが、それにしてもこの体温の低さは少し異常だ。 温めてやるように首筋を擦ってやると、リヴァイは懐いてくるようにエルヴィンの手の平にすり寄ってきた。 「大丈夫か、リヴァイ……」 「問題ないと言っている……」 しかしそうは言いながらも、リヴァイは瞼を下ろしては、はっとしたように目を開け、また瞼を重たげに下してはすぐに何度も瞬きをくり返す。 「いいよ、リヴァイ。少し、休んでいなさい」 「おい、人の話を聞いてるのか? 別に問題はない」 「いいから、言うことを聞け。特に問題はなくとも、今のお前の一番の仕事は体力を回復させることには違いないだろう?」 お前は要なのだと、小さなの頭を自分の肩に導いて髪を撫でてやれば、リヴァイは落ち着かないようにしばらくもぞもぞと身じろいだ。じぃ、と見上げてくる瞳は不満をあらわにしていたが、やがて諦めたように頭を預けるとそのまま身体の力を抜いた。 「なにかあったら、すぐ起こせよ……」 「あぁ、わかった」 「ちゃんと、おこせよ……」 「わかったから、ほら、今はおやすみリヴァイ」 「ん……」 おやすみ、と変なところを律儀に返して、リヴァイはその目を閉じた。 エルヴィンは幼子にするようにして、リヴァイの肩をとんとんと一定のリズムで叩いてやった。子ども扱いするなと文句を言われるかと思ったが、予想に反してリヴァイはなにも言わない。それを良いことに、とんとんと優しくたたき続けているとしばらくしてすぅすぅと静かな寝息が聞こえてきた。顔を覗きこめば、年齢の割に幼い寝顔が目に映る。 少しの間その寝顔を見つめてから、このままずっと眺めていたい気持ちを押さえて、エルヴィンも目を閉じた。眠るつもりはない。だが、視覚情報を遮断するだけでも体力は回復するものだ。そのかわり、少しの音も聞き逃さぬよう耳を澄ます。 ざぁざぁと相変わらず雨音がうるさい。しかし、その音に混じって小さなリヴァイの寝息が聞こえてくる。状況も忘れて、思わず穏やかな気持ちになってしまいそうな寝息。エルヴィンはふっと口元を緩めた。 だが、その一方でやはり他の仲間たちのことが気になってもいた。この豪雨の中、無事でいるだろうか。巨人に襲われた損害はいかほどのものだろうか。生きている兵士、馬の数。ガス、刃の残り。気がかりは山ほどある。しかし、いくら気にしたところで身動きの取れぬこの状況ではどうしようもない。 無事であるといいと願いながらも、エルヴィンはそれ以上仲間たちに気をやるのは止めた。最悪の想定はしておくべきだが、やきもきして無意味に心労を重ねても仕方がない。ただでさえ壁外では気力を消費しやすい。だからこそこれ以上、無駄に気力をすり減らすわけにはいかない。 リヴァイの寝息に合わせて時を数える。それだけでも随分と気分は凪いでいく。これが自分一人であったなら、もしくはほかの誰かであったなら、きっとこうはならなかっただろう。豪雨の中で救いの屋敷と出会えても、隣にリヴァイがいなかったら気が休まるどころの話ではない。そういう意味では、本当に不幸中の幸いであった。 そんな風に静かに数を数え続け、その数が四桁に突入したころだった。ふと隣のリヴァイが身じろぎをした。それと同時に、んん、と小さな唸り声。目を開けてリヴァイを見ると、眠っているにもかかわらず眉間の皺が復活していた。魘されているようだ。 起こすか起こすまいか。エルヴィンは逡巡する。だが、その一瞬のうちにリヴァイの目がぱちりと開いた。覗く月色の瞳。リヴァイの視線はまるでなにかをきょろきょろと探すように辺りを彷徨う。 そしてエルヴィンと目が合うと、彼はぽつりと言った。 「……なんか、きこえなかったか?」 |
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